横浜のハマスタ跡地にかつてあった「港崎遊郭」の歴史を掘り下げてみた!

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)
今回は、またまた遊郭ネタになります。知の冒険を初めて横浜の遊郭の歴史に関してはもう本当に何度も何度も訪れて調査とかをしてきましたが、今回は横浜の遊郭史の始まりとなる「港崎(みよざき)遊郭」に関しての記事を書いていきます。
本記事のポイント

・横浜スタジアムがある横浜公園はかつて遊郭街だった
・港崎遊郭の名残としては、公園内の石塔や岩亀稲荷という神社がある
・外国人と接した女性はラシャメンと言われ差別されていた

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横浜の色街史をおさらい

※「今昔マップ on the web」を元に作成
ではまずは、横浜の色街史に関して簡単におさらいいたします。横浜は今のような大都市に発展する前は横濱村という簡素な村だったのです。ところが、1859年の開港の港として横浜が選ばれました。理由としては、当時の主要道路である東海道は、中心部である江戸につながっていることからここをあまり外国人の方に来てもらいたくない。
そんな理由から、横浜も神奈川の一部だ!と言い張り、横浜港を開港したのでした。横浜が開港するということで、東海道から横濱村へのアクセスをよくするために横浜道という道を作り、その後は生活用水が必要ということで今の津久井湖あたりから水道管を43kmもつなぎまくって日本初の近代水道を築いたのでした。
そんでもって、外国人も増え村が賑わうということで色街的な要素も必要になってくる。そこで、今の横浜スタジアムがある横浜公園の場所に港崎遊郭を作ったのでした。
横浜の色街のエリアはこんな感じ。現役のものからすでにない遊郭の跡地も記載していますが、高島遊郭はもう少し北なのでありません(笑)
横濱発の遊郭は、豚屋火事によって港崎遊郭は消失し高島町に移るなどした後は、最終的に今の真金町(眞金町)・永楽町に移ったのでした。この真金町にあった永真遊郭は1958年の売春防止法が施行されるまで続くことになります。
それと同時に、黄金町や曙町の方でも色街要素が出来てくることに。黄金町の方では薬物や拳銃が持ち込まれる無法地帯となると同時に違法売春が行われることになります。その後は、カフェー建築が最盛期に250軒にまでになり、三大ちょんの間(他は沖縄の真栄原、大阪の飛田新地)の一つにまでなったのです。
一方曙町もカフェー街になった後、この付近にあった病院がなくなったことによってファッションヘルス店が一斉に立ち並ぶようになり今のファッションヘルス街を形成しています。その理由は、条例で病院の周囲200m以内にはそのような風俗店は出店できないというルールがあったものの、病院がなくなったことで出店ができるようになったから!ちなみに、今現在では出店はできない。
簡単に時期を図にするとこんな感じです。遊郭の流れについて話すときりがないのですが、そんな感じで横浜の色街が出来て今に至るということにしておきますよ!

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港崎遊郭はどんな遊郭だったのか?

日程に間に合わず仮の場所でスタートしたorz
社会人になると、納期に間に合わなくてプロジェクトが炎上なんてことはあるかと思いますが、この港崎遊郭も様々な事情により、元々約束した日程に間に合わなかったのです。。
この港崎遊郭の建設を担当したのは佐藤佐吉という方。1859年に横浜が開港する6月2日に間に合わせるように約束をしたわけです。しかし、今の横浜公園は当時はまだ十分な跡地ではなかったため埋め立て工事をする必要があったのです。しかし、工事を急いだもののここは沼地ということだけでなく梅雨の時期と重なったこともありこれでは到底6月2日に間に合わない。。
▲別の場所で遊郭をスタートすることに・・
そこで、港崎町での開業を延期にして別の場所で一旦6月2日に営業することになったのです。それが、今の地図でいうと青く囲ったエリアで中区山手町50番地付近だと思われます。この場所でいったん遊郭営業を開始し、引き続き港崎町の建設工事は続けられたのです。ところがどっこい夏の時期には暴風雨にも見舞われるなどしてなかなか建設がうまくいかない。
▲仮遊郭であった「港崎町假宅」の配置図
太田屋新田の中で15,000坪の場所で埋め立てを急いだ港崎遊郭。埋め立て工事が進まないだけでなくここで働いてもらう遊女もなかなか集まらない。異国人に接することを嫌がり女郎を志望するものも現れず、仕方なく奉公所の了解を得て神奈川宿の飯盛女(めしもりおんな)を連れてきてその場をしのいだという感じになりました。
この遊郭を任された佐吉・五兵衛はこのようにあわただしい日々を送り、責任による心労などで病床に臥するまでになってしまったのです。しかし、その後同じく1859年11月29日に佐吉を港崎遊郭の名主として営業を開始するに至ったのです。

