今回は、大分県玖珠町(くすまち)という場所にある博物館に関する記事になります。ここには、久留島武彦(くるしま・たけひこ)という偉人に関して学べる博物館があるわけです。
といいつつ、私はこの博物館を訪れるまでこの人物について全くというほど知らなかったんですけどね。。でも、久留島武彦という人物は勝海舟などの著名人をも交流があり、明治から昭和の時代にかけて、児童文学界において本当に多くの功績を残した人物でもあるんですね!
ということで、今回はこの博物館の紹介を含め、久留島武彦という人物の生涯に迫ってみることにしましょう!
見出し
久留島武彦記念館ってどこにあんの?
久留島武彦記念館がある場所は大分県玖珠町にあると書きましたが、そういわれてすぐにピンと来る方はあんまりいないんじゃないですかね。大分県というと別府や湯布院が観光地として有名ですが、それ以外だとどこにどんな都市があるかってみなさんわかりますかね?
そういう私も、最近までほとんど知らなかったですね。。中津市や豊後高田は以前に訪問したことはありましたが、内陸部となると、ん~~~って感じです。。
博物館の場所は上の地図に示した所っす。玖珠町って今まで聞いたこともなかったし、今回が初訪問となったので久留島武彦記念館に行く前には、他のスポットもはしごして取材したりしなかったり!
そのはしごして取材したのがこちらの機関庫。多分この街で一番有名な観光スポットですかね。ラブライブの舞台にもなっているようで、売店にはラブライブのグッズも売ってましたよ( ;∀;)
ラブライブって沼津港だけじゃなく、他にも関連の場所はいくつかあるんですね。。ま、それはさておき、さっそく久留島武彦記念館へと行ってみることにしましょう!!
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久留島先生の生涯が学べる博物館
そんな玖珠町にあるこちらの博物館が「久留島武彦記念館」。2017年4月28日に、「童話や絵本の世界を体験し学ぶ場」としてオープンしました。
私が訪問したのは2019年4月なので、まだオープンして二年後だったんですね。どうりで外観や内部がすごく綺麗だったわけだ(*’▽’)
館内に入っていきなり目に入るのがこちらの絵。真ん中に写っているジェントルマンが久留島武彦なわけですが、こちらは久留島先生の等身大に合わせて描かれた絵なんだとか。身長は172cmであり、当時にしては大柄な方だったようです。
久留島先生が書いた童話を基に玖珠町で久留島童話名作選という形で本を出版しており、その絵本のキャラクターたちと一緒に写っているそうです。
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館内は「久留島先生を学ぶ部屋」「ものがたりの部屋」「童話碑が見える部屋」など10のスペースに分かれ、口演童話や日本でのボーイスカウト総セスなど児童文化振興に生涯をささげた久留島の多方面な生涯を学ぶことができます。
さらに、この博物館は単に展示してある資料を眺めるだけではなく、映像や音声を通して久留島の童話の世界を体験できるようにも工夫されています。
タッチパネルも内容が充実しているので、久留島先生の生涯を学ぶにはとても便利。私はあまり時間をかけることができなかったのでそこまでじっくり館内を観察することができませんでしたが、本当は半日くらい使ってじっくり勉強したかったっす。。
でもですよ、入館するとスタッフの方が解説しながら館内を案内してくれるのでそれだけでも結構満足ですけどね(*’▽’)
と、館内を簡単に紹介したところで、続いては久留島先生の生涯に迫ってみることにしましょう!
