中山道最大の難所に架けられた「めがね橋」の勇姿を見た!

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)

ういっす!!

今回は、群馬県安中市にある鉄道遺産「めがね橋」を訪問した記事になります。

めっちゃ久々に端に焦点を当てた記事になりますが、橋やらトンネルやら、昔は鉄道を通すために今みたいに技術が確立されていなかったこともあり多くの苦労や犠牲を払ってこうしたインフラを整えてくれていました!

んで、今回のめがね橋がある碓氷峠は、中山道屈指の難所であり、このめがね橋はそんな場所に架けられたんですね。

今でもこの橋は遺構として残されており、橋の上を散策できたりする緒としたスポットになっているので、ここの歴史と合わせて紹介しますね~(*´▽`*)

本記事のポイント

・めがね橋は、明治24〜26年の二年間で造られた
・難所だった横川〜軽井沢間にアプト式の鉄道を通るために建てられた
・今も橋は当時のまま残され、橋自体は歩いて渡ることができる

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山奥に残るレンガ造りの鉄道遺構

ということで、今回は「めがね橋」という遺構の記事になるわけですが、場所はここになります。群馬県安中市と言われてもピンとこないかもしれないですが、横川駅からすぐ、あるいは軽井沢の東って聞くとなんとなくわかるでしょうか??

安中市のこの辺りは、以前も超有名駅弁『峠の釜めし』を販売している荻野屋、あとは超秘境に位置する明治17年創業の旅館『金湯館』に関する記事を書いたりしてました!

ということで、この辺りは結構ネタになる場所が多いんですが、今回は中山道最大の難所だった碓氷峠に鉄道を通した際の鉄道遺構を紹介するんですね!

国道18号線をひたすら長野方面に走り、さらに旧道に入って山の中を進んでいくと、その遺構は現れます!

明治25年に竣工した「めがね橋」

おーーーーー、すげー!

道を走ると、突如現る巨大橋梁。写真だけではその迫力が伝わりにくいかもしれないですが、赤レンガで造られた、凄まじくもあり、そして美しくもある建造物っす。

現地で見るとすごい迫力っす!!

この「めがね橋」は、碓氷第三アーチと呼ぶそうで、アプト式を採用した碓氷線を開通させるべく、明治24~26年のわずか二年の間に造られた橋梁とのこと。

物凄い数のレンガが積まれていますが、この橋だけでも202万8000個のレンガが、そして720樽ものセメントが使われています。

そんなめがね橋は、ただ橋を眺めるだけでなく橋の上を散策することができるんですね!

ちなみに私が訪問した日はスンゲェ豪雨でして、もう足元はビッショビショ。。せっかく来るなら晴れた日に来たいところですけどね、、家から近くにあるわけでもないので、ここは強行突破です。。( ;∀;)

この階段を上る

旧国道18号線からほんの少しだけ山道を進むと、こんな階段が現れます。この5分とかからない階段を上るわけです。

かつて鉄道が走っていた遊歩道

おーーー、橋の上はこうなってるんですね!!

まぁこれだけ見るとただの歩道なわけですが、ここには1963(昭和38)年までレールが敷いてあり鉄道が通っていたわけです。しかも、中山道最大の難所だった横川〜軽井沢間に鉄道を敷くために先人たちが苦労に苦労を重ねた努力の結晶なんすよね。

多くの山が立ち塞がる場所を通しているため、この碓氷線には多くの隧道(トンネル)と橋梁があるわけですが、これらのトンネルはこうして明かりが灯っていて、散策することができるんですよ!!

