ラーメンに人生を注いだ男「佐野実」その人生に迫った!

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)
「ラーメンの鬼」と言われる男がいました。佐野実。享年63歳。らーめんに一切の妥協をせず、TBSの『ガチンコ』という番組では「ガチンコラーメン道」というコーナーでその鬼才ぶりを発揮しました。
自分はらーめんを死ぬほど食べているものの、あまり佐野さんのことは知りませんでした。しかし、佐野さんの人生を知るきっかけがあり、これを知の冒険で記事で紹介したいと思いお店に足を運んで記事を書くことにしました。
本記事のポイント

・佐野さんは、食材などラーメンに対しては異常な熱意を持っていた
・藤沢に出したお店は、厳格な姿勢で有名でよくお客を注意していた
・最後に戸塚駅前にお店を出店し、2014年に永眠した

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佐野実とはどんな人物なのか

佐野さんは、1951年4月4日横浜の戸塚区に生まれました。ラーメン業界で一躍有名になり、メディアにも登場するようになり、ラーメンに妥協しない厳しい姿勢から「ラーメンの鬼」と言われた方。
私もそうですが、2,30代周辺の方ならTBSの「ガチンコラーメン道」のコーナーのイメージが強いのではないかと思います。
小さい頃は一時期不良になるなど短気な性格だったようですが、将来はラーメン屋になりたいという夢を持ち、アルバイトをしてお金を貯めてはラーメンを食べていたという。藤沢に開店した「支那そばや」はかなり厳格な店で有名になり、騒がしい方などには退店を命じるという超ガチスタイルの店に。それでも、味には定評があり行列が絶えない店になったのです。
▲佐野さんと親交があった野津さんの店「胡心房」
そんな佐野さんは、多くの方に支持されていました。それは、ラーメンの店主が集まる”佐野JAPAN”という会ができるほど。メンバーには、69’N’ ROLL ONE の嶋崎順一さん、らぁ麺胡心房の野津理恵さんなどなど。
この”佐野JAPAN”は「日本全国の色々な食材を探し歩いて、より良いラーメンを作ろうという佐野さんの心を継承する集まり」なんだそうです。
佐野さんは、食材にこだわるという面もあれば、業者さんとの付き合いにも非常に心配りをしていた方だという。業者とラーメンを作るという意識があり、お中元も業者側からではなく佐野さん側から送っていたという。

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藤沢にあった支那そばや

支那そばやは、神奈川県の藤沢市にありました。
当時の支那そばやは味が美味しいというだけでなく、かなり厳格なルールで有名。
ルールとしては以下のようなものがありました。
支那そばやのルール

・騒がしいこども・大人の入店の禁止
・香水の強い方の入店の禁止
・ベビーカーの持ち込み禁止
・携帯・PHSの使用を禁止
「香水の強い方の入店厳禁」に関しては、番組の際に訪れた女性レポーターの香水がきついからと退店を命じたこともあったほど。レポーターは、あまりにびっくりして「何あのクソおやじ!」と切れていました(笑)
さらには、店内で普通にしゃべっていると佐野さんに怒られます。そんな店であっても、多くの常連客が訪れ行列が絶えない店だったのです。
また、スープの出来が悪い時には臨時休業をすることも。お客さんに要求をしているのだから、こっちは下手な味は出せないとのこと。その際お店には、「本日のラーメンは出来がわるいのでまとこに勝手ながら臨時休業します。」という札が立てかけられたのです。
そんな藤沢の店は、色々な事情があり途中から弟子に任せる形になりました。しかし、弟子に任せた後はお客さんも減っていき、2004年には閉店という形になったのです。いかに佐野さんのラーメンが多くの人に支持されていたかがわかります。

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佐野実のラーメン人生

佐野さんは、人生の多くをラーメンに費やした方です。普通の人にとっては、「やり過ぎ」と思うほどだったように思います。しかし、そんな一つのことに徹底的に貫く姿勢は、多くの人に感銘を与えたのも事実。
そんな佐野さんの人生を言えるほどではないですが、私がいろいろ調べてまとめた”佐野さん史”をいくらか紹介します。