教育に生涯をささげた久留島武彦の人生
久留島武彦とは、「日本のアンデルセン」と呼ばれ、明治・大正・昭和の三代にわたって、「信じ合うこと」「助け合うこと」「違いを認め合うこと」など、人が人として共に生きていくうえで必要な教えを、楽しい話に載せて子供たちに語り聞かせた教育者です。
久留島武彦が生まれたのは1874(明治7)年。村上水軍の一族である久留島家に生まれました。生まれ育った大分県玖珠町(くすまち)は自然豊かなところで、子供の頃は牧畜業を夢見る少年だったそうです。
中学の時、地方の学校としては珍しくアメリカから英語の教師として招来されたサミュエル・ヘイマン・ウェンライト氏に出会い、英語やキリスト教を学んでいくことになります。その中で自分の夢をウェンライトに伝えると、「牛や馬ではなく、人間を育てる人になってください」と教えられ、児童教育を目指すことになります。
その後武彦は、ウェンライトの影響でクリスチャンになります。そして彼が神戸美以教会日曜学校の校長に任命され、キリスト教の話を子供達にわかりやすく伝えることで教育という領域に脚を踏み入れることになるのです。
希望を失いかけた軍隊への入隊
キリスト教に関わるようになった武彦が、日本基督教の機関紙である週間伝道誌『福音新報』の編集に内定が決まっていた最中、日清戦争が勃発していたという社会情勢もあり、軍隊に行かねばならなくなりました。
軍隊行きが決まった時は、涙があふれ天国から地獄へ突き落された感じだったそうです。なんせ、自分のなりたかった仕事先への内定が決まった矢先ですからね。。
そして「近衛師団歩兵第一連隊」に入隊。1895年(明治28)年3月18日に東京を出発し、広島や山口を経由して遼東半島へと向かうも、間もなく日進講和条約が調印されることになります。
この時、武彦は再び原稿用紙を取り出すことに。そしてその時、「近衛師団に入った新兵」をもじった「尾上新兵衛(おのえしんべえ)」というペンネームで、新兵衛を主人公にした兵隊物語を書きました。
この物語が雑誌に載るようになり、さらに武彦は得意だった英語を武器に、師団長専属の通訳になり、ニューヨーク・ヘラルド紙の特派員であるデビッドソンの応対などに当たることに。一年も経たないうちに、新兵から下士に昇進することになります。
ちなみに、武彦が近衛師団に入隊していた頃は、まだ「児童文学」という概念が存在していなかった時代でした。ただし、この頃は児童文学を開拓していた売れっ子作家の巌谷小波(いわや・さざなみ)が主筆をとっていた『少年世界』という雑誌があったそうです。
この雑誌は、当時の少年雑誌としては唯一販売数が百万部を超える圧倒的な人気雑誌だったそうです。いわゆるコロコロコミックとかの前身ってこと??
ところが、武彦は尾崎紅葉の紹介で雲の上の存在と思っていた巌谷小波と出会うことになります。小波のところへと頻繁に訪れるようになり、兵隊物語を書き続ける一方で、グリム童話の翻訳や自ら創作した童話を発表。
ここから、児童文学へと足を踏み入れていくことになるのです。
三年間の兵役義務が終わり、武彦は軍隊を除隊、そして23歳のときに浜田ミネと結婚、さらには巌谷小波の紹介で神戸新聞社に就職。
さらにその後は、軍事報社へ就職するも半年も経たないうちに倒産。横浜セール商社→日本郵船→大阪毎日新聞社→横浜の海門商会→横浜貿易新報社(現:神奈川新聞社)と会社が倒産したりなどで職を転々とすることに。
その後、「本を買うのはお金がかかる、はなしなら、医師団でも、山でも、海辺でも子供のいるところなら、いつでも、どこでもできる」と考え、口で童話を語り聞かせる「口演童話」を通した児童教育を試みました。
明治36年、東京で日本初となる口演童話会を開催し、全国を回って口演童話活動を展開していきます。
そんな久留島先生の口演活動は日本のみならず、満州や朝鮮など海外にまで及ぶことになります!
朝鮮での口演では『人間の寿命』という物語を好んで話したようで、それだけでなく乃木希典(のぎ・まれすけ)陸軍大将の教育法が基となっている『乃木大将の火鉢』という話もしていたそうです。
アイドルグループによって知られている乃木坂の由来となっている乃木大将は、「決して贅沢をするな。贅沢ほど人を馬鹿にするものはない」といった言葉でも知られるほどの倹約家でしたね!
