今回は、和歌山県広川町で津波被害から住民を救った紀州の偉人である浜口梧陵(はまぐち・ごりょう)に関する記事の続編です。
↓前回記事はこちら
前回の記事では、「稲むらの火の館」に焦点を当てましたが、今回は浜口梧陵記念館に焦点を当てて、浜口梧陵の人生に迫っていきたいと思います。梧陵が生きた時代(1820 – 1885)は、日本史の中でも大きな転換期となった幕末の頃。
そんな激動の時代を生き抜いた梧陵は、ヤマサ醤油の七代目当主、さらには津波から広川町の住民を守っただけでなく、明治維新の改革にも一石を投じた方だったのです!!
見出し
生家である濱口梧陵記念館
んで、今回紹介するのは「稲むらの火の館」の中にある濱口梧陵記念館です。梧陵の生家であり、上の写真を見てわかるように結構風情ある建物ですよ(*’▽’)
入り口の門をくぐるとこんな感じ。手前の建物が濱口梧陵記念館で、奥にある建物が「稲むらの火の館」です。
館内はとっても静かで少し薄暗い感じ。そして、梧陵の功績としてはヤマサ醤油の当主を務めただけでなく、地元の和歌山県広川町で津波被害から住民を救ったほか、津波防災のために堤防を作る事業をつくり、さらには医療界にも私財を投じたほか政界にも足を踏み入れました。
そんだけの功績を残したものの、その割に展示物は少ない印象。特に、医療界への貢献や政界での業績はほぼ展示されていない(私が見落としていた可能性もありますが・・)ので、もうちょっとボリュームを増やしてほしいと思いましたわ。。( ;∀;)
あとは梧陵さんに関するビデオも見せてもらえます。座布団が用意されていますが、記念館の方にお願いすると上の写真の天井からスクリーンが下りて鑑賞ができるという仕組み!!
記念館はそんなに広いというわけではなく、内部の様子をざっと紹介するとなるとこんな感じですかね!
ではでは、ここから梧陵さんの人生に焦点を当てていきましょう!記念館の内部を写真で紹介しながら、幕末の時代に梧陵さんがどんな人生を送ってきたのか。大まかに抜粋した形になりますが以下で紹介していきます!
スポンサーリンク
ヤマサ醤油の七代目当主だった
「梧陵さんはヤマサ醤油の当主を務めた」というところから紹介するため、まずは醤油に関して!
紀州は醤油発祥の地
今でも、日本人の誰もが日頃から利用している醤油。その起源は、和歌山県湯浅町だと言われています。湯浅町は梧陵の出身地である広川町の隣の町っすね!
今でも、湯浅町には角長醤油資料館があるほか、1841(天保12)年創業で今でも醤油醸造を続けている角長(かどちょう)醤油があります。
湯浅町は昔ながらの街並みを見ることができ、2018(平成29)年4月28日には醤油醸造文化に関するストーリーが日本遺産に認定されました。角長醤油資料館以外にも、昔の銭湯を資料館として開放している『甚風呂』や、私が訪問した2018年12月時点では湯浅新地時代の遺構なども結構残っておりました。
多くの方が白浜温泉へと向かってしまいスルーされがちの湯浅町ですが、醤油発祥という歴史があり、結構見所が多い街だったりするのです。
スポンサーリンク
千葉県銚子市にて「ヤマサ醤油」誕生
ざっと湯浅町について紹介しましたが、ちょっと江戸時代の話をします。江戸時代に入り、湯浅醤油の名声はますます高まると、湯浅組広村の初代濱口儀兵衛は、醤油を江戸に販売することに着目。
その際にベストな場所として、利根川水運を利用しやすく、黒潮と親潮がぶつかる場所ということで一年中気候が安定している千葉県銚子市に目を付けたのです。それ以前に、紀州の方々はイワシ漁をするために黒潮に乗って船が難破した際に千葉へ住み着き、そのころから紀州と千葉には関わりがあったんですね!!
日本一の流域面積を誇る利根川は、江戸へと続いていたことで、多くの船が行きかう川でした。各地から集まってきた物資などは房総半島を通って江戸へ運ぶルートもありましたが、風待ちや難破などのリスクもあり、利根川河口にある銚子湊で荷を積み替え、川船で江戸に運べば安全で速く運ぶことができました。
ヤマサ醤油もしょうゆを江戸に運ぶのに川船を整え、人を集め、当時の銚子湊も大いににぎわいました。
そんなこともあり、利根川沿いには銚子から少し上った場所には松岸遊郭や本城遊郭も誕生したほど。ちなみに、上の写真は松岸遊郭があった場所から利根川を写した写真っす!松岸遊郭も、以前に記事を書いたのでよければぜひ!
