人生を懸けた長岡京発掘!中山修一記念館でその人生を学ぶ!

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かつて、「幻の都」と言われた都がありました。

それは、京都府にあった「長岡京」というわずか10年ほどしか存在しなかった都だったこともあり、長い間その存在は謎に包まれていたのです。

その長岡京を発掘・発見したのは中山修一(なかやま・しゅういち)という人物でした。自身の生涯を長岡京発掘に懸け、見事その存在を明らかにした知られざる偉人!

京都府の長岡京市には、その中山修一先生の功績をたたえた「中山修一記念館」があるんですね。んで、スタッフの方から色々中山先生のことなどを教わってきましたよ!

ということで、その男の生き様を以下で紹介していきたいと思います(*’▽’)

本記事のポイント

・中山修一は長岡京の存在を明らかにした偉人
・病に倒れ闘病生活中であっても発掘に情熱を注いだ
・こじんまりとした博物館でスタッフの方が超親切

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ひっそり佇む記念館

中山修一記念館があるのは、京都府長岡京市。

今まで知の冒険の取材で京都はよく訪れてはいますが、京都というと市の中心部とか北側に行くことが多く、この辺に来るのは初めてだった気がしますな~。

この記念館は閑静な住宅地にある博物館。訪問すると早速スタッフの方が出迎えてくれて、受付を済ませ展示室へと進むことに!!

中山修一記念館の館内

こちらが記念館の展示室。

実はこの博物館は中山先生の邸宅の一部なんですって。中山先生が1998(平成9)年に81歳でこの世を去ったあと、ご遺族から建物の一部を長岡京市に寄贈していただく形になり、2002(平成14)年から中山修一記念館としてオープンしているそうです。

なので、記念館としての展示スペースはここだけっす。

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とてもこじんまりとしている博物館ではありますが、2018年には来館者数が四万人にも達したそうですよ。

この博物館、どのくらい有名なのかはわかりませんが、こじんまりではあるものの多くの方が訪れてるんですな~。

団体さんと一緒に説明を受けた

早速スタッフの方に解説していただこうと思ったら、直後に団体客の方々が訪問。ということで、その方々と一緒に長岡京や中山修一先生に関することを色々と話してくれました!

ではでは、ここからは記念館の展示物と併(あわ)せて長岡京、そして中山修一先生の人生について学んでいくことにしましょ~(*’▽’)

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十年しか存在しなかった長岡京

ちなみにですが、今でこそ歴史に興味を持っていろいろ勉強している私ですが、小さい頃はまったくもって歴史に興味がなかったので結構基礎が抜けていてですね・・( ;∀;)

なので、私も長岡京についてはマジで何も知りませんでした(笑)

長岡京の復元図

長岡京は、東西が4.3kmで南北が5.3kmの範囲にあった都でした。他の都と比べると、平安京と同じくらいの広さであり、平城京よりは広かったって感じですかね。

今では区画整理によって当時の区画は残っていませんが、条坊制という条里制よりも長~い区割りになっており、上の地図の赤い線で描かれたような区画だったそうです。

十年しか存在しなかった・・

そんな長岡京は784年~794年までのわずか10年間しか存在しなかった都でした。前の奈良時代には74年間も奈良に都が置かれており、後の平安時代は400年も続いていたんですね。

わずか10年しか存在しなかったことで「幻の都」「未完の都」とも言われており、スタッフの方が学生だった頃は学生時代の教科書に長岡京のことは載ってなかったそうです。奈良時代の次は平安時代だと習っており、その当時は世の中にその存在を認められていなかったんですって!

1955年に中山先生が鮮やかな黄色い石を発見し、これを専門家に見てもらったところ、「役人が政務を行う朝堂院の門の一部だった」ことが判明して長岡京の存在が揺るぎないものになったそうです。中山先生の労力によって長岡京の存在が認められているわけですが、それはわずか60年前のことなんですね!

館内に掲示してある長岡京略歴

そしてわずか10年しか存続しなかった長岡京ではどのような出来事が繰り広げられていたのか。館内にその詳細が展示されていたのでそのまま載せておきます。

私、この辺の時代に関しては本当に知識が無くて、この辺の略歴見ても何も話しを広げられないというね。。

皆さんはどうです??

「ふ~~ん」って感じです??(笑)

発掘に捧げた中山先生の人生とは

発掘に人生を捧げた中山先生

長岡京の発掘に生涯を懸けた中山修一先生。その81年の生涯にはどんなドラマがあったのか、簡単にですが学んでいくことにしましょう!

