ハンセン病患者の救済に生涯を捧げた、小川正子の記念館へ!

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今回は、またまたマイナーな博物館に関する記事になります!

山梨県には「笛吹市春日居郷土館・小川正子記念館」というこじんまりとした博物館があるんですが、この名称に含まれている「小川正子」という人物が、今回の焦点になります。

小川正子という人物、皆さんはご存じでしょうか??

彼女はハンセン病患者の救済に生涯を尽くした人物でした。戦前までは治療法が見つからず、偏見や差別に苦しみ続けたハンセン病患者に寄り添い続けた彼女の人生。

以下でまとめてみますので、ぜひ読んでいただければ幸いです!!

本記事のポイント

・小川正子は、ハンセン病の方々の救護に生涯を捧げた方
・高知を検診する旅の物語をまとめた『小島の春』で有名に
・当時の町長の想いによって、小川正子記念館は誕生した

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地味~な郷土資料館に併設

今回紹介する「小川正子記念館」は、本当にマイナーな博物館だと思います。笛吹市春日居郷土館に併設する形で開館しているこちらの博物館は、小川正子という一人の女性に焦点を当てているんですね。

博物館では、坂本龍馬とか吉田松陰など歴史上の超有名人を取り上げた場所はたくさんあるものの、世の中には全然浸透していないものの、郷土で偉業を成し遂げた方のも多く、とはいえ、小川正子はほとんど知っている方はいないんじゃないっすかね。。

ググってみても、この記念館に関して書かれたブログとかも見当たらないし。。

でも、私は書いていきますよ~~!!

記念館があるのは、上の地図で示した山梨県春日居町という場所。あまり聞きなれない地名だと思いますので、石和温泉の近くと言った方がわかりやすいかもしれません。

こちらがその建物なんですが、ん~建物はちょっと年季を感じる建物ですね。

言ってしまえば地味というか、よくある地元の歴史を紹介した郷土資料館的な感じですかね。ぶっちゃけ見た目は面白そうなものが展示してありそうには見えない。。

とはいえ、館内に入り左手に進むと、こうして「小川正子記念館」があるわけです。

正子に関する資料が展示してある

記念館はこんな感じでこじんまりとしており、小川正子という人物の生涯、さらには彼女が生前に使用していた品々や、ハンセン病に関する説明があるという感じ。

ハンセン病は戦後までは治療法がなく、強い伝染病だと思われていたため、患者たちはすさまじい偏見や差別を受け続けていました。正子はそんな患者たちに寄り添う人生を歩むと決めました。

そんな彼女の生涯について、展示物と合わせて紹介したいと思います。

キッカケは離婚だった!?

山梨県春日居町に生まれた小川正子

小川正子(おがわ・まさこ)は、1902(明治35)年3月26日に現在の春日居町桑戸にて生まれました。父は製糸工場を営む素封家(そほうか)、つまりお金持ちであり、県議会議員まで務めた土地の名士でした。

正子が実際に着た花嫁衣裳

子供の時から男勝りの性格だった正子。19歳のときに、母の強い勧めで樋貝詮三(ひがい・せんぞう)という男性と結婚。何で母親がそんなにこの男性を勧めたのかというと、彼は後に第三次吉田内閣の国務大臣になった超エリートであり、京都帝国大学出身の秀才官僚だったんです。

ところが、母の強い勧めで結婚したにすぎず、そもそも正子の意志は薄かったことから結婚生活はわずか二年三か月で終了。

東京女子医学専門学校の学生たち
(後列右より三人目が正子)

離婚したことで、正子は一人で生活していかなくてはいけなくなりました。つまり、経済的に自立する必要があるわけです。現代では専業主婦の方が少なく、夫婦共働き、つまり女性でも職場で働くことが当たり前となった時代ではありますが、正子が離婚したのは大正時代。

