【川崎の伝説】堀之内を中心に男娼として生き抜いた「みどりさん」の生き様とは!

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今回は、神奈川県川崎市の有名な歓楽街である堀之内に関する記事になります。今まで堀之内に関してはいくつか既に記事を書いてきましたが、とある時に川崎に行ったときに堀之内でも結構有名だという立ちんぼで生き抜いてきた「みどりさん」という方に出会ったからです。

このみどりさん、今まで立ちんぼの男娼として生き抜いてきた方であり、さらにはあの伝説の娼婦といわれた横浜メリーとも親交があった永登元次郎(ながと・がんじろう)さんとも一緒に仕事をしていたこともあったという。

高度経済成長期からバブル期にかけて、日本がとても賑やかだったその時代を街娼として生き抜いたみどりさんはどのような生き様だったのか。

数度にわたり、みどりさんを伺って取材してきたのでその全貌を以下で紹介したいと思います!

本記事のポイント

・みどりさんは東日本を中心に立ちんぼとして生き抜いてきた
・メリーさんとも親交があった元次郎さんとも仕事をしていた
・今も現役ではあるものの、堀之内のスナックでもひっそり働いている

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泡踊り発祥と言われた有名トルコ街

多くのお風呂屋が建つ堀之内

日本にある風呂屋街の中でもとても有名な川崎堀之内。いつのころからか『技の堀之内』とも言われ、「泡踊り発祥」という説もある歓楽街。

川崎というと、海沿いの工業地帯である京浜工業地帯があり、JFEスチール(旧:日本鋼管)や旭硝子、東芝、味の素、さらにかつては富士紡績やコロムビアレコードもあった場所。

そのため、高度経済成長期やバブルの時期には多くの労働者が夜の世界にお金を落としたことから、川崎や鶴見の海側には多くの飲み屋もあったし、鶴見には京急鶴見駅前の鶴見三業地、JR鶴見小野駅付近にあった入船カフェー街、川崎には川崎遊廓があった南町、飲み屋がはびこる銀柳街、そして今回のターゲットでもある堀之内には、料亭やちょんの間、さらには60軒以上の大人のお風呂屋がひしめいたわけです。

川崎辺りには労働者が多かっただけあり、それだけ多くの歓楽街があったわけです。

小説の舞台にもなった旧白亜館

そして堀之内のお風呂屋には、かつて生島治郎(いくしま・じろう)という小説家の物語の舞台になったお店もあります。

この「フレッシュ☆マミー」というお店は、元々は白亜館という名前の店。その小説は、実際に生島治郎がここのお風呂屋で遊び、そのソー〇嬢と結婚したという実話をもとにした物語なんですね!。

ただこれ、凄く珍しい極レアケースかと思いきやそうでもないようです。実は、最近もちょくちょく堀之内には取材に出かけていますが、「私はお客さんと付き合ってて、友達のソー〇嬢も客と結婚した人がいますよ!」というソー〇嬢と飲み屋で出会ったりしたので!

ただし、生島治郎はこの女性と最終的に離婚してしまったそうですが。。

↓その件に関して以前にまとめた記事になりますm(__)m

たまたま訪問したスナック

そんな川崎堀之内の、とあるスナックへ行った時の事。川崎堀之内は自分の家から近いこともあって度々取材を続けており、何か聞けるかと訪問したのがこちらのスナックだったのですが、、

撮影を快く了承してくれたみどりさん

そのスナックはママさんとオカマのお手伝いの方がおり、たまたま「何か堀之内の歴史が聞けるかな~」と思って入ったものの、そこにいたオカマの方が実はすごい経歴の持ち主だったのです!

彼女のあだ名というか源氏名??は「みどりさん」。結構化粧していて年齢不詳に見えましたが、御年79歳。そして話を聞いてビックリ、彼女は今まで立ちんぼをして生き抜いてきたというのです!!

「私はね、前に本にも載ったのよ。ほら、そこに本があるでしょ!」

みどりさんの話が載っている本

と言って、お店の中に置いてあった本を見せてくれました。

ということで、堀之内の歴史からみどりさんの人生を聞かないわけにはいかなくなり、彼女?彼?のもとには三度ほどお邪魔させていただき、彼女が今までどのような生き様を過ごしてきたのか取材してきましたよん!

