満洲、朝鮮、南洋諸島時代の教科書も!千葉県御宿町の『五倫文庫』は隠れた超穴場図書館だった!

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今回もかな~りマイナーだけどすんごく貴重な博物館の紹介です。それは千葉県御宿町にある『五倫文庫』という文庫です!世界中の初等教育で使われている教科書が保管されていて、それを自由に閲覧できるという大変珍しい博物館なんすわ。
ではでは、そんな五倫文庫はどのような背景で誕生し、今現在はどのような博物館なのか?以下で紹介していきまっす!
本記事のポイント

・創設者である伊藤鬼一郎氏が世界中を廻り物々交換にて収集した
・世界中の教科書6,000冊以上が展示されている光景は圧巻!
・日本が統治していた満洲、朝鮮、南洋諸島の貴重な教科書の実物がある!

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五倫文庫ってどこにあるの?

五倫文庫は、千葉県夷隅郡御宿町(いすみぐんおんじゅくまち)という場所にあります。といいわれても、御宿町って町名は結構マイナーだと思うので、「どこやねん!」と思う方がほとんどではないかと!
房総半島の真ん中くらいの場所に位置しており、隣には超有名B級グルメである勝浦タンタンメンや朝市で知られる勝浦市があります!太平洋に面しており、都心からはちょっと行きにくい場所にありますかね。。
そんな五倫文庫は、御宿町にある御宿町歴史民俗資料館の中にあります。この民俗資料館自体は御宿町が運営していており、五倫文庫は財団法人が運営しています。
▲歴史民俗資料館の一角にある五倫文庫
資料館では御宿町に関する様々なものが展示してありますが、その中の一角に五倫文庫があります。しかし、千葉遠征の計画をしているときに県内にある様々な資料館を調べてはいましたが、ここの存在は現地でたまたま発見したという感じ。
こんだけの凄い資料館がほとんど知られていないとは。。探せばまだまだ知られざる穴場ってたくさんあるんですな(*’▽’)

五倫文庫はいかにして誕生したか

五倫文庫は、1892(明治25)年に当時御宿小学校の校長だった伊藤鬼一郎先生が、毎年使用させる教科書を保存し比較研究されようとしたのが始まりとのこと。
主に、1872(明治5年)に、日本で学制がしかれて以来の初等教育(小学校、戦後は中学校を含む)で使われた教科書を集めた文庫です。その他には、寺子屋で使われた江戸時代の本や世界各国で使われた教科書も多数保管されているのです。

世界中を周り物々交換で教科書を収集!

▲展示されている教科書は6,000冊以上
現在、五倫文庫に並べられている教科書の冊数は6,152冊。ただし、五倫文庫に収蔵されている教科書はこれだけではなく、まだ未整理状態の教科書が倉庫にたくさん残っているんだそうです。五倫文庫にあるすべての教科書は32,077冊ということで、26,000冊ほどは倉庫に眠っているようですぞ!
しかし、ここで気になるのは一体どうやってこんだけの世界中の教科書を集めたのか?
これは、創設者の伊藤鬼一郎氏が世界中を周り、自身が保管していた日本の教科書と物々交換をするような形で収集していったそうです。
▲江戸時代の教科書まで展示されている
もうね、すごい数の教科書ですよ!日本の教科書は戦前はもちろん、江戸時代の寺子屋で使われていた教科書まで展示されているのです。これだけは防犯のためか自由に手に取ることはできないようです。
展示されている教科書の国別の冊数は上の表にまとめています。実に50ヵ国ほどの国の教科書が今現在展示されているんですね。これほどの教科書がまとまって展示されているのは日本国内でもここだけなんじゃないでしょうか??
五倫文庫に収蔵されている教科書のうち、日本の教科書についてはインターネットからも図書目録検索ができるようにデータベース化しているとのこと。気になった方はちょっくら検索してみてはいかがでしょう??
図書目録検索:http://info1.town.onjuku.chiba.jp/gorin/
▲これだけの教科書を集めたのは本当に凄い・・
あまり知られいない博物館ではありますが、お客さんとしては教育関係の方や大学生が研究目的で訪れるケースが多いという。あとは旅行中にここに寄った年配の方が、自分たちが学生の時に使っていた教科書がないかなどを見たりするのだとか。
しかし、こんだけの教科書をよく集めたものだ。今のようにインターネットがない時代、さらに今のように世界中の国を周るのはアクセス面でもとても困難だったと思いますが、自分の足で世界中を周ってなんて本当に凄いことだなと!このような方々の人生や功績が多くの方に知れ渡ってほしいと切実に思う。。

『五倫文庫』の名前の由来は??

ここに訪問して気になったのは、この『五倫文庫』という名前の由来について!『五倫』って一体何だろうな~と。。実はその由来も、創設者である伊藤鬼一郎さんが絡んでいました。
時は1902(明治35)年9月のこと。房総に台風が直撃し、御宿小学校は倉庫一つを残して全校舎倒壊の悲運にあいました。日露戦争の最中で国の援助に期待もできなく、また当時わずか850戸の寒村だった御宿村は、村の財政では到底校舎を再建することができませんでした。
その時の小学校の校長である伊藤鬼一郎先生は、村長の式田啓次郎氏とともに、各戸を毎日廻り五厘の日掛け貯金を自分たちの子供のためにしてゆこうと説いて廻り、1908(明治41)年5月から全村民賛成の下に実行されました。
そして1912(明治45)年から1914(大正3)年7月までは各戸2倍の一銭とし、実に九年間にわたり一戸の脱落者もなく成し遂げられたのです。
その後、たまたま御宿町を訪問された佐倉連隊区司令官黒田善治少将は、この話を聞いて感服し、「五厘」は「人倫の五常の五倫」に通ずるとして「五倫黌」と名付け扁額を送り、これこそが五倫文庫の由来だったのです。
現在も、五倫文庫がある御宿町 歴史民俗資料館のすぐ近くには、御宿小学校がありますが、この小学校こそが五倫黌御宿小学校だった(今は御宿小学校に改名されている)のです。
続きはこちら!満洲国で実際に使われていた貴重な教科書が!
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