閑静な田舎町のシンボル「小坂鉱山事務所」が豪華春蘭だった!

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こんちわっす!

日本中の知られざるスポットを取材してブログにしている『知の冒険』。今回の記事は、秋田県小坂町にある小坂鉱山事務所に関する記事になります。

日本にはいろんな鉱山があって、足尾銅山、佐渡金山などは有名ですかね。でも「小坂鉱山」というと、聞いたことあるって方はあんまいないでしょうか??

というか、私もここを訪問するまで小坂鉱山って存在を知らなかったんですけどね(;・∀・)

でも、ここはかつて日本一の銀生産量を誇ったほか、日本三大銅山とも言われたほどの鉱山であり、そんな小坂町のシンボルとして建てられたのが小坂鉱山事務所だったんですね。

ではでは、小坂鉱山事務所とはどんな場所なのか?さらには、小坂鉱山とはどんな鉱山だったのか?

その辺の歴史も踏まえて、以下で紹介していきたいと思います~!!

本記事のポイント

・秋田県の小坂町には、町を支えた小坂鉱山があった
・らせん階段が見事な小坂鉱山事務所は、町のシンボルだった
・電気、水道、病院、鉄道などインフラも造ってしまった!

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18億円をかけて移築した事務所

ということで、今回は前回の記事に続き秋田県小坂町を取り上げようと思います。秋田県の小坂町って、そんなに有名でもない町だと思うのですが、なかなかコアな場所にあるんですよね。。

秋田県の端っこに位置していて、近くには十和田湖があるっちゃあるものの、アクセスはめっちゃ悪いっす。。車じゃないと結構しんどいんじゃないっすかね。

めっちゃくちゃ豪華な建物だ・・

そんな田舎町に、こんなすんばらしい近代建築があるんだからビックリですよね。この建物は、1905(明治38)年に建てられた小坂鉱山の事務所っす。明治の時代に、こんな田舎町にこれだけの巨大建築が建てられたってだけで凄いですよね。

入り口にあるバルコニーが、これまたオシャレな造りに!

小坂鉱山事務所の建物は、今では一般開放されていて誰でも入館料を払えば中を鑑賞することが出来ます。しかもここはガイドをつけて案内していただくことも出来ますし、あとはすぐ近くにある芝居小屋「康楽館」との共通券も売ってるので、歴史とかこういった建物が好きな方はセットの方がお得かもしれないっすね!!

ではでは、早速中に入ってみることにしましょ~~

最大の魅力である、らせん階段!!

クネリ具合が素晴らしすぎる

館内に入り、真っ先に目に飛び込んでくるのが、こちらの螺旋階段!

中央の通し柱は秋田県の天然杉を用いており、継ぎ目がなく一階から三階まで貫かれております!!一階から三階まで9mもの長さがあり、とんでもなくデカい木を用いたんだと思いますよ!!

この曲線美が素晴らしすぎて、ずっと見ていられますわ。腕利きの職人さんが造ったんでしょうが、よくこんなきれいに曲げられたものだ。。

この階段、今でも物凄い値段が付くと思います

先ほど、階段真ん中の柱は秋田杉を用いたと書きましたが、階段や手摺りは欅(ケヤキ)が使われています。一段一段上るのに足で踏んずけるのが申し訳ないくらい、良い素材を使ってると思いますよ(*´▽`*)

手摺りの、この曲線が本当にお見事!

とにかく造りが美しいので、無駄に上り下りしていましたww

木でできた螺旋階段は、埼玉県の木に関する博物館の「木力館」、あとは山梨県にある元遊廓の「いさごや旅館」で見たことがありましたが、ここのも本当に見事でしたわ!!

という感じで、まずはメインのバルコニーを紹介しました。続いては、バルコニーに出てみることにしましょう!!

とある秘密が隠されたバルコニー

先ほど紹介した、二階のバルコニーへとやって来ました!

