A級戦犯を裁いた東京裁判の法廷「市ヶ谷記念館」には、多くの歴史が秘められている!

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今回訪問したのは、東京の市ヶ谷にある「市ヶ谷記念館」です。この記念館は、市ヶ谷駐屯地の敷地にあり、かつては太平洋戦争後にA級戦犯の方々を裁いた東京裁判(極東国際軍事裁判)の法廷だった場所。

現在は平日のみではあるものの予約をすれば中を見学できるということで、時間を作って訪問してきた次第です!!

スタッフの方も親切で、東京裁判などに関してとても勉強になったので、今回学んだ内容を含め東京裁判について学んでいきましょう!!

本記事のポイント

・東京裁判は、市ヶ谷記念館の大講堂が法廷だった!
・東京裁判はA級戦犯を裁くための裁判で、25名が有罪判決を受けた
・市ヶ谷記念館は三島事件の現場で、当時の刀傷も残っている

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平日のみでハードル高し!

一万人の職員が働く市ヶ谷駐屯地

今回訪問したのは、市ヶ谷駐屯地という場所。今では一万人もの防衛省の職員が働く場所ですが、何でそこに来たのかというと、その駐屯地には東京裁判の法廷だった市ヶ谷記念館という博物館があるからなんですね!

この記念館、見学は無料で出来るもののちょっとハードルが高いんですよね。事前予約が必須だし、いかんせん平日しか訪問できないというね。

今回、私は次の職場に働く前の猶予期間に時間を作って訪問してきましたよ。

いつもどのくらいの方が来るのかわかりませんが、私が行った時は5人ほど(あとは謎の学生たち)でした。ここの見学は午前と午後の二コースがあり若干ではありますがコースが異なるんですね!

見学コース
午前
正門→儀仗広場(西側)→市ヶ谷記念館→屋外ヘリ展示場→厚生棟(1階で見学・休憩)→メモリアルゾーン→儀仗広場(東側)→正門
午後
正門→儀仗広場(西側)→市ヶ谷記念館→屋外ヘリ展示場→厚生棟(広報展示室※→1階で見学・休憩)→儀仗広場(東側)→正門

※金曜日は、広報展示室の見学を防衛研究所の見学にしております。

今回私が見学したのは午前のコース。思った以上に写真撮影はできるようで、厚生棟の内部などは禁止であるもののその場所以外は基本撮影は問題ないとのこと。私も、自衛隊の方が訓練している姿とかちょっとコソ撮りしてしまいましたよ。。

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訓練する自衛隊員の方々

今日は結構な炎天下の中、自衛隊員の方は必死に訓練を重ねていました。この市ヶ谷駐屯地には一万人ほどの職員が働いており、事務関係の方といわゆる自衛隊員の方が共にいる感じ。

東京裁判が行われた市ヶ谷記念館

最初に儀仗広場、さらには庁舎A棟とC棟について少しばかり説明していただいた後、いよいよ東京裁判が行われた市ヶ谷記念館に到着。

早速、中に入ってみることに( ´ ▽ ` )ノ

中は思ったより小さかった・・

その内部がこちらっす!

東京裁判(極東国際軍事裁判)の法廷となった大講堂。ここを見て最初に感じたのは「思ったより小さい・・」ということ。スタッフの方に聞くと、多くの人がそう感じるのだという。

ここでは、最初に『市ヶ谷台の歩み』というビデオを鑑賞して、その後に一通りの解説をしていただいたあとは、限られた時間ではあるものの内部の自由見学となりました。

ということで、まずは東京裁判に関して簡単にではありますが学んでみることにしましょう〜!

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東京裁判とは!?

ではでは、ここで東京裁判について学んでみることにしましょう。東京裁判とは何だったのか?

その全貌についてはここで書ききれないので、大まかな内容をかいつまんで勉強してみることにしましょう!

東京裁判の簡単な概要

東京裁判(極東国際軍事裁判)とは、A級戦犯容疑者を裁くために開かれた裁判で、1946年5月3日〜1948年11月12日の間に行われ、市ヶ谷記念館を舞台に行われました。

初日は傍聴人席の入り口には大行列ができるなど法廷執行官バンミーター大尉が開廷を宣言し、ウェッブ裁判長がマイクに顔を突き出すようにして開廷の辞を述べ、裁判が始まりました。

起訴状が二日間かけて読み上げられ、その次には”アイレンメント”という被告の罪状の認否が行われ、そこで清瀬一郎弁護士が裁判官に対して忌避を申し立てて、そもそもの裁判の正当性に対して疑問を投げかけることになります。

