世界初の協同組合を作るも、無念の最期を遂げた偉人を学びに「大原幽学記念館」を訪問した!

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)
今回は、千葉県旭市という場所で知られる房州の偉人「大原幽学(おおはらゆうがく)」という人物に焦点を当てます。 あまり知られていない歴史上の人物ということで「大原幽学って誰やねん?」という方が多いかもしれません( ;∀;)
ところが、この方は日本初の協同組合を作るなど様々な改革を行った偉人だったのです。そんな偉人だったのに、最後は自殺によってこの世を去るという悲しい最期を迎えたのです。
なぜ、幽学は自殺をしてしまったのか。彼はどのようにして「房州の偉人」と言われるようになったのか。その背景を学ぶために、千葉県旭市にある大原幽学記念館へと訪問しました!
本記事のポイント

・大原幽学は愛知県出身で、放浪の旅の末に長部村(現:旭市)に留まった!!
・世界初の協同組合を作るなどして荒れた村民の生活を改善していった!
・色々やりすぎて幕府に目を付けられ、裁判によって裁かれてしまう・・
・最終的には自ら切腹自殺でこの世を去ってしまう・・

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知られざる「大原幽学記念館」に突撃!!

この記念館を訪問したのは、2018年10月上旬でした。6日間の千葉遠征を行っている途中の訪問。途中にはこんな大きなゲートがお出迎えしてくれましたが、なかなか年期を感じるゲートですね!!
デカデカと「大原幽学ゆかりの里」と書かれていますが、大原幽学ってどの程度の方がご存知なんですかね。地元の方は知っているけど、、って感じですかね。ちなみに、私は今回訪問するまで全く知りませんでした( ;∀;)
▲人目につかない奥地にある「大原幽学記念館」
駐車場に車を停めて、そこから10分くらい歩いた場所に記念館はあります。森の中に佇むこちらの記念館。この辺りは、史跡公園として整備されており、幽学関連資料、郷土の歴史・民族に関するための施設として、1996(平成8)年3月15日に大原幽学記念館が設立されました。
いざ入館!かなりマニアックな博物館なのか、館内にはスタッフの方以外誰もいませんでした。。まぁ私はこのような場所ばかりを訪問していて、閑散とした博物館の空気にはもう慣れてはいますけどね。。
ちなみに、館内の写真撮影は原則禁止なんだそうですが、記事にしたいということで「撮影させてくれ~~」と懇願した結果、書類を書いて無事に許可してくれました(*’▽’)
▲幽学の生涯が学べる展示室
建物の一階は郷土の歴史に関する展示であり、二階が幽学に関する展示になっています。ここでは、幽学の誕生から最後自決して人生に幕を下ろすまでの流れを学ぶことができるんですね!
ということで、以下では幽学の人生を流れに沿って説明していきたいと思います!!

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18歳の時に放浪の旅に出る・・

▲大原幽学の肖像画
大原幽学は、自分の生い立ちについて詳しいことを語っていないため確かなことはわかっていません。ただ、1797(寛政9)年3月17日に尾張藩(名古屋)の家老大道寺家の次男として生まれ、少年時代は徹底した武士教育によって育てられたことが、門人の残した記録からわかっています。
そしてなんと18歳の時に勘当され、それから幽学の放浪生活が始まりました。何で勘当されたのかはっきりした理由はわかっていないそうですが、藩の剣道指南役を些細なことから切り殺してしまったという説があるとのこと。
18歳で勘当を言い渡され、別れ際に父親から大小の刀に三両のお金、そして三ヶ条の訓戒(くんかい)を幽学に与えたという。
三ヶ条の訓戒
武士たる者猥(みだ)りに身を捨てるべからず
他国の君主に仕うることあるべからず
民家に子孫を残すべからず
勘当されて旅に出た遊学。その際には、これらのような小物を身に着けて旅をしていたようです。今でいう折り畳み傘のような「道中笠」、用紙やお金を入れるための「紙入(かみいれ)」、歩きやすくするために脛(すね)に巻いて使う「脚絆(きゃはん)」などなど。
放浪を始めたばかりの幽学はどのようにして生きていったのかというと、最初は剣道による道場破りでした。剣道の腕に長けていた幽学は、道場を訪れては相手に打ち勝ち、誰も幽学にはかなわず道場に居座ることも。しかし、その後に幽学は闇討ちに合ってしまうのです。