ここの造りも大変こだわっていて、上の写真を見てもたくさんの意匠が見られることが分かるかと思います。

そして、これらの意匠は、とある言葉を表してるんですよね。

何だかわかります?(笑)

藤田の”田”と、藤の花

何を表してるかというと、真ん中の上の意匠が”藤田”の”田”を表していて、その両側にある花柄は”藤田”の”藤”を表しているんですわ。

建物の造りにメッセージを込めるとは、なかなか粋なことをしてくれますよね!

これだけ素晴らしい小坂鉱山事務所の建物ですが、ちょっとここで小坂鉱山の歴史に迫ってみることにしますか!

小坂鉱山を発展させた藤田組

小坂鉱山の始まりは、江戸末期に遡ります。1861(文久元)年に小林与作というっ方が銀鉱石を発見したことがキッカケとなり、1866(慶応2)年に盛岡藩直営となるも、戊辰戦争により開発は中断。。

クルト・ネットーがドイツ式の溶鉱炉を設置したことが小坂鉱山の基礎を築くことになるのです。そう、小坂鉱山は元々銀の鉱山だったんですね!

そして1880(明治13)年以降には八年連続で日本一の銀山に。

何で銀山から銅山へと移り変わっていったのか??

それは、銀が枯渇したのかはちょっとわからないですが、大きくは黒鉱の自溶製錬に成功したことがキッカケだったのです!!

1901年には大煙突を持つ新製錬所の建設が始まり、町に活気がみなぎります。

そうした小坂鉱山は経営者がたびたび代わったものの、小坂鉱山を大きく発展させたのは藤田組(現:DOWAホールディングス)でした。1884(明治17)年に、国家財政立て直し政策の一環として小坂鉱山は藤田組に払い下げられました。

藤田組に払い下げられたあと、小坂鉱山は黒鉱自溶製錬の成功によって鉱産額が伸びていくわけですが、その立役者が、上の写真に写っている藤田伝三郎(ふじた・でんざぶろう)というお方だったんですね。彼が1912(大正元)年に藤田組の社長に就任し、小坂鉱山などグループ企業の経営を盤石なものにしていきました。

すんごく簡単にですが、以上の様な流れで小坂鉱山は発展していくんですね!

ではでは、次では小坂鉱山を発展させた要因の一つである「黒鉱自溶製錬」を取り上げようと思います!

黒鉱との闘い!

小坂鉱山は経営者がコロコロ代わるし、時には閉山の危機もありました。 そんな小坂鉱山が日本三大銅山の一つにまで成長した大きな要因は、黒鉱の自溶製錬の成功にあったのです!

館内に展示されている黒鉱

そんな黒鉱は、専門的には「複雑鉱」「複雑硫化鉱」と呼ばれています。何やらめんどくさそうな名前ですが、黒鉱はその名の通り、銅鉱石としては金・銀・鉛・亜鉛・カドミウムといった色んな金属を含みすぎているんですね。

世界のほとんどの銅鉱石は「単純鉱」であり、銅以外の不純物があまり含まれていないため通常の製錬技術で銅を取り出せるわけです。

ところが、黒鉱はそうはいかない。。

この黒鉱からいかにして不純物を取り除いて純度の高い銅鉱石を取り出すのか。これが、小坂鉱山の技術者たちに課された宿命的なテーマだったわけです。

あの日立の礎を築いた人なのだ

その黒鉱製錬に挑んだのが、久原房之介(くはら・ふさのすけ)でした。久原は閉山の危機にあった小坂鉱山に赴任して所長になった後、井上馨へ直談判をして毛利家から融資を得て閉山方針を覆し、黒厚生連の道を探ることになります。

この所長が久原だった時代に、同世代の若手技師を登用。所長の久原、さらには技師長・竹田恭作、さらには”溶鉱の三羽烏”ともいわれた竹内惟彦、米沢万陸・青山隆太郎ら多くの努力があり、大きな壁だった黒鉱の製錬に成功したのです!

