かつて神奈川県川崎市にあった「川崎遊郭」の歴史を掘り下げてみた!

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神奈川県第2の都市である川崎。戦後は工場地帯として日本の産業を支えてきたこの街ですが、今回はそんな川崎の遊廓に関しての記事を書こうと思います。川崎には今も風俗街があるのですが、その歴史って吉原とか横浜の風俗街に比べるとあまり資料が出てこなく調査がしづらかったわけですが、多少なりとも情報が集まったので、紹介したいと思います!
川崎遊郭に関してはネット上でも情報は比較的少ないですからね!
では、以下で紹介していきましょう!

川崎宿の成り立ち

川崎というと、工場地帯であり大きな都市になっているわけですが一体どんな背景で栄えたのか??江戸時代は東京都と神奈川県は六郷の渡しという小船によって結ばれます。多摩川には橋が架けてはいたようですが、度々川が氾濫したため、当時は船で結ばれていたようです。川崎宿は京都方面から来る際に六郷の渡しの休憩所にもなり、ここが宿として栄えていったようです。
江戸時代にこの川崎宿には、素泊まり用の平旅籠と食事を出す飯売旅籠の2種類の旅籠があったようです。そして、飯売旅籠の方では、食事を出すだけではなく、夜を共にすることもあったようです。幕府はこれを取り締まろうとはするものの、なかなか撲滅には至らずに飯盛女は1旅籠について2人まで置いて良いということになりました。
1863年の時点では、平旅籠が39軒あり飯売旅籠が33軒、そして飯盛女は66人いたそうです。年齢層は14歳~27歳までの辺りが多かったそうです。

※「今昔マップ on the web」を元に作成
そんな中、川崎の宿場町は財政が厳しくなっていきます。そこで、川崎の宿では旅籠屋にいた飯盛女の収益が非常に重要な財源となっていたようなのです。幕府の働きかけで東京と神奈川を結んでいた六郷の渡しの渡船権を獲得した田中休愚(きゅうぐ)は、六郷の渡し経営を保つために、旅籠屋に飯盛女を3人以上置いていいと許可をしたという話も聞き、そのような形で川崎宿の飯盛り女の収益で宿場町は成り立っていたらしいです。
そんなわけで、川崎宿の飯盛女はこの宿の名物となり風紀が乱れていって、のちの川崎遊郭誕生の歴史へと結びついているのです。

その後、川崎は富士紡績や日本鋼管(今のJFEスチール)の工場の誕生によって工業都市に発展。富士紡績や東芝・旭硝子の工場では、沖縄からの女工さんが多く移住してきたことで、今でも沖縄のお祭りが行われていたり、風俗史に至っては富士紡績の跡地に誕生した川崎競馬場のお金が堀之内のソープ街に流れたり、東芝の工場の方々が南町へと遊びに来てお金を落としたり。

工業都市に発展したことで公害問題も発生したりと様々な歴史を経て今に至る川崎の街。今回は遊郭に焦点を当てていますが、今後は川崎の街全体に関する歴史の記事も放出したいと思います!

川崎遊郭の歴史

川崎の赤線といえば今の南町の場所になります。ちなみに、読み方の正式名称は「みなみまち」なんだそうです。大正13年の県の公示では「みなみまち」となっているものの、一般には「みなみちょう」と言われていて現在はこっちの読みで言われることが多いようです。
江戸時代から川崎宿にある飯盛女を抱えた旅籠屋は川崎宿の名物になっていたそうですが、風紀上の問題から貸座敷業者は明治35年に南町に移された形になります。しかし、私が川崎の街に親しい方から聞いた話では、南町に全ての貸座敷が移ったわけではなく、一部はそのまま残ったそうです。

川崎区砂子には宗三寺というお寺が川崎駅の近くにあるのですが、このお寺には遊女の供養塔と石碑が建っているのです。

こちらがその慰霊碑と石碑。宗三寺の隅っこに建っており、卒塔婆には「川崎貸座敷組合」という字が書かれています。このお寺の方にこの供養塔がなぜこのお寺に残っているかに関してを伺っては見たのですが、結果としては「昔からあっただけで、経緯は不明」ということでした。川崎の当時の名残を感じさせるものは多分これだけなのではないかと。。
ただ、川崎に関する資料を見ると宗三寺の過去帳には江戸時代の頃の記録が残っており、1801年から1867年までの間に103人の飯盛女の記載があるとのこと。また、ここで働いていた飯盛女の方々は浅草や本所などから身売りされてきた女性が多かったそうです。
1872年に発生したマリア・ルーズ号での事件により、政府は娼妓解放令を発動。娼妓は親元に返されたものの、遊女屋は貸座敷渡世を願い出れば許可されるようになりました。そして、川崎宿の飯売旅籠と平旅籠が揃って貸座敷渡世を願い出て川崎遊郭が誕生する形になります。最初の川崎遊郭は、旅籠から引き継いでいたため妓楼は点在していたようです。ただ、風紀上の乱れなどから移転が考慮されて、1903年に南町の方に移転する形になりました。

その後は娼妓を巡る事件が起こったり、廃娼運動がおこったり。大正末頃にはカフェーやバーやダンスホールなどが流行し始め、カフェーは70軒ほどまで増えたようです。1933年頃には娼妓取締規則が改正されて、遊女は外出を許可されました。
今現在も稲毛神社ではお祭りがありますが、遊女もここで納涼音頭を踊ったそうです。その後、川崎遊郭は戦時中に休業になり遊郭としての歴史はここで終わりをつげ、その後に赤線、トルコ風呂の街へと変わっていくのです。

南町の遊郭の地図

今回は南町の調査をするにあたり、川崎の街に詳しい方に色々あたり南町の配置図を持っている方に出会うことができ、その位置を特定することができました。

今の地図でいうと、川崎駅の南側にある赤いエリアがその対象になります!

詳しい方からいただいた地図をもとにして図にするとこんな感じです。作った地図がクソ過ぎてすんません( ;∀;)
南町も他の遊郭同様に入口に大門があり、幅が広い通りの両側に妓楼が並んでいる形です。そして、通りの中央には柳の木や桜の木が植えられ、そして井戸も生活用水+火事対策なのかあったそうです。妓楼の数は20ほどで、それに加え川崎貸座敷組合事務所が置かれていたようです。
遊郭があった場所の東側にはひょうたん池という池がありました。実は、今は見当たらないものの川崎には昔は多くの場所に池があったようです。これは、どこかの場所に物を建てる時に土砂が必要になった場合にその場所の土を持って行ったから。川崎は、標高が低いためちょっと下を掘ると水が出てきてしまったんだそうで、それによるものなんだそうです。池は、日本鋼管が工場で出る余分なクズを用いて池を埋め立てたそうなので、池はほぼ見当たらないと思います。

大正から昭和にかけての間の情報しかないのですが、この頃南町にはカフェーのお店もありました。上の地図は先ほどの地図をちょっと拡大した感じの地図。遊郭街の北側(写真では右側が南になります)には「大門通り」「親不孝通り」という通りがあり、そこには射的のお店やカフェーのお店も並んでいたようです。
また、親不孝通りという名の通りは横浜の曙町にもあるのですが、川崎にもあったのですね。
次ページでは、当時の妓楼の写真を紹介!
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