何かがあるというわけでもない・・

こんな感じで明かりがついていて歩くことができますが、何かあるわけではなくひたすら歩き続ける感じです(笑)

横川駅〜旧熊ノ平駅

この遊歩道はどこまでつながっているかというと、横川駅からお隣の旧熊ノ平駅まで6km近くの距離を散策できるようです。結構長いな。。

せっかく来たわけですし、記事にもしたいのでできる限り全部散策したいところではあったんですが、ちょっと時間の関係もあって今日は無理でした。。

夜は懐中電灯が必要です

ちなみにですが、ここは常時明かりがついてるわけではなく、午後六時に消灯するようです。まぁ夜中にここ来る強者はそういないっすからね。

節電、、大事っす!!

こういうトンネルとかだと心霊スポットみたいな感じで紹介されがちですがどうなんですかね??さすがにDQNがスプレーで落書きしたりみたいなことはないみたいですが、トンネルってやたらと心霊スポットに紐付けられる印象がありますわ。。

めがね橋はこういった感じでちょっとした散策が出来るわけですが、ちょっとここからは、この場所の歴史を学んでいくことにしましょう!

この碓氷線がどのような背景で誕生したのかについて!!

その際に参考になったのが、清水昇著の『碓氷峠を超えたアプト式鉄道』です。

この碓氷線誕生に関してどんな背景があったのか、この本に書かれている内容や碓氷峠鉄道文化むらを訪問して得た知見などをもとに以下でまとめてみようと思います( ̄▽ ̄)

生糸を運ぶために鉄道を通す

多くの観光客が訪れる軽井沢

今や車を利用すれば、東京方面から長野県軽井沢町に向かうには、練馬ICから関越・上信越自動車道を利用すると、二時間半近くで碓氷峠を超えて碓氷軽井沢ICにたどり着けるし、北陸新幹線を利用すれば1時間ちょいで軽井沢駅に到着できるんですよね!

先人たちが交通の便をよくしてくれたおかげで我々の移動範囲も格段に広くなった昨今。

その鉄道は、1872年に新橋〜横浜(今の桜木町駅)間に開通したのが始まりでしたが、そうしたなか、西と東の大都市を結ぶ幹線を作ろうという計画が進むことになります。この東京と京都を結ぶ幹線の経路には東海道と中山道の二通りが候補に上がり、ルートを決めるべく調査を進めることに。

東海道(約535km)と中山道(約495km)を比べると、中山道の方が40kmほど長くなるものの。

しかし、西南戦争などで莫大な軍事費が必要となり資金面でとん挫。

ただし、この中止を受けて、民間の手で鉄道を建設する動きが起きました。明治14年2月、岩倉具視ら16人が発起人となり日本鉄道会社の創立願書を政府に提出。全国に幹線鉄道を建設する動きが起きるなか、日本鉄道会社は初の鉄道建設に上野〜高崎間を選択するのです。

前橋や高崎で大量生産されていた生糸

なぜ上野~高崎間を選択したかというと、製糸産業が盛んな高崎・前橋エリアからの生糸を横浜に大量輸送し、輸出の増大を見込んでのことでした。

世界遺産となった「富岡製糸場」

この辺の生糸産業関連の施設といえば、世界遺産にもなった富岡製糸場、田島弥平邸、高山社跡、荒船風穴などが知られていますよね。

外貨獲得の大きな産業となっていた生糸ですが、高崎や前橋からの生糸を横浜に大量に輸送し、横浜港から海外に運ぶことで輸出の増大を狙ったわけです。

民間の日本鉄道会社が政府から鉄道建設の委託を受けて上野〜高崎間の建設に着手すると、さらに高崎〜大垣までの中山道を経由して岐阜県まで抜けるというルートがようやく官設で決定。決定した理由としては山県有朋が高崎〜大垣間の鉄道建設の決議書を政府に提出した理由が大きく、その背景には軍隊の輸送における軍事上の観点が大きいと『碓氷峠を超えたアプト式鉄道』には記載されています。