ざっと以上の様な流れになるんですが、超簡単に流れが分かるようにと上記の流れを抜粋した年表も張り付けておきますね~~(*’▽’)

小坂鉱山の年表
1861(文久元)年
小林与作が銀鉱石を発見。
1884(明治17)年
経営者がコロコロ代わるも、藤田組が運営することとなる。
1900(明治33)年
黒鉱自溶製錬に成功し、銀山から銅山へと生まれ変わる。
1905(明治38)年
小坂鉱山事務所が創建。
1907(明治40)年
鉱山額日本一の大鉱山に!
1910(明治43)年
鉱山従業員の厚生施設として芝居小屋「康楽館」が開業。
1989(平成元)年
同和鉱業から小坂製錬が分離独立。現在も都市鉱山の中核施設として、発展し続けている。
1990(平成2)年
鉱石採掘の歴史に幕を閉じ、閉山となる。

めっちゃたくさんある上げ下げ窓

という感じで少し小坂鉱山の歴史に触れたわけですが、再び小坂鉱山事務所の建物の案内に戻るとしますか!

窓が多くて、めっちゃ明るい(*’▽’)

先ほどは二階のバルコニーを紹介したと思いますが、そこから館内をグルッと回る感じで進んでいきます。

廊下も天井を見れば格天井の造りになってますし、窓には当時ベルギーから取り寄せたという手作りのガラスが今もはめ込まれています。当時は電気が今ほど普及してたわけでもないですし、極力採光することを考えたんでしょうかね。

廊下を進んでたどり着くこちらの広々とした部屋。今は休憩所となっているようで、展示物があるってわけではなく、椅子に座って休むための部屋って感じでしょうか??

こちらも格天井が素晴らしいだけでなく、上げ下げ窓がビッシリで、昼間でもめっちゃくちゃ明るいです!!

窓に紐づけられたベルトには重しがありましてですね(写真では見えないですが、この浦にあるようです)、窓をどの位置に持って行っても重さで下がらないような工夫がなされているのです。

何気ない窓にも、いろんな工夫が取り込まれてるんですね~~

電気や水はタダ、恐るべき鉱山の財力

床には小坂町の航空写真が写されています

さらに二階の廊下を進んでいくと到着するこちらのお部屋。こちらでは、小坂鉱山が反映したことにより、小坂の町がどのように潤ったか的な内容が展示されていました。

先ほどの話でも出てきた所長・久原房之助は、小坂に理想社会を作ろうと考えていました。商店街や社宅街の整備が進められ、電気、水道、鉄道などのインフラが、藤田組の資金で整備されていったのです!

十和田湖の水力発電で電気を通した

その電気や水はどうやって賄ったのかというと、それは近くの十和田湖を活用したのです!

十和田湖の水力発電によって電力を生み出し、そしてその電力を使って、十和田湖の水源を小坂町に流したというわけ。しかも、凄いのが、小坂町民はこの電気と水をタダで使えたんですよ!

ヤバ過ぎないっすか?小坂鉱山、どんだけ儲かってたんすか?ww

東北で二番目に大きな病院もあった

さらに、小坂町には小坂鉱山病院もありました。これは東北大学付属病院に次ぐ東北で二番目に大きな病院だったとのこと。この病院も、藤田組によって運営されていたわけですが、鉱山ということもあり、ゲガ人は多かったと思うんですよね。。

こうした電気、水道、病院のみならず、警察、学校、神社、さらには鉄道まで藤田組が造っちゃったんですから、もう財力わけわかんないっすわ。。ってか、警察を民間の会社が造ったってどういうこと??(笑)

小坂鉱山の礎を築いた外国人

二階から三階に上ってきて、今度はこちらの部屋へとやって来ることに!