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東京に設立した早蕨幼稚園
毎日のように口演童話を演じていた武彦は、口演の対象である子供についても研究するようになります。児童心理の研究材料として玩具にも興味を持ち、子供に常に接触できる研究機関の必要性を感じて、幼稚園の設立へと乗り出すことになります。
各方面からも協力者が現れ、野村総研の設立者でもある野村徳七も、必要な資金を快く援助してくれたという。
武彦が掲げた保育の二大目標は、「強い個性の建設」と「固い共同一致の訓練」でした。子供ひとり一人の個性を尊重し、共に生きるための調和を大切にするこの教育理念は「桃太郎主義」に集約されていました。
上の写真に写っているのは「いぬはりこの人形」であり、戌年生まれで犬が大好きだった久留島先生は、昔から子供のいい友達としておなじみのを桃太郎主義教育のシンボルマークとしたのです。
武彦の教育方法は独特で、子供の間違った言葉を指摘して正すのではなく、子供目線で話し合い、温かい愛情を伝えていました。
保護者との間でも信頼が高まっていき、年々入園希望者が増加。1915(大正4)年10月には、代々木に早蕨第二幼稚園をも開園。それに従い、犬張子をシンボルマークとして桃太郎主義を掲げた武彦の幼児教育は、各地に広がっていったのです。
早蕨幼稚園は、1945(昭和20)年の空襲で全焼してしまい、やむを得ず閉演してしまいました。しかし、有名な芸術家である岡本太郎、東急社長の五島昇など、多くの著名人も輩出した幼稚園だったそうですよ!
児童文化の土台作りへの多大なる貢献
様々な功績を残してきた久留島先生の活動の中で、ボーイスカウトを日本に広めたことも書いておかなければいけないですね!!
日本初のボーイスカウトは、小柴博(こしば・ひろし)による「東京少年団」でした。1913(大正2)年10月に結成された「東京少年軍」が「東京少年団」に改組され、翌年の12月6日には東京九段にある偕行社で第一回の入団式が行われることになるます。
精力的に海外の視察にも行き見聞を広げた久留島先生は、「東京少年団」の起源となる「児童精神教育幼年会」の頃(明治42年)から、その基盤づくりに協力し役員になっていました。
私の大学時代の教授も確かボーイスカウトにかかわっていましたが、これも久留島先生の功績だったとは!
ただし、久留島先生はボーイスカウトを日本に紹介したというだけではなく、本当に多くの功績を残した人物でもあるわけです。
1903(明治36)年に、日本で初めて子供のための演劇を上映
1903(明治36)年に、日本で初めて子供のためのお話会を開催
1906(明治39)年に、日本で初めてこども新聞「ホーム」を作成
1907(明治40)年に、久留島先生が描いた『新桃太郎』が日本で初めて児童劇映画になった。
1908(明治41)年に、日本初の世界一周観光旅行に通訳として参加
1911(明治44)年に、アメリカからモンテッソーリ教育の教材を日本で初めて持ち込んだ
1911(明治44)年に、子供の雑誌にボーイスカウトを紹介
1913(大正2)年に、日本で初めてピースサインで写真に写った
1925(大正14)年に、日本で初めてラジオで童話を語った
↑上の写真にある内容をまとめただけですが、これだけ多くの貢献を成し遂げていたんですね〜( ´ ▽ ` )ノ
さらには、世界でもかなり有名な詩人のひとりである「アンデルセン」に関しても多くの貢献をしてきました。
アンデルセンとは、『マッチ売りの少女』『裸の王様』『見にくいアヒルの子』などの有名な童話を生み出したことで、創作童話に関してはこちらも多くの貢献をしてきた人物。
アンデルセンの作品を数多く翻訳してきた武彦は、 デンマークに行った際にアンデルセンの復権を呼びかけ、アンデルセン博物館が建設されるきっかけとなり、 日本でもアンデルセンのことを広めるべく東洋初のアンデルセン祭を行うことになります。
そして1925年10月17日に、帝国劇場を貸し切って「アンデルセン没後五十年記念お伽祭」が盛大に開かれることになりました。このようなアンデルセンを日本中に火止めたという功績が認められ、翌年にはデンマーク国王から文化勲章に相応する勲章を受けることになります。
そのように、久留島先生は日本全国を回って子供たちに童話の公演活動を行うだけでなく、児童文学にかかわる方々との交流やアンデルセンを日本に広めるなど、児童文学にかかわる多くの土台作りに貢献してきたわけです!
そんなわけで、久留島先生は「日本のアンデルセン」とも呼ばれているんですね!