中山道のルート

そんな中山道は、東京の日本橋から浦和、熊谷、高崎、坂本、軽井沢、塩尻、木曽福島、垂井などの山岳地帯を経て森山を経て草津で東海道に合流するルート。

そのルートに鉄道を通すべく東西両端から工事が進んでいったわけですが、横川〜軽井沢間を残すルートを残して完成するも、このルートを残して建設工事は一旦中断。。急遽、東と西を結ぶ幹線ルートは東海道に変わることになるのです。

当時の鉄道建設技術では、碓氷峠を攻略することができなかったようです。

中山道ルートに立ち塞がった碓氷峠

東海道線のルートにおいても、箱根周辺の山々や富士川、大井川、木曽川などは当時の技術では大変な難所とされていました。

箱根周辺では、当初は国府津〜沼津間のルートは足柄方面(現在の御殿場線のルート)を通していましたが、傾きがネックとなり輸送量に限界がきていたことから熱海ルートに変更になって現在に至っています。その際には、丹那断層が立ち塞がり、16年もの歳月を経て多くの犠牲者を出しながらも丹那トンネルを開通させたなどの苦労話しがあります。

理由の一つに、横川~軽井沢間、つまり碓氷峠の鉄道建設の難しさが立ちはだかっていたからでした。横川~軽井沢間は11.2kmの距離に対して、高低差が553メートルもあり、当時の建設技術からしては大変難しかったんですね。

そんな分断された魔の横川〜軽井沢間。鉄道建設が長期化されると予測されましたが、建設までの間にも旅客・物資輸送の需要はあるということで、この区間だけに馬車鉄道が通ることになります。

横川〜軽井沢間を結んでいた碓氷馬車鉄道
引用元:『碓氷峠を超えたアプト式鉄道』

明治20年に、前橋の高瀬四郎と高崎の矢島八郎が発起人となり「碓氷馬車鉄道」会社を創設。「とりあえずこの区間は馬車で繋げておいて、その間に鉄道建設を頑張ってちょうだい!」ということです。

そして工事が進められ、明治21年8月9日に横川〜坂本間を仮営業開始し、一ヶ月後の9月5日に横川〜軽井沢間の敷設が完了。全線での営業が開始されました。

アプト式を使って難所を攻略!

とりあえず馬車鉄道が営業開始したことで東京から岐阜・新潟方面へのアクセスは結ばれたっちゃ結ばれたものの、その間に馬車鉄道区間である横川〜軽井沢間の鉄道建設を進める必要がありました。

しかし、碓氷峠はとにかく傾斜が急だったことがとにかくネックという。。

鉄道では、勾配を水平距離1,000メートルに対する高低差を表わし、記号では‰(パーミル)を用いています。碓氷線の全長は11.2kmですが、最大勾配は66.7というもので他に類を見ない急勾配でした。

この急勾配をどうやって攻略するかが悩ましいところでしたが、その答えはドイツにあったのです。

ドイツではアプト式ラックレールと言われるレールの発明があったんですね。

横川〜軽井沢間に取り入れられたラックレール
(線路の中央に敷かれたギザギザのレール)
引用元:『碓氷峠を超えたアプト式鉄道』

これは、ドイツのハルツ山鉄道が60.6‰の勾配区間に用いていたもので、スイス出身の技術者であるロマン・アプトの考案によるもの。急こう配の線路間の中央に歯形のレール(ラックレール)を敷設し、蒸気機関車の車軸に取り付けた歯車(ピニオン)とを嚙み合わせて運転するのです。

そのアプト式を用いて、横川〜軽井沢間の急勾配に、26か所の隧道(トンネル)と18か所の橋梁(きょうりょう)を建設することになりました。橋梁は18か所のうち17か所がレンガ式のアーチ橋。

202万8000個ものレンガが用いられた

そして、ようやくここで今回の焦点となる「めがね橋」が登場するんですが、ことき建設された、17か所のレンガ式のアーチ橋の中でも、一番長い橋となったのが碓氷川に架設された第三号アーチ橋であり、これが今でいう「めがね橋」なんですね!