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港崎遊郭の全体図

港崎遊郭は1859年〜1866年までのわずか7年間しかありませんでした。そんな遊郭全体の図はこんな感じです。これは『花柳風俗史 第十一巻』という明治時代の書物を参考にして作った図になります。港崎遊郭が出来た当初は、わりと微々たる感じの街だったようです。
岩亀楼や五十鈴(いしづ)楼などは結構立派な建物で、昼間は見物するだけでも楼内を自由に見学することができたという。ただ、見物料(今でいう入館料?)はちゃんととってたみたいです。。こう街を見ると、街全体に遊郭がびっしりというわけではなかったようです。遊郭は15軒ほどで、それ以外にもお茶屋や料亭なども多くあったのですね。
また、今の吉原にもあるような見返り柳もある他、遊郭への土手に続く道は吉原道といわれていたようです。

外国人を相手にしていた遊郭

そしてこの遊郭の特徴としては、外国人もお客さんの相手にしていたという点です。開港に合わせて作った遊郭のためではあるもであるが、遊女たちは外国人の妾(めかけ)として1ヶ月や2ヶ月と期限を決めて遊女たちを自宅に連れ込んでいたという。
▲日本三大花街と言われた長崎県の「丸山遊郭跡」
外国人を相手にしていた遊郭は、当時は長崎県にあった丸山遊郭が初めてでそれに次いだのが港崎遊郭だったようです。そのため、丸山遊郭を模倣して客の顔によって上中下の三等に区別して三円以下五十銭までの敵娼を取り決めることにしていたという。
永真遊郭の時には、外国人専用の遊郭である神風楼もできたり、いろんな人種が来ることで喧嘩などが起きていたようですが、港崎遊郭でもそうだったのでしょうかね??

豚屋火事により見事に消失

▲港崎遊郭があった横浜公園
そんな港崎遊郭は、あっさり火事によって消失してしまいます。というのも、江戸時代は「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるぐらい火事が起きては再建しということを繰り返していたわけです。日本最大の遊郭街であった吉原遊郭でさえ20回以上の火事に見舞われていたくらいですから。。
そして、周辺の豚屋料理屋の鉄五郎という店で発生した家事により火は瞬く間に今でいう関内の街に燃え広がり焼け付くしてしまったのです。鉄五郎、、なにしとんねん。。火事は午前8:00に発生し、消化したのは22:00。14時間もの間、燃えに燃えまくったわけです。

横浜遊郭(港崎遊郭)のその後!

横浜遊郭は、火事などによって移転して行った「港崎遊郭」「吉原町郭」「高島町郭」「真金町・永楽町郭(永真遊郭)」の総称として用いられています。 横浜遊郭の歴史は、上図のようになっており、港崎遊郭が豚屋火事で消失した後は、「太田町假宅」→「吉原町郭」→「高島町郭」→「長者町假宅」→「真金町・永楽町郭(永真遊郭)」というように移り変わっています。
豚屋火事の後は、遊郭復興を急ぐ市民や楼主一同の努力によって、一時太田町に假宅を建造して営業を再開することになります。しかし、全ての遊郭が太田町に集まったわけではなく、元町等に散在していたようです。この辺りは、今後横浜遊郭の全貌に関する記事を書く予定なので、そこで詳しく説明しようと思います。

豚屋家事の反省を街づくりにいかした!

江戸でも、とにかく火事が多かったわけです。昔は、消防隊は「破壊消火」といって今の様に放水をして消化するのではなく、周囲の建物をぶっ壊して燃え広がらないようにするという手法を用いていました。あまりに火事が多かったわけですが、それは木造ということだけでなく建物が密集していたということも原因の一つだったわけです。
▲火事が広がらないように作られた上野広小路
そんなこともあり、街には広小路(ひろこうじ)という開けたエリアを所々に設けることにしていました。今では地下鉄銀座線の駅にもなっている上野広小路(上写真)、あとは大崎広小路、静岡県には三島広小路と今でも多くの場所でその名残りがあるわけです。
港崎遊郭があった横浜公園からは、海方面に向かって日本大通りという通りがあります。この通りは日本で初めての近代道路なのです。ちなみに、この通りは日本人居住地と外国人居留地の境目でもあり、R.H ブラントンというという方が考案した道路なのですが、この通りだけでなく、この辺りの横浜の町並みは、建物を密集させず道路も広めにして街を作っていたのです。
それだけではなく、消防隊も強化。日本初の消防署である中区消防署は日本大通りの一つ隣の通り沿いにあり、その発祥の地が今でも残されています。建物の老朽化によって今は近くに移転しているものの、貯水槽だけは残されていて今もその中を見ることができます。この消防署では、1914年に日本初の消防車、1933年には日本初の救急車がここで誕生しました。
この地には、当時の貯水槽だけが残っている感じになります。