昔からの歴史好き

館内には略歴も詳しく展示されている

中山先生は、1915(大正4)年7月19日、京都府長岡京市久貝三丁目で、五人兄弟の長男として生まれました。子供の頃は体が弱く、神足尋常小学校(現:神足小)に入学した後も、体育の時間は体調不良でしばしば休んでいたという。

そんな彼を歴史の道に誘うきっかけになったのが、担任だった小山恭二郎先生でした。この先生が好きだったことや、中山家の所有地に、今は史跡となっている恵解山古墳があったり、近くに勝龍寺城跡があったりしてそれも歴史に興味を持つきっかけの一つになったようです。

京都師範学校(現:京都教育大)を卒業したあとは小学校の先生になるものの、すぐに日本は太平洋戦争の道へ。そこで中山先生も兵役につくことになります。

が、この兵役では青年学校の指導員をさせられ、その内容は青年を引き連れて長岡京市の北側にある向日町の山野を走り回り、距離の目測の仕方を教えるなど訓練に汗を流しました。これで、向日町一帯の地形や距離がおおよそつかめ、このことが後の長岡京の研究に大いに役に立ったのです。

内裏築地回廊の現場にて(昭和42年)
中山先生は一番右

その後、本来就きたかった中学校の教員になるも、「もっと勉強がしたい」ということで京都大学を受験し、文学部史学科に入学。とはいうものの、このとき先生は30歳になっていて、二児の父親でもありました。

傍からすると「結婚して子供もいるのに、何で大学に行くんや!働けや~!」って言われると思いますが、ただ、この京都大学で研究したことが長岡京発掘の下地になっていったんですね~。

京大を卒業後したあとは、大学院に通う傍ら京都市立西京高校の教諭をしていた中山先生。そしてその教諭をしているときに、長岡京発掘のきっかけになるとある出来事が起こるのです。

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キッカケは郷土資料の執筆だった

そのキッカケとは、京大の地理学教室の助手から「君は乙訓に住んでいるから『乙訓郡史』の執筆に協力してほしい」と頼まれたこと。

『乙訓郡史』は、大正時代の末期に京大の先生らによって出版が計画されており、大部分の執筆は終わっていたものの、奈良時代の項目がすっぽり抜けていて、出版が見送られていたそうなんです。

そこで、奈良時代の項目には長岡京も含まれていることもあり、すぐに先生は執筆を引き受けました。『続日本紀』などをもとに執筆にかかりましたが、書いているうちに「長岡京は幻や計画だけの都ではない」と思うようになっていくんですね。

そして、「生まれ、育った地にあった古代の都の存在を明らかにしたい」と夢見るようになり、学校の先生をしながら長岡京発掘に全力を注ぐことになるのです。

昼は授業、夜は発掘

とにかく発掘がしたくてしょうがなかった中山先生。その熱意は趣味とかそういうレベルを度外視していたようで、ついにその熱量は本業をも凌駕するレベルになっていきます!

加速する宅地造成

そんな彼を襲ったのは、1960年代に入って日本が高度経済成長期に突入した際に加速した宅地造成でした。そう、宅地開発によって遺跡が破壊されてしまうわけです。そのため、ボーっとしている暇はなく、とにかく宅地が造成される前に発掘調査をしなくてはいけなかったんですね。

ある時などは、とある一画で始まった宅地造成によって遺跡が破壊されそうになった時、先生の判断でストップをかけ、急いで発掘をしたこともありました。

そして中山先生は西京商業高校(現:西京高)定時制の教諭に就くことになります。その一番の理由は「授業が夜なら昼は発掘に行けるっしょ」ってこと!

まぁ私も、正社員よりもフリーランスの方が知の冒険の活動がしやすいという後先考えない感じで突き進んでいたりしますが、中山先生も発掘のためによる授業がある定時制の先生になったわけですな~~。

どうやって長岡京を発見したの?

発掘に人生を捧げ、ひたすら掘り起こしまくった中山先生。

その発掘回数は1,600回を超えるほどだったようですが、そもそも長岡京があったことが確定したのは何がキッカケだったのか??

上で説明した通り、『乙訓郡史』の執筆をキッカケに長岡京の発掘に没頭しまくるようになったわけですが、まずは長岡京の復元図の制作に取り掛かることになりました。

というのも、それは中山先生がJR向日町操車場付近をうろついてた時のこと。

前方に田を刈った後の田んぼが広がっていたわけですが、その中に周辺とは明らかに異なるところがあったのです。それは、何となくジメジメとした正方形の湿地帯。

中山先生は、前夜に読んだ『類聚三代格』という日本の歴史書を呼んでいて、そこに書かれていた「左京三条一坊十町を蓮池にせよ」という一文を思い出したわけです!