この部屋では、小坂鉱山事務所の発展に大きく貢献した外国人のクルト・ネットー氏に関する内容が説明されています。

溶鉱炉の技術を伝えたクルト・ネットー

1847年に、ドイツ東部に位置する現在のザクセン州フライベルク市に生まれたネットー。フライベルク鉱山学校を優秀な成績で卒業した彼は、1873(明治6)年に鉱山兼製鉱師として日本政府に招かれ小坂鉱山へと赴任することになります。

何で彼が日本にやって来たのかというと、鉱山には溶鉱炉が必要となるんですよね。いわゆる、採掘した鉱石から金属を取り出すためってことですね。そんで、その技術が世界的に進んでいたのがドイツだったことから、ドイツからエンジニアを呼んで、その技術を小坂鉱山に生かしたいと考えたってことっす。

クルト・ネットーはなぜ小坂鉱山にやって来た?
溶鉱炉の技術において世界的に進んでいたのがドイツだったことから、ドイツからエンジニアを呼んでその技術を小坂鉱山に生かしたいと考えたため!

そんなクルト・ネットーは、後に指導的な立場となる冶金学者や技術者を育てることとなりました。

東京大学初代冶金学教授だった彼は、講義録『涅氏冶金学』を出版し、これは冶金学の名著とも言われ、彼の教え子は明治期の鉱業界を支える立役者となったのです!

そうした、彼に関する資料もこうして展示されております!

明治天皇より拝領した旭日章(勲章)

こちらは明治天皇から拝領したという本物の勲章っす。

クリスマスのお祝いの様子

彼は絵が上手くて、クルト・ネットーが小坂の人々を集めてクリスマスをお祝いした様子を、こうしてスケッチ画にして残しています。

そして、こちらは日本で最古のクリスマスに関する資料とも言われていることから、小坂町は 「近代クリスマス発祥の地」としてクリスマスマーケットなどのイベントが開かれているようです。

へぇ~そんな歴史もあったんですね~~。

こちらは神社の絵ですね

神社の絵も描いてますが、こちらも小坂町にあった神社なのでしょうか??

小坂鉄道の歴史も大事なんですね~

クルト・ネットーに関する部屋のお隣には、上の写真の様な看板が建てられています。ここは鉄道に関する展示があるわけですが、先ほど記事でも話が出たように、小坂鉱山の繁栄により、採掘した鉱石などの移動手段のためにと、藤田組は1909(明治41)年に小坂から大舘までの間にて小坂鉄道を開業。

最初は小坂鉱山専用鉄道として開業したものの、翌年には旅客輸送も開始されたとのこと。

子どもが窓の外見てるの嬉しそうで何だか和む

ちなみに、小坂町には「小坂鉄道レールパーク」という鉄道関連の博物館もあるんですが、ここは小坂鉄道があった名残りなんですね。

博物館マニアとしてココも訪問したかったものの、小坂鉱山事務所と康楽館を訪問したらもう時間なくなっちゃって結局訪問は出来ず。。次回この辺来たら寄るようにしますけどね!!

ポケットマネーで芝居小屋が爆誕!

先ほどの部屋からさらに歩いていくと、こんな部屋に到着します。旗が上がっていて、少し賑やかな雰囲気に見えますね!

この旗には「康楽館」と書かれています。

これ、何かというと今も小坂町で現役の芝居小屋なんですね!

現存する日本最古の木造芝居小屋っす

その建物はこちらなんですが、洋風の素晴らしい外観ですよね。小坂鉱山が開業した5年後の1910(明治43)年に建てられた芝居小屋なんですが、これは「小坂鉱山で働く方々や小坂町民の娯楽施設」が必要だということで、小坂鉱山を運営する藤田組がポケットマネーで建てたんですって!

そのお金は当時の額で15万円。今の額に換算すると、7億円ほどとのことです。

康楽館については、その歴史や館内の様子を、前の記事で詳しくまとめていますので、ぜひご覧になってみて下さいね~~!