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現在の港崎遊郭跡を歩く

今まで何度も訪れてはいるものの、今回の記事を書くにあたってもう一度現在の横浜公園を歩いてみることにしました。ということで、知の冒険を始めてからもう何度来た事かわからないくらい来ている関内駅に参上!!横浜公園はここから歩いてすぐの場所にあるんですわ。
横浜公園といえばなんといっても「横浜スタジアム」という印象が強いですよね!しかも、ここが公園だったということすら、私は最近知ったんですよね・・(ー ー;)
ただの広場的な感じだと思っていたので。。

横浜公園に今も残る岩亀楼の石塔

▲横浜公園が遊郭跡だった事を示す石塔
そんな横浜公園の隅(今現在は彼我庭園の中)には、港崎遊郭の代表的な遊郭であった岩亀楼の石塔が残っています。岩亀楼は港崎遊郭が消失した後も、高島町郭にも永真遊郭にも存在していました。しかし、永真遊郭にあった時の明治15年の大暴風によって建物がやられて消失していきます。
 石塔には「岩亀楼」という文字が刻まれているのがはっきりわかりますね!

彼我公園としての歴史

この横浜公園は彼我(ひが)公園とも呼ばれていました。その由来としては、港崎遊郭が焼失してから10年後の1876年に開園した際に、外国人(被)と日本人(我)が共に利用できたことからこう呼ばれています。この庭園門は彼我の友好と平和が深まることの願いが込められている他、屋根にはジュラール瓦が使われています。
▲公園内には風情を感じられるエリアも
庭園内は、最近整備されたばかりで私が訪れた2017年5月は非常に綺麗に整備されていて多くの方の憩いの場と化していました。 この公園は、日本の灯台建設のために招聘されたブラントンによって設計されました。彼我公園として利用されていたのには立地的な要因があるわけです。
ブラントンは横浜公園の正面にある日本大通りも設計をした人なのです。日本通りは日本人居住区と外国人居住区の境目としており、横浜公園はその境界に位置していたということが彼我公園という所に大きく関係しているようです。しかし、主に公園を利用していたのは外国人だったとか。
その後、横浜公園は横浜クリケットクラブに貸与されたあとは、野球場が作られ市民がスポーツを楽しむ場になります。その後は、日米の交流戦が行われてベーブ・ルースが試合に出たり、公園の北隅に音楽堂が出来たりします。
そして、戦後はアメリカ軍に接収され公園内にあった球場は米軍専用となりゲーリック球場と呼ばれることに。戦後は復興事業として名古屋では100m道路が作られるなどするものの、横浜は接収されていたことから戦後の復興事業が進まない状態になっていました。このことを「空白の7年」というそうです。
接収解除された後は球場は「平和球場」と呼ばれることに。そして1978年横浜スタジアムが完成しました。

横浜ベイスターズの歴史!

公園内には横浜スタジアムが佇んでいる印象がやはり強いですよね。横浜ベイスターズは元々は大洋ホエールズというクジラの会社が作った球団。「4522敗の記録」という敗戦数がめちゃくちゃ多い球団なってしまっているものの、最近はまだ強くなった方ですかね?
横浜公園は日米の交流戦が日本で初めて行われたなんてこともある場所なのですが、港崎遊郭が出来てから70年近く経った1929年に横浜公園平和野球場ができ、1978年に横浜スタジアムが竣工されました。1998年に優勝した年にはスタジアム拡大の噂もあったそうですが、今後はリアルに拡大の話があるんだとか。
▲1998年の日本一を記念したモニュメント
ちなみに、その横浜公園から少し北側に行ったところにはベイスターズ通りという通りがあります。その通りには1998年に優勝した記念碑が建っているのです。あの頃は私は小学生でしたが、いや~マシンガン打線当時のメンバーは最強でしたよね!!
石井(琢)、波留、鈴木(尚)、R・ローズ、駒田、佐伯、新藤、谷繁・・・あの頃は何点差でも逆転できる気がしてましたし実際にしていましたし。次にベイスターズが優勝するのは、また38年後なのだろうか。。
隅にはホームベースと足跡が。この足跡はトップバッター石井琢朗がバッターボックスに立った際の足跡なんですって!!