改めてですが、とにかく見ただけでも「すげぇもん造ったな!」と思ってしまうこの橋は、202万8000個ものレンガを、そして720樽ものセメントが使われました。

日本最初のアプト式機関車
引用元:『諦めない経営』

そんでこのアプト式というのは、真ん中の歯形のレールに噛み合わせて進むわけですが、そのためには専用の蒸気機関車を接続して車両を引っ張る必要がありました。

ということで、ドイツのエスリンゲン社に車両を発注。横浜に陸揚げされ、新橋で組み立てられて横川へ運ばれました。

しかし、翌日の試運転でラックレールにピニオンが噛み合わず、調べてみるとピニオンの左右が間違って取り付けていたという超ポカミスにより、再度新橋に運んでやり直しなんてこともあったようです。

そんなことがありつつも、二年の試運転を経て、明治26年に碓氷線は開通することになりました!!

これにより、ようやく中山道が鉄道で繋がれたわけです!

トンネル内が煙地獄に・・

とはいうものの、鉄道が通ったといっても今の鉄道と比べると問題山積み状態でした。。

蒸気機関車だった時代ということもあり、機関車からモクモクと吐き出される煙が大きな問題となったんですね。。なんたって、碓氷線は山々をトンネルでぶち抜いている箇所が多く、トンネルを通過する際、トンネル内は煤煙まみれの地獄の世界と化していたわけです。

開通当時は煙地獄の中を運転していたようだ

煤煙や亜硫酸ガス、そして熱気が乗務員の目や鼻を襲い、機関室はまさに灼熱地獄。そんな窒息死しかねない命がけの業務だったため、一往復ごとに危険手当が支給されていました。。

ただ、その被害は、乗務員のみならず乗客にも。。

機関室のみならず客室も貧弱な木製で煙が客室になだれ込んでくることから、乗客は、隧道に入るや窓を閉め、抜けると窓を開けて空気の入れ替えをするということで、景色を見る余裕もなかったそうです。そんなこともあり、軽井沢駅には亜硫酸中毒患者用の救急箱が用意されていたとか。

もう今の時代の我々からすると考えられないですよね。でも、それはそうした時代からより快適になるようにと先人たちが努力してきた結果なんですね。

そんな煤煙対策をすべく、あるトリッキーな方法が取り入れられていました!

それは、煤煙防止対策として取り入れられた「排煙幕」の設置です。

第1号隧道の引き幕。右脇には隧道番が立っている
引用元:『碓氷峠を超えたアプト式鉄道』

「排煙幕」とは上の写真に写ってるやつっす!

イギリス人のF・Hトレヴィシックが考案した方法で、その仕組みは下り列車に限ったもので、隧道の入り口に大きめの幕を設置し、そこに隧道番を置いて、客車が通り黒煙を吐いて最後部の蒸気機関車が隧道に入り終えると、隧道番が間髪入れずに幕を引いて外からの空気を遮断するのです。

列車がトンネルに入り切った直後に空気の流入を遮断することで、隧道内での機関車の煤煙を列車方向に流れなくして、機関士と客室への煙害を緩和させるのが目的でした。

ということで、上の写真のようにトンネルの脇には隧道番という役割の人がいました。入り口脇の番舎を兼ねた官舎にて寝起きしており、一昼夜交代制だったそうです。ここで暮らすってかなり孤独な世界な気がしますが、この隧道番は明治45年に碓氷線が電化になるまで続いたそうです。

廃線、そして新幹線開通へ・・

碓氷線が電化されたあと、日本は太平洋戦争を経て戦後には復興の道を進んでいくことになりました。すると国鉄の輸送量も急激な伸びを見せ始め、軽井沢の避暑地へと足を運ぶ人が増えていったことから、アプト式の横川〜軽井沢間がまたまたネックになってきたのです。