初代濱口儀兵衛は、銚子市にて1645(正保2)年に醤油醸造を開始し、それが後のヤマサ醤油となるのです。
今でもヤマサ醤油の工場が銚子市にあり、平日には工場内部の見学をすることもできます。工場が稼働しているのが平日ということもあるのですが、平日のみってのがネックですな。。( ;∀;)
七代目当主になった梧陵
このころ、この家の家憲では、醤油醸造の拠点である銚子と本拠地の紀州とを当主が往復して経営することになっていました。
濱口梧陵 ・幼名七太(しちた)が生まれたのは1820(文政3)年の時。父は六代儀兵衛の弟でしたが、七太が一歳の時に早世したため、後継ぎのいない六代の養子となり、祖父に可愛がられて育ちました。
濱口梧陵(当時 儀太)は12才で後継ぎとして本家(西濱口家)に家業見習いに入りました。そして、すぐに銚子の醤油工場で働くことになります。
ところが、濱口家の家憲はとても厳しく、しかもすんごく質素。いかに将来は社長になる人であっても丁稚(でっち)、つまり工場の一番下っ端と同じように働くわけです。
銚子に着任した儀太は、元服して儀太郎を名乗るまでの三年間、この地での経営修行にあたることになります。当時の家憲は主家の若主人としての安逸を許さず、仕事や暮らしは奉公人並みであれ、という厳しいものでした。
スポンサーリンク
故郷の広川町で防災に奮闘
そんなヤマサ醤油の家業を続けるかたわら、梧陵は地元の和歌山県広川町の防災に奮闘することになります。館内では、その様子を昔の資料や模型で解説しています。
ヤマサ醤油の当主となった梧陵。彼の故郷である広川町は、地質構造的にも津波が発生しやすい町だったことで、この付近で地震が発生すると度々津波が発生していました。
そんな最中、1854年に発生した安政南海地震により広川町を大津波が襲いました。日が暮れた広川町では、多くの人が津波におぼれ、さらに押し寄せる津波から避難しようとするも、真っ暗なためどこに逃げたらいいかわからない。。
その時、梧陵は茅葺屋根の材料でもあり、町中に置かれていた稲むらに火をともし道しるべを灯すことで、真っ暗な夜に津波被害を受けた方が避難する目印を作ったことで町民を救いました。
これが、後に教科書にも載ることになった「稲むらの火」の物語。
その後、津波により壊滅した広川町の住人たちは茫然自失。しかし、ここで梧陵はリーダーシップを発揮して当面の食料や住居を確保、さらには地元の資産家や有力者などにお米などを集めてその後に備えるなど慈善家レベルを超えた行動力を見せました。
さらには、住民に仕事を与えるという観点からも、広川町に津波防潮堤事業を立ち上げ、ヤマサ醤油で得た梧陵の私財を投じで、防潮堤を完成させたのです。
広川町でいかにして防災事業に従事したか、そして町民を津波被害から救った「稲むらの火」の物語は、以下の前回記事をご参照くださいm(__)m
医療界へ多大なる貢献をした
この内容は濱口梧陵記念館では展示されていない内容ですが、梧陵は医療業界にも大きく貢献していたのです。ヤマサ醤油の当主となった梧陵は、若いながらも銚子の町の有力者の一人として、自家の経営と共に街の民生安定のために尽力すべき立場でした。
そのころ、医療面では天然痘やコレラの大流行が相次ぎ、その対応策が緊急課題となっていました。そこで梧陵は、一流の蘭医である三宅艮斎(みやけ・ごんさい)と出会うことになります。
21歳の梧陵は、三つ上の艮斎から様々な知識を吸収したそうです。艮斎は、長崎で得た海外事情や科学知識、江戸での幕臣達を含む多彩な人脈からの最新の内外情報を梧陵に惜しみなく伝え、これがをきっかけにして、梧陵の形成的な活動が新たな展開を見せることにもなったのです。
そんな背景があり、艮斎が江戸にもどった際に火事で焼失した種痘所(しゅとうじょ)という医療施設の再建に奔走。そして、艮斎は蘭医たちとの交流を深めていた梧陵に再建計画を相談すると、梧陵は二つ返事でOKして400両の資金を提供。
さらには、医学書や医療機器の購入などに支援を惜しまず、今流行りのNPOの走りともいえるこの施設は、その後に西洋医学所、さらに医学所と名を改め、幕府から維新政府へと引き継がれ、後の東大医学部の前身となってくのでした。