この時代は、まだ女性が働いて自立することが一般的ではありませんでした。。

そこで自分一人で生活していくために、大正13年の春、正子は東京女子医学専門学校に入学します。同先輩の女性たちがそろそろ卒業していこうとする年齢の時に、医者を目指しての入学でした。

そんななか、専門学校での日々を過ごし無事に卒業が間近に迫ったあるとき、正子は病院見学のため、現在の東京都東村山市にあるハンセン病の施設「全生病院(現:国立療養所多磨全生園)」を訪問することとなります。

そしてその時、これから岡山県の長島に建てられる日本初の国立療養所「長島愛生園」で園長を勤める光田健輔(みつだ・けんすけ)の話を聞いたことで、彼女はハンセン病という病に大変関心を持つことになり、これを機に、救らい活動に生涯を捧げることとなったのです。

宮崎駿監督も衝撃を受けた多摩の療養所

ハンセン病の由来となったG.Aハンセン

「ハンセン病とはどんな病か?」に関しては、以下の記事を見ていただければと思うんですが、簡単に言えば「抗酸菌(らい菌)によって引き起こされる慢性の感染症」 であり、症状としては、皮膚と共に末梢神経に病変が生じ、手足の運動機能の麻痺や感覚麻痺などの症状を伴います。

この病は紀元前から存在したといわれており、日本ではすでに治療法も確立されていることもあり感染することはないものの、現代でもインドやブラジルなどの海外では患者がいまだに増え続けています。

とはいえ、日本でも大正時代はまだハンセン病の治療法は確立されておらず、さらには偏見や差別も本人のみならず家族にまで及ぶ悲惨な状態でした。そんな彼らの存在を知り、正子は大きな衝撃を受けたのだと思います。

長島にある「長島愛生園歴史館」

そんな正子は、東京都東村山市で講演した光田園長の影響を受け、日本初の国立療養所がある岡山県の長島へと行く決意を固めることになります。

苦しんでいるハンセン病患者の方々に貢献したいと思ったからです。

それは、1932(昭和7)年6月12日のこと。

彼女は長島の国立療養所「愛生園」の園長である光田健輔(みつだ・けんすけ)先生にだけ「お手伝いさせて頂き度い」という手紙を差し上げたのみで、突然、長島の桟橋に現れました。

愛生園内の方々は、来ると聞いてない女性の医師が突然やって来たとことにビックリ。そうして「桟橋から来た娘」というあだ名がついたとか。

母親はこの正子の決意を翻そうとして親戚一堂にも説得するようにしたようですが、正子は夜汽車に乗って逃げてしまったそうです。

ちなみに、この全生病院は現在は国立療養所多磨全生園というハンセン病の療養所となっており、園内には国立ハンセン病資料館もあります。

そして小川正子と同様に、今場所でハンセン病の歴史に強く感銘を受けた方がいます。

それは、あのスタジオジブリで数々の名作を世に出した宮崎駿監督です。宮崎監督は、国立ハンセン病資料館(当時は高松宮記念ハンセン病資料館 )の近所に住んでいたことからこの資料館をたびたび訪問し、懇意にしていた元患者で資料館の開設や運営に携わった佐川修さんから、様々なハンセン病に関する話を聞いたみたいです。

その影響から、彼はあの超名作である『もののけ姫』に、ハンセン病のことを描きました。ハンセン病関連の資料館の方からは、『千と千尋の神隠し』もそうだと聞いています。

↑このYouTubeで映っている講演の際にも、宮崎駿監督は「ハンセン病患者の方々をもののけ姫の物語に取り入れた」という旨を涙ながらに語ってくれております。

宮崎監督が作品の裏側をこうして具体的に公言することはどのくらいあるのかわかりませんが、そうしてまでも、ハンセン病によって苦しめられた多くの方々がいた事実を伝えたかったのだと思っています。

