ヤマサ醤油と津波防災をつなぐ壮大な物語!和歌山県にある「稲むらの火の館」でその背景を学ぶ!

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今回は、和歌山県広川町にある「稲むらの火の館」という博物館に関する記事になります。結構マイナーな博物館だと思うので、「何すかそれ??」って方は多いと思いますが、ここ、本当に多くの学びが得られる博物館なのです!!

この博物館の主人公は、濱口梧陵(はまぐち・ごりょう)という人物。彼はいったいどんな功績をあげたのか??そして、博物館の名前にもなっている「稲むらの火・・」とは何を意味しているのか?

以下で、学んでいきましょ~~~~!

本記事のポイント

・濱口梧陵は津波が町を襲った際に、稲むらの火にで村人を救った
・「稲むらの火」の物語は、学校の教科書に載ったことも
・世界津波の日が11月5日に決まったのは「稲むらの火」が由来

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広川町にある「稲むらの火の館」

和歌山県広川町の位置

今回紹介する博物館「稲むらの火の館」は、和歌山県広川町という場所になります。和歌山市からJR紀勢本線で南に約40キロほどの場所。

和歌山の南側だと、多くの方は温泉観光地として有名な白浜温泉に行ってしまうそうで、広川町やすぐ隣にある醤油発祥の地の湯浅町はスルーされてしまいがちな町なんだとか・・( ;∀;)

「稲むらの火の館」と「濱口梧陵記念館」

そんな広川町にあるのが、稲むらの火の館・濱口梧陵記念館です。この二つの博物館はセットになっていて、廊下でつながっています。手前に見える日本家屋が、
梧陵の生涯を学べる濱口梧陵記念館であり、その奥にある綺麗な博物館が、防災というテーマをメインに扱った稲むらの火の館です。

んで、今回の記事は「 稲むらの火の館 」に焦点を当てて、以下でまとめて紹介していきます(*’▽’)

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広川町を津波から救った梧陵の物語

博物館は津波に関する防災がテーマ

博物館の中に入ると、早速こんな光景が広がってきます。この博物館のテーマは『防災』であり、特に津波の防災に関する博物館なんですね!

「稲むらの火」の話は二階に展示されている

というのも、濱口梧陵は津波の被害を受け続ける広川町で、先陣を切って防災対策を行った人物でもあるのです。今の広川町も、町の中に梧陵に関する史跡が多数存在し、梧陵さんによって支えられてきたといっても過言ではないほど!!

では、彼はいかにして自然災害である津波と戦ってきたのでしょうか・・

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津波が発生しやすい「広川町」

広川町は地質的に津波が発生しやすい

濱口梧陵が生まれた和歌山県広川町は、人口約8,000人、観光などの第三次産業と、農漁業を主体とする落ち着いた町となっています。

町は海に面しており、その海はワイングラス型をした湯浅湾があります。が、これらは地勢学的には最も津波被害を受けやすい、典型的な漏斗型の入り江をなしているのです。

そんなわけで、もともとこの一帯は江戸時代中期ごろは「湯浅千軒広千軒」といわれるほど繁昌していたエリアだったんですが、度重なる津波被害によって衰微してしまったのです。。

広川町を襲った巨大地震

1605年02月03日(慶長9年12月16日):慶長東海・南海・西海地震
1707年10月28日(宝永4年10月04日):宝永地震
1854年12月23日(嘉永7年11月04日):東海地震
1854年12月24日(嘉永7年11月05日):安政東海・南海地震
1944(昭和19) 年12月07日:昭和東南海地震
1946(昭和21) 年12月21日:昭和東海地震

江戸時代から今の時代までに関していうと、広川町には六度ほど大きな地震によって津波が襲来しました。この中で、「稲むらの火」という物語が誕生したきっかけとなったのは 、1854年12月24日に発生した安政東海・南海地震だったのです。

江戸後期、二日にわたり巨大地震が・・

二日連続の津波被害で街は壊滅・・

1854年12月24日に二日連続で巨大地震が発生。梧陵は、揺れが収まると被災した村を見て回りましたが、その時、広川町に津波が襲い、梧陵も避難しようとしてるうちに津波に飲み込まれてしまいました。

しかし、浮き沈みながらもかろうじて一つの丘に漂着した梧陵は、高台に建てられている広八幡神社へと向かったのです。

町民が避難した広八幡神社

広八幡神社には、梧陵以外にも難を逃れた村人が集まり、親、兄弟を探すなど混乱に陥っていました。そして、ここで梧陵がリーダーシップを発揮します。

人々が混乱に陥りながらも、この後さらに津波が来るということを考えてこれ以上死者が出ないように策を考えます。そこで、すでに日は暮れて街は暗闇に包まれたため、避難する人々が方向を見失わないようにと、稲むらに火を放ちながら高台に戻ったのです。

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「稲むらの火」で町民を救った!!

梧陵が火を放った稲むら

梧陵が火を放った「稲むら」とはこれです。これは、農家の貴重な財産であり、屋根葺き(やねぶき)材料として田野に多く積まれているもの。今でも、その稲むらを目にすることができるように、このように町中に展示されているのです。

稲むらはそのような貴重なものでしたが、梧陵は被害にあった住民を救うためにと、致し方なくこれらの稲むらに火を放つ決断をしたと思われます。

稲むらに火を放つ梧陵たち

そんな背景があり、梧陵を含む広八幡神社にいた人々は、神社へと続く道沿いにある稲むらに火をともしていき、まだ避難できていない方が神社へと向かう道しるべにしたのです。

まだ電気が普及していなく夜になると真っ暗になってしまうこの時代、火を目印にするのが一番の最善策だったんでしょうね。

そして、まだ避難できていない方々はその道なりに灯された稲むらの火を目印にして、神社へと向かったのでした!結果的に、これによって九名の方を無事に救うことが出来たのです。

そう、この博物館は「稲むらの火の館」ですが、その命名にはこのような背景があったんですね!

しかし、梧陵の凄さはこれだけではありませんでした。ここからが、単なる慈善家のレベルを超えた、世の中に対する梧陵の思いがトコトン発揮されていくことになるのです!

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