食材にこだわる

佐野さんは、ラーメンに関しては決して妥協しない方でした。特に、ラーメンに使う食材に関しては徹底的にこだわる方でした。
例えば麺に使用する”かんすい”は、モンゴルから取り寄せることをしていました。現在ではモンゴル産のかんすいを使う店が多いようですが、その先駆者は佐野さんでした。

妻との離婚

佐野さんは人生のすべてをラーメンに注いでいました。支那そばやを立ち上げた時も、当時の奥さんであった泉さんと二人三脚で約14年間もの間営んでいました。しかし、ある時奥さんは佐野さんに離婚を突きつけました。
当時佐野さんには20人近くの弟子がいましたが、佐野さんは奥さんもラーメンに関しては弟子として扱ってしまったという。離婚した一番の失敗がそれだと、番組で言っていました。
そして、佐野さんにはお子さんもいらっしゃいません。貯金をしたとしても、マイホームなどにつぎ込むわけではなく、製麺機を買ったりもしていたとか。ラーメンに関しては本当に手を抜かない一途な方ではありますが、生き方はもしかしたら不器用だったのでしょうか?
でも、そのようなことを知るようになって私は佐野さんのことが好きになりました。昔は、TOKIOの番組であるガチンコラーメン道で見たくらいで、頑固オヤジという印象はあったものの、ラーメンに対する一途な姿勢など生きる上で学ぶものは多いと感じております。

佐野さんが愛したサンマーメン

支那そばや
佐野さんが学生時代の時にこよなく愛したサンマーメンがあるという。それは藤沢駅前のダイヤモンドビルのB1Fに今も営業している「古久家」のサンマーメン。
支那そばや
古久家は1947年創業の老舗で、湘南地区に拠点を構えるお店です。私も実家が藤沢だったため、何度か食べたことがあるお店です。ちなみにですが、ここはレジで先に食券を購入するという非常に珍しいスタイル!
サンマーメンを頼んだんですが、レシートに書いてある「サンマ」の文字がなんかシュール(笑)
支那そばや
▲佐野さんが愛した古久屋のサンマーメン
今回佐野さんの記事を書くため、再度来店しました。ちなみに、サンマーメンとは横浜発祥でとろみのある案に野菜がたっぷり乗ったラーメンのこと。久々にサンマーメンを食べましたが、味は本当に美味しかったです。新横浜ラーメン博物館の支那そばやでもサンマーメンの提供がスタートするそうですが、この古久家の味がベースになっているんでしょうかね!

ラーメン博物館への出店

泉さんとの離婚後、佐野さんはもう一度人生を見直すべく九州へ修行に出かけました。その後、藤沢にあった店は弟子にまかせてしまい、その後閉店してしまいます。
藤沢の店は奥さんとの思い出の店だからと、佐野さんが戻ることはなく、新たに恵比寿での出店を狙うが物件がなかなか見つからない。
支那そばや
▲出店することになったラーメン博物館
そんな中、ラーメン博物館から支那そばやの出店依頼が佐野さんのもとに訪れました。ラーメン博物館が創業6周年を迎えるにあたり、佐野さんにぜひ出店してほしいと館長の方から話があったのです。
支那そばや
こちらが、新横浜ラーメン博物館内にある支那そばや。レトロな昭和30年代を再現した博物館内にも佐野さんの生き様が残っているのです。
支那そばや
ここで注文したのは塩らあ麺。細かい味の感想は、食べログなどを見てみてください。ただ、非常においしかったです。
佐野さんが言うに、ラーメンには「醤油」「味噌」「塩」などのタレがありますが、塩ラーメンが一番難しいとのこと。それは、塩自体には味や風味がないから。そのため、スープにしっかりとした味などをつけるためにはより工夫が必要という事なんでしょうかね。
支那そばや
支那そばや
支那そばや
“鮭節ごはん”という物も注文してみました。鰹節でなく、鮭節なのです。カツオに比べて結構あっさりした感じがしました。

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再婚へ

佐野さんは、2003年に知人の紹介で再婚しました。妻のしおりさんも再婚だったという。しおりさんは結婚後は佐野さんのラーメンの活動においては非常に良くサポートをしてくれたようです。
その後、佐野さんは長年の無理がたたり糖尿病を患っていました。毎日薬に頼らなければいけない生活になってしまったのですが、しおりさんの支えがあったことが幸いでしたでしょう。