ハンセン病患者たちの検診の旅へ

四国八十八か所を巡るお遍路。それは、信仰の旅であると同時に、職を奪われ、故郷を追われた人々の生活を支える旅でもありました。江戸時代以来、ハンセン病患者の方々は、お遍路をするために多くの方が四国へと渡ったようです。

四国には、お遍路を温かくもてなす風習があり、病者たちはこれに残る命の糧を求めたのです。しかし、長い距離を歩くお遍路ということで、体が不自由な患者には酷でもあり、途中で亡くなる方も多かったそうです。

ハンセン病の歴史はそうしたお遍路にも関わりがあります。

館内に建てられた正子の銅像
背景には長島の風景が用いられている

先ほども書いたように、山梨から岡山の地へとやって来た正子。
医務嘱託として採用された彼女は、光田園長から九州へ患者を引き取りに行く命を受け、その後には高知県へ赴き、未収容のらい患者を診察・収容するために遠征することになるのです。

正子が使用していた注射器
検診の旅を記録した『小島の春』

検診と病気の啓蒙を兼ねて各地で講演会を開いた正子。そうした旅路の中で出合った患者たちの物語は、『小島の春』という一冊の本に記録され、この作品が世に知らされるようになり、さらには映画化されたことで小川正子の名も知られるようになりました。

愛生園では波乱万丈!

故郷には二度と帰らないというほどの決意を固めて、愛生園へとやってきた正子。ただ愛生園では嬉しいこともあれば大変なこともありました。

そんな状況を物語る品々も、館内には展示されています。

正子との「約束の石」

こちらは、愛生園に入所していた二人の女性患者と正子にまつわるエピソードが詰まった二つの石。

二人が愛生園に入所したばかりの頃、遠く離れた故郷を想いながら近くの海を眺めていたとき、正子がきて「きっと家に帰れるから治療に専念しようね」と話して慰めてくれたそうです。

そしてそのとき、約束の証として海水に浸っていた近くの石を拾って二人に手渡してくれたとのこと。

正子が病気になり愛生園を離れた後も、二人はこの石を70年間も大切に保管しており、平成18年に当館が譲り受けたそうです。

愛生園で使われていた園内専用通貨

こちらは、長島愛生園で用いられていた園内専用通貨。

ハンセン病の療養所でなぜこのような効果が使われていたのかというと、それは逃走防止のため。外で使えるお金を持つと逃走する恐れがあるため、園内でしか用いることが出来ないこちらのお金を入所者は使っていたのです。

療養所が特殊な環境下であることを伝える展示物っすね。

そう、それだけ特殊な環境下だったということで、愛生園では事件も起きています。

正子が慕った長島愛生園の初代園長である光田健輔は、国がハンセン病救済を行うことになって誕生した国立の愛生園を患者たちのユートピアにしようとしました。

ハンセン病患者はこの時代、凄まじい偏見や差別を受けていました。当時は治療法が確立されておらず、さらには強い伝染病と言われていたことから、患者たちは療養所に入ると、その後、外の世界に出られる見込みはありませんでした。

そのため、長い入園生活になることから患者たちの「互いの和」が大事だったのです。こうして、「一大家族主義」を打ち出したのですが、それが昭和11年8月に発生する長島事件によって脆くも崩れることになります。。

長島事件とは、入園者たちによる大ストライキのこと。

島内にびっしりと建てられた建物

それは収容人員をはるかに超える入園者を受け入れた環境の悪化が原因でした。いわゆる定員オーバーですね。入園者たちは「新規患者の受け入れ拒否」と「待遇改善」「入園者たちの自治権」を求めるように様に気勢をあげ、これらの原因は「光田園長にあり」として、光田の退陣を求めたのです。

光田園長の忠実な部下だった正子は、この事件に大変戸惑うことになります。園長が掲げた「一大家族主義」は、脆くも崩壊してしまったのです。

結核で倒れ、故郷で療養生活に

そんな正子に、とある病が襲いかかることになります。

それは結核です。

まだ交通インフラが発達していなかった時代ということもあり、患者救済はかなりの過酷さだったことから、患ってしまったのです。。

36歳のときに患い、彼女は自主退職という形で愛生園を離れ、故郷の山梨県春日居村の実家へと戻ることになるのです。実家二階西側の二部屋が病室となり、ここで正子は療養生活を送ることになるのです。

