ヤマサ醤油と津波防災をつなぐ壮大な物語!和歌山県にある「稲むらの火の館」でその背景を学ぶ!

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常識を超えた梧陵の慈善活動

度重なる津波被害に襲われた広川町。津波被害への緊急対策とともに、中期的な復旧事業にも全力をささげた梧陵の献身にもかかわらず、村人は津波被害の再来におびえ、暮らしの再建どころではありませんでした。

津波は、12月4日、5日、6日と繰り返し襲ったため、梧陵は5日には炊き出しと避難所の手配をすることになります。その深夜には、隣村の庄屋を訪ね救援米五十石の約束を取り付けています。

さらに6日には、避難所の増設、藩の役人との打ち合わせと藩への救米願書、警備の非常番の配置など、次々と必要な対策の手を打ちました。

1,400人もの町民が避難した広八幡神社

広八幡神社に避難した被災者は実に1,400人に及んだという。余震におびえ、これからの不安に動揺する村民を落ち着かせるために、当面の食事と避難所を確保するとともに、近隣の資産家や有力者に働きかけて米俵を集め、さらには農・漁民には農具や漁具・舟、庄屋には営業資金などを提供したのです。

これだけリーダーシップを発揮して行動し、住民の方々を救ったわけですが、もはや常識の範囲を超えた恐るべき慈善行動。いったい、ここまで梧陵を動かしたのは何だったのか。

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広川町を防災に強い町に!!

その後、梧陵は復興に手をこまねいていた幕府や藩に代わり、広村の地を津波から守るため、また職を失った人々のために、大堤防建設を核とする、広村再建の長期計画に着手することになるのです。

これによって、広村には広村堤防という堤防が誕生し、その後には道路に対して防潮扉も誕生。

広村堤防は、約二メートルの旧堤防の背後に、大津波に耐えうる高さ五メートル、延長一キロに達する大堤防でした。

ただし、梧陵はただ単に堤防を作るだけでなく、堤防補強のために「外面堤脚に松樹を栽うる数千株、堤内堤上に櫨樹を栽うる数百株」とも記録しています。このように、堤防や海岸線への造林による津波の消波効果も狙っていたのです。

住民らによって造られた広村堤防

この広村堤防は、数年による建設事業により村人によって作られました。ただ、これには津波によって壊滅した村に仕事と生活を保障するという目的もあったのです。

仕事に従事した人数は日に400~500人、延べ56,000名にも達したとのこと。就労は老若男女を問わず、農繁期は休んでもよかったという。そして、この事業にへ投じられた費用は全て梧陵の私財であり、今の金額にして五億円ほどにもなるという。

国指定史跡となった広村堤防

そんな背景によって誕生した広村堤防は、今もその姿をとどめています。現在は、国指定史跡にも認定され上の写真にも写っているようにハゼの樹が植えられています。

1980年に作られた防潮扉

さらには、広村堤防の間を通る道路に対しては1980(昭和55)年に防潮扉である赤門が設置されました。

このように、広川町は今でも町を歩くと様々な場所に防災を意識した整備がされており、梧陵が残した防災に対する思いを今でも引き継いでいるのです。

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教科書化、そして国際賞創設へ

1937年から10年ほど国語の教科書に掲載

しかし、もちろんこの物語が誕生した江戸時代にはインターネットやテレビもないため、梧陵の物語は日本中に知られることはしばらくありませんでした。ところが、この物語が起こってから実に80年近くが経った1937年、この物語は「稲むらの火」というタイトルで、小学校の国語の教科書に載ることになったのです。

この物語は、中井常蔵(なかい・つねぞう)が1934(昭和9)年に文部省の教材公募に応募し、採択されたのです。

中井は、湯浅町出身で梧陵が創立した耐久社の流れをくむ耐久中学校を卒業。師範学校で、濱口梧陵の功績を題材にした小泉八雲(こいずみ・やくも)の「A LIVING GOD」を学んで深く感動し、その内容を小学生にもわかるように短い作品にまとめたのでした。

三階には「世界津波の日」に関する展示がある

さらに、「稲むらの火」の物語はそれだけでは終わりませんでした。2015年12月23日(現地時間22日)に、ニューヨークで開催中の第70回国連総会本会議で「世界津波の日」を定める決議がコンセンサスにより採択されたのです。

世界津波の日は「稲むらの日」が由来

そして、世界津波の日は11月5日になったわけですが、これは「稲むらの火」の物語が由来になっており、1854年11月5日に大津波が襲い、梧陵ら村人が稲むらに火を放った日が元となっています。

しかし、せっかく「稲むらの火」が元となって世界津波の日が誕生したとしても、それだけでは濱口梧陵の名は世界に広まりません。そこで、何かやらないといけないという話が起こり、関西大学教授の河田恵昭(かわた・よしあき)氏が中心となって「濱口梧陵国際賞」を創設することになったのです。

ところで、ここで一つの疑問が湧きます。というのも、梧陵は広川町の防災事業に投じたお金はすべて私財だったわけですよ。

では、一体これらの巨額はどこから生まれてきたのか??


・・・


それはこれです!!醤油です!!

濱口梧陵は、皆さんご存知「ヤマサ醤油」の七代目当主だったのです。そう、我々が普段から利用している醤油には、防災とも関わりを持っていたのです!

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ヤマサ醤油の七代目だった梧陵

医療界や故郷である広川町の防災に関してなど、多くのことに私財を投じてきた梧陵ですが、それはヤマサ醤油で得た資金があったからなのです。

隣の湯川町は醤油発祥の地と言われる

ヤマサ醤油が誕生したのは、千葉県の銚子市。千葉県最東端のこの地は、江戸時代には江戸へ続く利根川水運の入り口でもあった交通の要所でした。ヤマサ醤油を創設した濱口梧陵の先代は、その銚子に狙いをつけてたのです。

ここから、ヤマサ醤油の話に突入したいところですが、今回の記事はここまで。梧陵がヤマサ醤油の当主になり、その後彼がどのような人生を送ったのかにかんしては続編の記事に書いていきたいと思いまっす!

おわりに

「稲むらの火」の主人公である濱口梧陵

醤油と津波。 この何に関連もないと思われる二つのことが、こんなところでつながっていたという壮大な物語でした。

濱口梧陵のように、明治の鉄道王と言われた根津嘉一郎、清里高原の開拓に生涯をささげたポール・ラッシュ、国際聖路加病院の設立に貢献したトイスラー博士など、あまり知られてはいなくとも世の中の発展のために生涯をささげた知られざる偉人は本当にたくさんいるわけですね。

濱口梧陵に関しては、教科書に載らなくなった現在は地元でないと知名度はほとんどないそうです。。こんだけ社会に多くの貢献をした人物なので多くの方に知ってもらいたいっす。

ということで、「稲むらの火の館」に関してはひとまずこれで!続編の記事では、濱口梧陵記念館とともに、梧陵さんの人生に焦点を当てていきたいと思います!!

↓こちらがその続編です

参考文献

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詳細・地図

住所 和歌山県有田郡広川町広671
営業時間 10:00〜17:00 (⼊館時間は16:00まで)
入館料 一般:500円(20名以上の団体は割引有) 高校生:200円 小・中学生:100円 ※濱口梧陵記念館の入館は無料
休館日 毎週⽉曜⽇(祝⽇の場合はその翌平日) ※11⽉5⽇世界津波の⽇は開館 年末年始(12⽉29⽇〜1⽉4⽇)
駐車場 無料
電話番号 0737-64-1760
アクセス JR湯浅駅から徒歩15分ほど
リンク https://www.town.hirogawa.wakayama.jp/inamuranohi/

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