まっ、その辺を細かく話し出すと記キリが無くなってしまうので流すことにしますが、その後に検察側の立証が始まることになるのです。

十段階に分類された訴追内容

その後、検察側の立証は1946(昭和21)年6月13日からはじまり、国際検事団による訴追期間は、太平洋戦争のみならず満州事変にまで遡り十段階に分けて立証に臨みました。

簡単に言うと、東京裁判ってのは太平洋戦争に関してA級戦犯を裁いたのではなく、満州事変から太平洋戦争まで、つまり1930年頃から1945年の終戦までの期間にA級戦犯の方々が犯した罪について裁いたってことです。なので、今でも論争が続いている南京大虐殺とかも当てはまるんですわ。

そのため、A級戦犯容疑者で絞首刑判決を受けた松井石根大将なんかは、太平洋戦争に関してではなくこの南京大虐殺の責任だけを問われて絞首刑(死刑)となったのです。

そんな感じで、じっくり時間をかけて進む裁判。当初は被告は28名でしたが、外務大臣だった松岡洋右(まつおか・ようすけ)が結核による衰弱で死亡、さらには永野修身(ながの・おさみ)元帥が急死、さらには大川周明が精神異常をきたして訴追免除されたため、最終的に被告は25人となっていきます。

判決を聞く様子

そして1948(昭和23)年4月16日に裁判が結審したあと、実に判決が出るまで半年以上の時間を有し1948(昭和23)年11月4日、ついに25名への判決が言い渡されることになりました。

判決は、一人一人が机上のヘッドフォンを耳に当て判決を聞くことに。東条英機に関しては、判決を聞いた後に一瞬ニヤリと笑みを漏らし、ヘッドフォンを外して傍聴人席に視線を走らせ、深々と一礼して退任していったそうです。

裁判の判決一覧表

結果としては、最後まで被告として残った25名が全員有罪。その中で、7名が絞首刑(死刑)となりました。

上の判決表は、に掲載されていたもの。単純に丸の数だけでは死刑か終身禁固刑かを判別できず、どういう理由で最終的な罪状が決まったのかはよくわからん。。

東条をひっぱたいた大川周明

精神異常となった大川周明

そんな東京裁判の初日には、意外な事件が発生しました。それは被告席に座る大川周明(おおかわ・しゅうめい)。水色のパジャマに下駄履きという謎のスタイルで登場し、頭をかき、うつむき、長い時間合掌したりと何か挙動がおかしい。。

パジャマのボタンを外して胸や腹をはだけ、そして極め付けは、目の前に座っていた東条英機の頭をペチンとひっぱたき笑みを浮かべる。これには、叩かれた東条もおもわず苦笑いを浮かべたとか(⌒-⌒; )

病院へと送られることに・・

裁判が休憩時間に入ると奇声をあげて「喜劇だ!」「お前ら全員出て行け!」と、叫んでいたらしい。そんな様子を見かねて、翌日には精神鑑定の必要がありと宣告され、米軍病院へと運ばれることになりました。

結局、大川は訴追免除となり、全被告28名の中で唯一裁判後に有罪にならず生存し続け、1957年12月24日に死亡しました。

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未だ語られる二つの問題点

東京裁判の話題になると、未だに「あの裁判はインチキだ!」と言われることがありますが、その論点として挙げられるのは以下の二つのポイントでしょうか!?

茶番という声もある東京裁判

まず一つは、事後法という観点。

もうちょっというと、この裁判は罪刑法定主義(法律がなければ犯罪無し)に逆らっているってことです。

そもそも、一般市民の虐殺や暴行などの「人道に対する罪」に加え、侵略戦争の計画・準備・開始・遂行そのものを犯罪とする「平和に対する罪」も戦争犯罪の概念として太平洋戦争後のロンドン会議で最初に提唱されました。

となると、本来の国際法であればその時に提唱された法律は以後に発生したのみに適用されるはずなのですが、まだ法律がないときの満州事変〜太平洋戦争に対して適用しているので事後法になってるってことですね。

ってのが事後法に関する問題点!!