このジメジメした場所が、蓮池だったのでは??

そして、この日から蓮池を基準にした長岡京の条坊復元図作りに取り掛かったわけです。

完成した復元図

その後も色々あったものの、一応復元図が完成。

この復元図が完成した後、1955年冬休みに長岡京の宮城(役所が集まる都の中心部)の一画を掘っていたときのことでした。道の横に覗いていた凝灰岩の切り石と思われるような石の上の土を取り除き周囲を掘り起していくと石が出現。

この石を東京国立文化財研究所の福山先生に見せたところ、「これは門ですよ。この辺りで門と言えば朝堂院の会昌門(中門)しかありませんよ」と言い、福山先生は文部省に帰って「長岡京で大変な遺構が出てきた」と報告!!

当時の新聞

そして間もなく「長岡京の会昌門出土」のニュースが新聞に載り、これによって長岡京時代が幻ではなく実際にあったことが証明されたというわけです!

しかし、これ、届け出を出さずに発掘したということで実は無断発掘だったんですって(笑)

それから1,600回以上もの発掘を行い、回廊跡、朝堂院の門、大極殿など様々な遺跡が発掘されていったのです。

とてもアットホームな博物館!

ざっと館内で学べる内容を紹介するとこんな感じですかね。こんな感じの内容を、中山修一先生の略歴などを踏まえて学べる感じですかね!

その他にも、先生が実際に発掘時に使っていた遺品なども大切に展示されていました。

発掘時に使用していた道具類
カウンセリングって何だ??
資料もたくさん揃ってますぞ

そんで資料も結構たくさん揃えられているので、ガチンコで長岡京を深堀りしまくりたいという方にもオススメ。私はいくつかの資料をパラパラっと確認する程度でしたが、歴史マニアの方だったら寝食を忘れるくらい没頭できるんじゃないですかね!

そしてスタッフの方はとても親切で、わからないことがあれば何でも教えてくれます。小さい博物館で人混みの中で鑑賞するわけでもないですし、とてもアットホームな雰囲気の博物館ですよ(*’▽’)

建物は元武家屋敷

ちなみに、この記念館の建物もはとても趣のある造りでありましてですね、、

中山先生のお父さんの頃に建てられた建物で、武家屋敷を移築した建物で床の間は欅の一枚板であり、床柱もいいものが使われているとのこと。

病に倒れても発掘に情熱を注いだ

しかし中山先生、どんな方だったんだろうな。。先生が亡くなったのは20年前ではあるものの、発掘に関する情熱とか、直接本人と話していろんなことを聞きたかったな。。

中山先生って世間的にはどのくらい知名度ががあるんですかね??

今では学校の日本史では長岡京を教えているそうですが、中山修一先生の名は出てくるんですかね??

発掘に人生を捧げた、傍から見たら超変人だったかもしれませんが、超変人並みに没頭したからこそ、こうして長岡京の解明に至ったんですよね。中山先生は78歳の時には心筋梗塞で倒れて一時闘病生活を送りましたが、その後も主要な発掘については調査員を通じて発掘現場の事を驚くほどよく知っていたという。

凄い人生だ。この記念館を通じて、こうした一人の先人の人生を知れて本当に良かったです。

おわりに

とても勉強になりました

一時間ちょっとの滞在だったでしょうかね。

展示室はそれほど広くないので、パパっと見ると数分で見終わってしまうかもしれませんが、スタッフの方がとても親切なので色々聞いてみたりすると知見が広がるかもしれないですね!

この記念館は京都駅からは多少離れていますし、遠くからだとアクセス面がそれほど良いとは言えない場所ではありますが、一人の偉人を学べるなかなかない博物館だと思うので、興味がる方はぜひ訪問してみてくだいね~!

参考文献

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詳細・地図

住所 京都府長岡京市久貝3丁目3−3
営業時間 10:00~16:00
入館料 無料
休館日 火曜日、年末年始(12月28日~1月4日)
駐車場 無料(3台)
電話番号 075-957-7176
アクセス 阪急西山天王山駅徒歩12分 JR長岡京駅、阪急西山天王山駅よりバス久貝下車徒歩1分
リンク https://www.city.nagaokakyo.lg.jp/0000001312.html

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