現在の支那そばや本店

支那そばや
▲戸塚駅前に開店した「支那そばや」
元々藤沢にあった支那そばやは閉店しています。現在、支那そばやの本店は横浜市戸塚区にあるのです。戸塚駅から徒歩5分くらいの場所。一度だけ訪れたことがあるのですが、ここも今回の記事を書くべく訪れました!
実はこのお店の開店は、佐野さんの再起をかけた、そして人生最後の挑戦でもありました。ここに、お店を出して欲しいと依頼したのは、佐野さんが学生時代に通っていた食堂の女将さん。戸塚の街を活性化してほしいということで、佐野さんに依頼したんだそうです。
支那そばや
普段はどのくらいの客数かわかりませんが、訪れたときは日曜のお昼時ということもあり行列ができていました。さすがです!
客層は、中高年の方がほとんどでした。昔からの佐野さんファンなのか不明ですが、今の20代では佐野さんをご存知の方は少ないのでしょうか?
支那そばや
お店の入り口にはこのような言葉が。
支那そばや
▲支那そばやの醤油わんたん麺
今回訪れた際に注文したのは醤油ワンタンらあ麺。味は非常においしいです。味に関しては、食べログ等にお任せしましょう。食べたくなった方は、ぜひ食べに来てみてはいかがでしょうか(#^.^#)
ここで、ラーメンではなく器に注目!器の淵が、他の器に比べて反らされているのがわかりますでしょうか?
支那そばや
支那そばやでの醤油ラーメンに使われている器は、スープが冷めにくいように深めの形状にしており、さらに醤油スープの味をより引き出すため、口当たりを考えて淵を反らしているんだとか。
器は有田焼で、原材料となる土質・窯焼きの温度の違いによる遠赤外線効果で、スープがまろやかになるという。
支那そばや
佐野さんがラーメンを作る上で一番大事な要素は、「スープの火加減」と言っていました。火は常に一定とは限らないし、とんこつラーメンのように強火で煮て白濁にしてはいけないのです。佐野さんの醤油ラーメンは、透き通ったスープが売りなのですから。
どんなにいい食材を使ったとしても、火加減を間違えると一気に味が落ちてしまうんだとか。スープに火を入れている状態では、他のことをしていても常に気を配らなければいけないのです。
そしてこのスープには、佐野さんの沢山のこだわりがあるのです。山形産三元豚、羅臼昆布、鳥取産砂丘ねぎ、青森産ホタテ貝柱など全国を渡り歩き、青の中でも選び抜いた厳選された素材をふんだんに使用しているのです。
支那そばや
戸塚の支那そばやでは、なんと1,500万円の製麺機を使って麺を作っていました。今もかな?国産(北海道産)の小麦にこだわり、透き通ったスープに程よく合うのです。

2014年4月11日

2014年4月11日。佐野さんは永眠されました。
享年63歳。
現代の日本では、若い死となってしまいました。糖尿病を患い、薬がなくてはいけない生活になっていましたが、長年にわたって無理をしたのが響いていたんでしょうか。
私は別にラーメン界に何も精通している人間ではないですが、ラーメン界においては佐野さんの功績は本当に大きいと思っています。多くの弟子もいたことですし、その教えは弟子たちを経由する形で多くの人に受け継がれていっていることだと思います。

おわりに

支那そばや
今まで何100杯ものラーメンを食べてきましたが、佐野さんが作ったらあ麺を食べられなかったのが本当に残念でした。
今、日本全国には数え切れないほどのラーメン屋さんがありますが、それは佐野さんのようにラーメンにこだわり続けた方々がいたからこそだと思っています。便利な時代になり、今ではお店でスープを作らず、工場で作った冷凍スープを解凍するだけの店も多く出てきました。
ラーメン屋は開店する店も多いですが、うまくいかず閉店する店も非常に多いです。今後、ラーメン業界はどのようになっていくのか。ラーメンの鬼は、どんな未来を想像してたんでしょうね。

参考文献

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詳細・地図

住所 神奈川県横浜市戸塚区戸塚町4081−1
営業時間 11:00~20:30
定休日 不定休
駐車場 無料
電話番号 045-827-3739
アクセス JR戸塚駅、市営地下鉄戸塚駅より徒歩5分。
リンク http://tabelog.com/kanagawa/A1401/A140305/14014445/
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