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そこで、力で生き延びてきた幽学は、次に学問の道へと進むことになります。幽学は主に近畿圏を放浪中に、歌道、仏教、易学、神学などいろいろな学問を学びました。ただ一つの考えだけでは世界が狭くなってしまい、多くを学んで色々な考えが出来なくなってしまうということで、商人からは経済を、農家からは農業を、というように全てのことが修行であり学問だったのです。
関西をあとにし、信州上田に到着した幽学はこの地で初めて講義をする機会を得ました。上田ではじめて道学を開講し、かなりの門人を集めたのです。しかし、やがて藩の圧迫にあって信濃を去ります。
放浪生活の糧として易学や相学を伝授したり、売卜(ばいぼく)を行ったりしていました。いわゆる占いっすね!!旅籠(はたご)に泊まるの代金を稼ぐためだったようです。

遠藤伊兵衛に呼ばれ長部村に定着

放浪を続けていた幽学ですが、西から東へと移動し、江戸さらに船で房総に辿り着き、ここ房総での活躍が、幽学と長部村(干潟町)を結びつけることになります。
この時、長部村はどのような状況だったのかというと、今から170年も前の江戸時代後期は幕末の混乱に加え飢饉も重なり人々の生活は困窮を極めていました。酒や賭博によって借金を作り年を追われる人が後を絶たなかったという。。
▲国指定史跡の「大原幽学旧宅」
そこで、名主の遠藤伊兵衛(えんどう・いへえ)は、隣の鏑木村(かぶらきむら)に訪れていた幽学の講演を聞き心打たれ、彼を村に呼んだのです。これが1836(天保6)年のことでした。
そして、幽学は伊兵衛の熱意に応える形で長部村の指導に当たることになりました。そして伊兵衛の自宅裏山に幽学の住居を建て、幽学はこれにより28年にわたる放浪生活に終止符を打ちました。
この家は幽学が自ら設計した質素で丈夫な造りになっています。幽学はここで暮らしながら街の人と会話をしたり農村づくりを指導したんですね。間取りなどの構造は当時のままなんですって!!
農村づくりの指導に当たったわけですが、幽学はまずは人との交流によって信頼関係を作り、それから本格的な学習に入るという指導方法をとりました。幽学の書に「始めの1,2年は場を施して、その情のよく通ることに費やし」とあるように、対面的な交流の繰り返しと、身近な道徳を解くことを重視したのです。
▲最初に用いたのは「易学」だった
初めは易学などを教えていました。この易学、つまり占いは「あなたの運勢は大吉です」「将来不幸なことが起こりますよ~」みたいに将来を占うことを目的とするのではなく、その吉凶に対処する道を見出すというのが幽学の教えでした。
ただ今の運勢を占うだけでなく、その後に起こる事象に対してどう対処するかに重きを置いたわけです。
▲神道、仏教、儒学を基にした「性学」
そして、その後は「易学」から次第に「性学」と呼ばれる教えに変わっていきます。「性学」とは、欲に負けず人間の本姓に従って生きる道を見つけ出そうとする学問のこと。主著『微味幽玄考』には、儒教の”和”と”孝”の考えをもとに、道徳を重んじ、家の永続を目指した教えが書かれています。
つまり何なのかというと、放浪中に学んだ神道、仏教、儒学のいいとこを取って、幽学独自で一つの考えを導き出したってことなんですかね?

農民とともに新しい村づくりに挑んだ!!

そして、性学の学問を農民に教えていった幽学は、ただ座学を教えるだけではなくそれを実生活にいかして農村を復興させていきました。では一体、どのような事をして村を復興していったのか、以下で紹介していきましょ~!!