実家には兄の子供、つまり正子の姪と甥がいたものの、「いいけ、よく聞けし。正子おばさんの病気はな、肺病という怖い病気なんだから、やたらにあの部屋に入っちゃダメだ。わかったな」と伝えられ、正子は大変な苦しみを味わったそうです。

記念館には、彼女が結核療養のために滞在した一室の一部が移築されています。実際は実家の屋敷内の二階の隅っこにありましたが、その辺はまぁいいっしょww

故郷へ帰ってきた正子
「療養小屋」と呼んでいた一室

この家で、正子は愛生園の患者に思いを馳せながら、室内にベッドを置き闘病生活をしていました。

そして故郷に帰ってきてから二年近くが経った1943年4月29日、正子は亡くなることになります。彼女の遺言により、近くの佛念寺に葬られることとなりました。

町長の想いから記念館が誕生

当時の町長の想いから記念館は誕生した

小川正子記念館が誕生には、当時の春日居町長が岡山県の「長島愛生園」を訪問したことが大きなキッカケとなっております!

その時は小川正子が亡くなってから40年近くの歳月が流れており、岡山県では「郷土に輝く人々」の一人として中学校副読本にも載っておりその偉業が語り継がれていました。

小川正子はこの春日居町出身でありながら、他県で顕彰されているのに春日居町ではそういった活動が行われていないということが、記念館建設の運びとなったようです。

年間でどのくらいの方が訪れるかわかりませんが、私が滞在していた時は誰もいなくガランとしてました。

多くの方がこの記念館の存在を知り、彼女の生涯に感銘を受けることでこの記念館の存在意義があるかと思います。

最後に、彼女の簡単な年表を載せて、記事を終わりにしたいと思います。

小川正子の略年譜
明治35年:3月26日に、山梨県東山梨郡春日居村桑戸に生まれる。
大正3年:3月、春日居尋常小学校卒業。
大正7年:3月、山梨県立甲府高等女学校卒業。
大正10年:4月、樋貝詮三と結婚。
大正13年:4月、東京女子医学専門学校入学。
昭和4年:全生病院を見学し、救らいの意志を固める。
昭和7年:念願の岡山県・長島愛生園に勤務。
昭和8年:九州へはじめての患者検診の旅に出る。
昭和11年:土佐へ患者検診の旅に出る。この旅の体験が、『小島の春』に集約される。
昭和13年:結核で倒れる。
昭和18年:4月29日に逝去。

おわりに

今回は、山梨県春日居市に「小川正子記念館」があるということで、その記念館の紹介を兼ねて小川正子の生涯にも触れました。

とはいえ、ハンセン病の救護に尽くした方は、小川正子に限らず大勢がいました。ただ、『小島の春』によって名が知れ渡ったことで、こうして彼女の記念館は誕生したに過ぎないということです。

歴史上に名が残る方々だけでなく、名が残らなかった、あるいは世に広まらなかったとしても知っておくべき方々はたくさんいます。有名な人だけを知れば、世の中のことがわかるってわけでもないわけです。

どれくらいの方にこの記事を見ていただけるかわかりませんが、一人でも、この小川正子の生涯、そして昔はハンセン病によって苦しんだ方々がいたということを知っていただけると幸いです。

参考文献

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詳細・地図

住所 山梨県笛吹市春日居町寺本170-1
入館料 一般・大学生:200円
小中学生・高校生:100円
開館時間 09:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日 火曜日・祝日の翌日
駐車場 無料
電話番号 0553-26-5100
リンク https://www.city.fuefuki.yamanashi.jp/shisetsu/museum/003.html

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