岩亀横丁にある岩亀稲荷

港崎遊郭よりも北側にある桜木町駅と高島町駅の間にある場所に、岩亀横丁といわれる通りがあります。ここには、かつて岩亀楼で働く遊女たちが静養するための寮があったようです。
今では、岩亀というお店もありました。岩亀はおそらく岩亀楼の名残である老舗のお店なのではないかと踏んでいるのですが、その辺は不明なので今後取材しようと思っています!!
▲岩亀通りに建てられた岩亀稲荷
そして、ここ岩亀横丁には岩亀稲荷というお稲荷様もあり、今現在も信仰している方がおり毎年5月25日には盛大に例祭が行われるようです。私が訪れたときは、残念ながら夕方になっていたためか入り口が閉まっていました。。
昔はどんな感じだったんですかね?今では閑静な通りとなっていました。ここで聞き込み等もできなかったですし、そこまで調べてもこの横丁に関する記述はあまりなかったので岩亀横丁に関してはこの辺で!

らしゃめんについて

港崎遊郭に関して話す際にはこの話題も話す必要があるのではないだろうか?港崎遊郭は外国人を相手にしていた遊郭であるわけですが、当時外国人を相手にしていた遊郭は長崎県にあった丸山遊郭だけ。日本史を勉強する際には博物学者のシーボルトという男が登場すると思いますが、彼は丸山遊郭で出会った遊女(楠本たき)と同棲していたこともあるのです。
という感じで、丸山遊郭にはラシャメンという外国人の妾(めかけ)がいたわけですがそれは港崎遊郭もそうでした。丸山遊女の時代に次いで、港崎でも外国人相手の遊女が多数雇われたようです。
▲GIベビーが眠ると言われている山手外国人墓地
そんなラシャメン達の子供達はGIベビーと言われ、山手駅からすぐ近くの山手外国人墓地に眠っていると言われています。本当に彼らのお墓があるのかは定かではないものの、横浜市民の間でもほとんど知られていない墓地だという。

罵声を浴びせられたラシャメン

当時、ラシャメンは罵声を浴びせあっれる対象でした。ラシャメンの女郎を載せた籠が襲われて水をかけられ馬糞を投げられるなんてこともあったそうです。夫の立場である外国人は自身の布陣にこれほどまでに暴行や侮辱をされることに憤り奉行所に抗議していたという。
しかし、時代が進むにつれてラシャメンの数も増えてくるとラシャメンたちへ罵声を浴びせるということも少なくなったそうです。

ラシャメンのうた

サザンオールスターズはまぁ誰もが知ってるグループなわけです。ちなみに、桑田さんは私の高校の先輩でもあるんですけどね(^ ^)
そんなサザンのアルバムであるバラッド3というオレンジ色のアルバムの中に「ラシャメンのうた(唐人物語)」という歌が収録されています。高校生ぐらいからこの曲を聞いているものの、ラシャメンという意味はわからず聞いていたのですが、今回の港崎遊郭と関係があるのですな。
ラシャメンは漢字では「洋妾」と書くようです。サザンの曲では唐人と書かれています。開港後は、外国人を相手にしていた遊郭ということもあり、そして外国人の妾として仕えていた女性がいたこともあり外国人の方と結婚する方も多くいたようです。そのような方々を差別用語という形でラシャメンとして使われていたよう。
▲静岡県下田市にある「唐人お吉記念館」
有名な方としては、唐人お吉という方が有名。ラシャメンのうたには歌詞の中に了仙寺というお寺の名前が出てきますが、このお寺も下田にあることから、確かにこの歌は唐人お吉の物語をもとにしたと考えてもいいかもしれないですね。
お吉の墓は静岡県下田市の玉泉寺というお寺にあるそうです。これは、下田に行って調査をする必要がありそうです。しかし、このラシャメンの歌という歌。他のサザンの歌に比べると少し異質な感じがします。ちなみに歌っているのは桑田さんではなく奥さんの原由子氏。なぜ桑田さんはこの歌を作詞作曲したのか。そんなことを記事を書きながら考えておりました。

おわりに

港崎遊郭を学ぶにあたり、まだまだ課題が出てきました。。今回は横浜での調査に終わりましたが、唐人お吉の物語を調査すべく今度は下田に行って取材を行う必要がありそうです。しっかし、まぁ調べれば調べるほど本当に色々な物語が出てくるものだ。
ということで、横浜の色街物語の取材はまだまだこれからも続くということで、また記事をあげようと思います!乞うご期待!

参考文献

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詳細・地図

住所 神奈川県横浜市中区
アクセス 関内駅から徒歩3分程度
リンク http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/park/yokohama/kouen012.html
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