長崎市内にある長崎原爆資料館

続いては、戦勝国に都合の良い解釈が行われたという点。

この裁判の裁判官は、全て連合国(戦勝国)の方々。結局、裁判の公平性はなく勝者が敗者を裁いたってだけで、全ての罪を「枢軸国」になすりつけた裁判となりました。

たとえば、BC級戦犯に関する「人道に対する罪」でいうと、日本のあらゆる場所で連合国が仕掛けた本土空襲、さらに極めつけは広島・長崎への原子爆弾の投下という無差別攻撃はこれに該当しないのか??という。。

全員無罪を主張したパル判事

そんな連合国の裁判官の中で、唯一25名全員無罪を主張したのがインド代表のパル判事でした。このパル判決書は、多数派判決文よりも長い英文二十五万字、千二百三十五項におよぶウルトラ膨大なものでした。

パル判事は、東京裁判の被告が「平和に対する罪」など事後法的法律で裁かれたことに疑問を投げかけ、第二部では「侵略戦争とは何か」と題して、多数派の言うその定義を認めることは困難としたのです。

「裁く者の手も汚れている」として、ただ一人、全員無罪の意見書を書いたものの、オランダ、フランス、フィリピン代表判事などの少数意見とともに法廷では読まれることはありませんでした。

後に、日本政府はパル博士の平和に対する真摯な態度に対して勲一等瑞宝章を送ったという。今でも、靖国神社には上の写真の碑が建っています。

A級戦犯を裁くための裁判

GHQ最高司令官のマッカーサー(写真中央)

1941年12月8日に開戦した太平洋戦争は、1945年8月15日に終戦(と言われていますが、占守島の戦いなどもあり実際の終戦はこの日ではないですが・・)。その後、マッカーサーをはじめとしたGHQが厚木飛行場に降り立ち日本は占領されることになります。

A級、B級、C級の区別

そして戦争責任を問われ、連合国はA級、B級、C級を種別を分けて戦犯者を決定。ただしこれ、罪の重さ順に「A級 > B級 > C級」となっているわけではなく、 A級、B級、C級というのはあくまで種別(A種、B種とかのほうがわかりやすかったんじゃない??)です。

なので、A級戦犯になった方々が一番重い罪というのは間違いです。A級戦犯者の中で終身刑の方がいるけども、BC級戦犯者の中ではかなりの死刑判決が出ていますし。。

A級戦犯者(A級戦争犯罪容疑者)は先ほども書いたようにロンドン協定でもたらされた「平和に対する罪」「人道に対する罪」の容疑で逮捕され、通例の戦争犯罪容疑で逮捕されたのがBC級戦犯容疑者。

このB級とC級は、国際軍事裁判条例では「通例の戦争容疑者」をB級、「人道に対する罪」をC級としていましたが、実際は殺人や虐待などの残虐行為を命令する立場だったのがB級で、それらの犯罪を実行したのがC級としていたそうで、この辺の区別は私もようわからんっす・・( ;∀;)

A級戦犯として起訴されたのは28名。開戦時に総理大臣だった東条英機や南京大虐殺の罪を問われた松井石根、さらには日本のマスコミのドンと言われた徳富蘇峰や、安倍総理のおじいさんであり、のちに首相となった岸信介もA級戦犯容疑者でした。

そのうち28名が起訴されて東京裁判で裁かれ、最終的には25名全員(他の三名は病死と訴追免除)が有罪となり7名が絞首刑(死刑)となりました。

移築復元された横浜地方裁判所陪審放置

一方、BC級戦犯者に対しては、周辺の東南アジア、さらには日本でいうと横浜地方裁判所陪審法廷が法廷となって裁判が行われました。その裁判所は、今では横浜市にある桐蔭学園に移築復元されており、こちらでも市ヶ谷記念館と同様に無料で見学できるんですね!

とはいっても、A級戦犯を裁いた東京裁判は世に知られていても、BC級戦犯者を裁いた裁判はかなり世間の認知度は低く、この桐蔭学園の横浜地方裁判所陪審法廷も本当に知る人ぞ知る場所って感じです。

↓ここは以前に取材したのでよければご覧になってくださいm(__)m

A級戦犯七人は巣鴨刑務所で処刑

巣鴨プリズンがあった場所
巣鴨プリズン跡地にある碑

東京裁判が終わった後、絞首刑(死刑)の判決が出た七名は、今のサンシャイン60の周辺にあった巣鴨プリズンへ移送され、1948年12月23日に日付が変わった真夜中に死刑が執行。

その後、七名の遺体は横浜にある久保山火葬場へと移され米軍の監視下で火葬。その遺骨は遺族関係者と東京裁判で七名の弁護士を務めた方々などが、米軍から遺骨の一部を奪還。

興亜観音にある「七士の碑」

そして、現在では静岡県熱海市にある興亜観音と愛知県の三ヶ根山に埋葬されています。この辺の遺骨奪還物語に関しては、かなりの時間をかけて興亜観音や三ヶ根山なども取材したのでよかったら以下の記事から見てみてくださいm(__)m

続きはこちら!知られざる市ヶ谷記念館の全貌!
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