世界で初めて「協同組合」を考案

幽学の村づくりにおいて最も画期的だったのが「先祖株組合」を作ったことです。これは何かというと、村に住んでいる人々が皆で出資をして助け合い、生活を改善する仕組み作りだったのです。
村には、金持ちがいれば貧乏人もいます。皆が助け合って生活できるようにするにはどうすればいいかを幽学は考えたわけですが、それが世界で初めて作ったといわれる協同組合である「先祖株組合」なのです!!
先祖株組合の契約書
「為取替一札」
1. 組合員は金五両に相当する耕地を出資し合い、そこから得た利益を積み立てること
2. 組合の管理・運営は、組合員の合意で決定する事
3. 一軒分の積立金が百両以上になった時、組合員の相談で、半分を救済に、残りはさらに積み立てておくこと
4. 規定に反した後は破門、ただし出資分は渡さない
5. 潰れた家が出てきたときは、然るべき人物が家再興に当たること
この組合に入った人は、自身の田んぼの五両分を組合用として出資し、そこから得た利益を積み立てていきます。そして、一軒当たり積立金が百両以上になると、半分は貧しい方へ寄付し、残り半分は子孫のためにさらに積み立てていくのです。
▲日用品は組合で共同購入した
さらには、日用品を組合で一気に共同購入することで安く大量に仕入れる工夫も取り入れたのです。
さらには組合員で出し合った土地を、共有地として共同で作業に当たったのです。
このように、先祖株組合が作られ学問を中心としていた教えも農業経営そのものの実践的な指導へと及ぶようになります。土地の交換、耕地整理、住居の移転だけでなく農作業の計画を立て、家族の話し合いを設けたり、肥料や田植えの方法を工夫するなど、合理化を進めました。
その辺の詳細も以下で説明していきましょう!!

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効率性を重視した田んぼ改革!

幽学は家や田んぼを整理して生産の効率を上げていきました。最初は長部村の宅地は田んぼから遠く離れた台地に集まっていたのです。上の図の紫色の四角が旧宅地にあたるのですが、これだと田んぼを耕しに行く際の移動が大変で、さらには重い耕作道具や肥料を運ぶのもかなり大変になるわけです。。
そこで、幽学はそれぞれの家の耕す田んぼを決めて二軒づつ一組にして隣りあわせにし、そうすれば二軒の家がお互いを助け合って稲を育てていけるという狙いです。さらには、田んぼの状態を近くで観察できるほか、重い耕作道具や肥料を遠くまで運ぶ手間も省けるようになったのです!!
ただこれ、「二軒づつ一組」とありますが仲が悪くなって逆にめんどくさいことになった例ってなかったんでしょうかね??(笑)
耕地整理された様子を上から見るとこんな感じです。このように、畑、林、宅地、田んぼの順に並ぶようにして効率性を高めていったのです。
こちらは大原湯額記念館にあった航空写真!こうして見ると、その綺麗さがよりわかるかと!!
▲一年間の農作業予定表である「仕事割」
さらには、それぞれの家元に一年間の農作業の予定表を作らせました。この中には幽学の講話を聴きに来る日や仕事を休む日などが書かれています。
一日の作業内容は、前日に家族で集まって相談するという「宵相談(よいそうだん)」の機会を設けるようにも指導しました。
今のように生活規範が整っていなかった時代だったため皆の生活があれていたものの、このような幽学の教えに倣(なら)って村の人々が生活をすることによって荒れていた村の農家は立ち直っていったのです。

幽学が行った様々な改革

幽学は子育てに関してもユニークな教育方法を取り入れました。7~14歳の子供は、それぞれ別々の家庭に預けあって教育させるという「換子教育(かんしきょういく)」はその中でも非常に面白い例!!
さらには、「質素倹約」として衣服は麻や木綿のものとして、食事も粗食を心掛けさせました。さらにはお酒まで禁止にしたのです!
私みたいに、お酒が激弱で好きじゃない人間にとっては問題ないですが、嫌なことを酒で忘れたい人にとってはめっちゃ酷ですな。。
続きはこちら!最後は無念の切腹自殺・・。
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