この部屋では、そんな小坂鉱山に関する展示があるって感じっす。

右側の建物の中では何かしらの映像が流れてたんですが、私はあんまり時間が無かったというか、結構営業時間ギリギリに写真撮ってたので、見る時間が無かったというね。。

当時のポスターや写真などの資料
すげぇ人口密度だ・・

そしてこの写真がインパクト絶大なのですが、これは康楽館にお客さんがビッシリ来館している様子を写したもの!!

何人いるのかわかりませんが、凄まじい密度で見てるだけで酸欠をおこしそうですわwwこの康楽館が誕生した明治の時代は、まだ娯楽も多くなかったということもあって、余暇を楽しみたいというときには皆がこの芝居小屋を訪れたんでしょうね!!

ここでは、小坂鉱山の発展に大きく活躍した人物が紹介しております。何人かいるんですが、ここでは溶鉱の三羽烏と言われた三人の人物を紹介したいと思います!!

最後は所長室でフィニッシュ!

そして、最後に紹介するのは所長室!

お偉いさんのお部屋ということで、三階の隅にありました。ここは鉱山の従業員の方でさえ一度も入ったことがない部屋だったりします。

部屋の中はというと、格天井に上げ下げ窓と他の部屋とそんなに大差はないっすね。まぁ当時の部屋の様子が完全再現されてるわけではないっすからね。。

他の部屋に比べて少し天井の明かりが豪華ってくらいですかね。この部屋には小坂鉱山にまつわる説明があるわけではなく、雰囲気を味わうって感じですかね。

確かこの机は当時のものって言ってたっけな・・

黒鉱の製錬技術は今も生かされている

小坂鉱山事務所の紹介は以上になるわけですが、ちょっとおまけっす!

というのも、さっきの年表にチラッと書いたんですが、小坂鉱山は1990(平成2)年に閉業したものの、前年に小坂製錬という会社が分離独立して今も会社は存続しています。

しかもこの企業、結構儲かってるみたいなんですよ(*’▽’)

それは、なぜか??

先ほども話した通り、小坂鉱山は黒鉱の製錬に成功したことで大きく栄えたわけですが、この黒鉱は多くの金属を含んでいることから、そこから銅を取り出すのはが大変だったという話をしましたよね!

つまり、複雑なものを含んだものの中から特定の金属を取り出すという技術を小坂鉱山はもっており、小坂製錬はその技術を持っていたわけです。

そして、それが現在では都市鉱山として生かされているんですよね!!

どういうことかというと、鉱石をスマホや家電に置き換えればわかりやすいかもしれないです。小坂製錬は、スマホをはじめパソコンや家電、自動車などで廃品になったものを溶かして、金、銀、銅、プラチナといった金属を抽出することに優れているってことっす!

そうすることで、使い古されたスマホや家電から貴重な金属を取り出して再利用できるってわけですよ!

小坂製錬では、スマホが3.5トンあれば、1キログラムの金を取り出せるとのこと。すごいっすよね~~。

その辺の詳細は、上の『千年、働いてきました』という老舗企業を紹介する書籍にも掲載されているので、気になった方は読んでみて下さいね~~!

おわりに

はい、以上になります!

いかがだったでしょうか?

秋田県の田舎町には、鉱山が創業したことによって巨大な事務所が誕生し、鉱山の繁栄によって町が潤った歴史があったんですね。

そしてその技術を今でも受け継いで、都市鉱山として生かされているというのもなかなか面白い。

小坂町は、冒頭で述べた通りなっかなかアクセスが良くなくて行きにくい場所だとは思いますが、よそにはない面白い歴史がたくさん眠っていますので、少しでも興味がある方は、ぜひ足を運んでみて下さいね~。

ではでは、また次の記事でお会いしましょ~~

参考文献

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詳細・地図

住所 秋田県鹿角郡小坂町小坂鉱山古館48−2
入館料 一般・高校生330円
小・中学生170円
開館時間 09:00~17:00
休館日 年末年始
駐車場 無料
電話番号 0186-29-5522
アクセス 東北自動車道の小坂ICから、車で5分ほど
リンク http://kosaka-mco.com/publics/index/46/

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