飽きっぽい生活で転々とした生活を

1940年に群馬県館林市に生まれたみどりさん。最初に果物屋に勤めた彼女は、歌手の付き人をしたり、さらにはラーメン屋さんに勤めたりと職を転々としていたそうです。

彼女は結構飽きっぽく、非常にのんきな性格のようです(*’▽’)

初めて立ちんぼをした蒲田

そんな中、みどりさんは独立して店を出すラーメン屋さんに付いていった蒲田で立ちんぼをすることになります。

ちなみに、「みどり」という名前は五月みどりからとったそうです。たしか、愛媛県にもみどりちゃんっていう有名なたちんぼがいた気がしますな~。。

京急鶴見駅前にある鶴見三業地

一番最初は蒲田で立っていたみどりさんですが、その後は川崎の堀之内や南町、さらには鶴見三業地などでも立つことになります。

街娼だった彼女たちでしたが、その前に立ちふさがったのが1964年に開催された東京オリンピックでした。オリンピックなどの国際イベントがあると風俗業界の規制が厳しくなるのは毎度のことで、この時の規制で首都圏を中心にどんどん条例が厳しくなってきたんですって!

そして、そこからみどりさんのさらなる流離(さすらい)の人生が始まるのです。

東日本を中心にさすらいの人生を

彼女がいつから立ちんぼをしだしたのか、またいつどの場所にいたかという細かいところまではよく覚えていないとのこと。

ただ、おおまかには川崎からどんどん北へと逃げて行ったとのこと。なぜ西に行かずに北へ行ったのか、次はどこに行くかをどう決めていたのかもぼんやりしていてはっきりは覚えていないそうです。。

みどりさんがいたと思われる春日小学校周辺

地方として最初にやってきたのは山梨県甲府市だったそうです。山梨県の南口には飲屋街やトルコ街があり賑わいを見せていますが、とある場所には立ちんぼも立っていたようで、、

山梨県では春日小学校(現:舞鶴小学校)の付近で立ちんぼをしていたそうですが、ここはみどりさん以外にも多くの方がたちんぼをしていた場所だったとのこと。

その甲府から、新潟、山形、仙台などを転々としていく彼女ですが、みどりさんはどのようにして地方を転々としていたのか??

「いつも5人くらいのグループで行動していたの。でね、その場所に着くと最初は旅館に泊まるのよ。稼げなかったらまた別の繁華街に移動するし、稼げるとわかったらそこで各々アパートを借りてしばらくそこで立ちんぼをするって感じ。」

「函館は住みやすくてよかったわよ。でも、仙台は人間が冷たかったかな。仙台駅前には広瀬通りという通りがあってね、そこではおでんの屋台とかが並んでたの。で、おでんを食べにくる人が多かったからそこで商売してたわ。」

つまりはこうだ!

改めて書くと、規制される条例から逃げるように地方へと逃げていき、目的地の立つ場所に着いたらまずは旅館に泊まりながら立ちんぼをする。しかし、この時はこの場所が稼げるか稼げないかの見定め期間で、稼げると踏むと長期滞在するために仲間同士が各々マンションを借りる。そして、稼げなくなる or そこも条例が厳しくなったらまた別の場所に逃げる。というまさに絵に描いたようなさすらいの人生。

普通の会社員からしたら考えられない生活を送っていたみどりさんですが、こんな不安定な、言ってしまえば訳のわからん生活をしていた彼女ですが、あまり細かく考えない性格なのか、こういう生活をしていても全く将来の心配とかはなかったという。

撮影を快く了承してくれたみどりさん

ただそれには、やはり当時が高度経済成長やバブルなど時代がよかったということも関係していたと思います。

「もうね、バブルの時は本当に凄かったわよ。若いときは私も貯めたお金で少し整形してまぁまぁ綺麗だったのよ。お客さんから『頼むから今日は付き合ってくれ』なんて言われてたこともあってさ。今なんてゴキブリでも寄ってこないのに(笑) 」

みどりさんの話は続く。。

「一番多い時なんか一晩で20人くらい相手にしたわよ。額でいったら一晩で30万稼いだときもあったんだから。その時は私も錯覚しちゃってね、『地球は私のためにある』なんて思っちゃってたわよ(笑)芸能人がちょっと売れてくると天狗になるっていうでしょ。あれと同じよ。」

「でね、おかまってのは見栄っ張りで、皆で『あんた今日いくら稼いだの?』『私は10万円』とか言うのよ。 」

おかまの世界もいろいろあるんですね( ´ ▽ ` )ノ

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