アプト式で線路を通したとはいえ、輸送力が追いつかなかったんですね。

谷の向こうには新線の橋が見える

さらには老朽化や保守の観点からも、そうした点を考慮した上でより輸送力の増加に耐えうるルートにする必要があり、昭和38年に新線へと切り替えられることになりました。

今でもその新線は、めがね橋から拝見することができます。

とはいえ、碓氷線は北陸新幹線の開通もあり、平成9年に109年続いた歴史に幕を閉じることになりました。中山道最大の難所と言われ、先人たちが線路を通すべく挑み続けた碓氷線。今では幾らかの遺構が残るのみとなっていますが、多くのドラマがここにはあったわけです。

とはいえ、それに比べるとひたすら道が続いている線路跡はなんだか味気ない気もしてしまいますけど、遺構が残ってるだけでもいいんですかね。とはいえ、この辺の歴史は「碓氷峠鉄道文化むら」に行けばわかるんですけどね。

そんなトンネルには何があるかというと、、

作業員の退避所だったり、

あとはレンガの積み方がイギリス積みというのも、見ておきたいポイント。

壁が幅れてるか所もあった

ちなみに、先ほどは「蒸気機関車が吐き出す煤煙によってトンネルが煙まみれに!」という話をしましたが、それにまつわる話としてこんなものもあったようです。

これまでの蒸気運転であると、乗車中の美人の如きはこの峠にさしかかり二十幾つの隧道を潜ると、せっかく苦心した紅粉の装いなども石炭の煙とトンネルの煤(すす)のために台無しとなり、ここを越せばすぐ顔を洗っておつくり仕替えなければ恋人に嫌われてしまうと云う。

引用元:碓氷峠を乗り越えたアプト式鉄道 p148

乗り心地の快適さと風光明媚な車窓の景色が新聞でも取り上げられ、随分改善はしたものの、機関車故障は断続的に発生し、関係者はその対策に困り果てていたようです。

今の時代は本を読んだり、あとはスマホいじってればいつの間にか駅に着くわけですが、そう考えるとなんて今が幸せなことか( ̄▽ ̄)

どの角度からも見応えがある

そして横川〜軽井沢間の輸送を支えたこの橋は、今でも堂々たる佇まい!

どっから見ても、その勇姿には目を見張るものがあります。カメラのシャッターが止まりませんことww

帰って写真フォルダ見たら同じような写真を何枚も撮ってました(笑)

おわりに

はい、以上になります!

上記で説明したように、この場所は無人でいつでも訪問できる場所ではあるので、ここを通る際には是非立ち寄ってみていただければと思います。

簡単な説明が書かれた説明書きがあるだけではありますが、本記事で説明した背景を知った上で訪問すると、より楽しめるのではないでしょうか。

熊でなくてヨカッタ・・

ちなみに、この付近はクマが出るそうですよ!!

まぁ滅多に遭遇することはないと思いますが、うん、会わなくて良かったっす。。( ;∀;)

1999年に開館した「碓氷峠鉄道文化むら」

んで、次の記事はこのめがね橋にも関連がある『碓氷峠鉄道文化むら』という博物館を取り上げたいと思います。横川駅のそばにあった横川機関庫の跡地に造られた鉄道博物館で、碓氷線の歴史を学べる場所となってるんですよ!

ではでは、また次の記事でお会いしましょ〜〜!

参考文献

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詳細・地図

住所 群馬県安中市松井田町坂本
開館時間 24時間訪問可能
駐車場 なし(近くに無料駐車場あり)
アクセス JR横川駅から徒歩1分
リンク https://www.city.annaka.lg.jp/kanko_spot/megane.html

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コメント

  1. 16ビートたけし より:

    軍事上の観点が大きいというより、東海道は海っぺりで敵国の攻撃に晒されやすいから中山道ルートで建設しようとしたんですな

  2. 山本洋信 より:

    素晴らしい記事でした。
    文章もお上手ですし、内容も充実していて勉強になりました。
    勿論写真も素敵です。
    ありがとうございました。

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