山梨県の隠れた名スポット「藤村記念館」は、明治時代に建てられた擬洋風建築だ!

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こんにちわ。今回は、久々に山梨県にあるスポットの記事になります。どんな記事かというと、山梨県甲府市にある「藤村記念館」という博物館の記事になります。

この博物館は、明治時代からの歴史があるというだけでなく「擬洋風建築」という洋風っぽい近代建築という点も見所だったりするんですね(*’▽’)

ということで、歴史があり建物にも見所がある藤村記念館はいったいどんな博物館なのか。以下で説明していきましょ~~!

本記事のポイント

・藤村記念館は、当初は小学校の校舎として建てられた
・開港の頃、山梨県内には藤村紫朗により擬洋風建築が沢山建てられた
・現在、山梨県内には擬洋風建築が六つ残っている

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藤村記念館は甲府駅からすぐ!!

本栖湖からの富士山

甲斐の国とも言われた山梨県。南アルプスや秩父山系に囲まれた自然豊かな県であり、東京からは「特急かいじ」や「スーパーあずさ」を使えば二時間程度で到着できるアクセス。

観光地というと、富士山や忍野八海など県の南側に多いイメージがありますが、甲府盆地でも秋には勝沼地方のブドウ狩りがあったり、北杜市にはサントリーのワイン工場があったりと見所はたくさん!!

甲府駅から徒歩2分の場所にある

ただし、そんな中、私が今回記事に挙げるのはこの「藤村記念館」という博物館です!甲府駅の目と鼻の先にあるものの、多くの人がスルーしてるだろうこの博物館。

だが、駅前にこんだけ立派な洋風チックな建築物があるんですよ!!

見てみようじゃないですか!

入り口はこんな感じっすね。ちょっと豪華な雰囲気っすね。早速建物の中に入っていくことにしましょ~~!!

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一階には藤村紫朗に関する展示がある

一階には藤村紫朗に関する展示が

中に入るとこんな感じ(*’▽’)

一階は、この記念館の名前にもなっている藤村紫朗(ふじむら・しろう)の生涯や、甲府駅周辺が昔どんな街だったのかということに関して、簡単にですが紹介されていました!

あと、中にはボランティアスタッフの方もいるので、私も博物館のことを少しだけ伺わせていただきました。とはいっても、さすがに駅前ということもあり土日の休みの日には割と人が訪れるということもあり、あまり長い間話すことはできませんでしたけども・・。

あっ、藤村紫朗に関しては後で説明します!

山梨県内にある擬洋風建築

藤村紫朗の展示室からさらに奥に進みます。その通路には、この藤村記念館と同じ山梨県内にある擬洋風建築の博物館が展示されていました。

冒頭でも「擬洋風建築」という単語が出てきましたが、この藤村記念館は擬洋風建築と言われる建築物であり、それと同じ形式の博物館が市内には六つあるわけです。

この擬洋風建築に関しても、後で説明します!

さらに、一階の奥の部屋では野口英世に関する内容の展示が行われていました。

一階の奥は野口英世の展示が

この部屋はその時々によって展示内容が変わるんですかね?まぁこの展示に関しては藤村記念館とはさほど関わりがないようなのでスルーしますが、何で野口英世の展示が行われていたんでしょう??

野口英世って山梨県と何か関わりがあったんですかね??

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藤村記念館に秘められた歴史とは!?

一階をサラッと紹介したところで、二階の展示を紹介する前に少しこの博物館に関しての歴史を説明することにしましょう~!

当初は小学校の校舎だった

もともとは小学校の校舎だった

この建物、もともとは、1875(明治8)年に巨摩郡睦沢村(現甲斐市)に建設された旧睦沢学校(当初は亀沢学校)という小学校の校舎でした。校舎としては1957(昭和32)年3月まで使われていたらしいっす。

武田神社に移築された時の藤村記念館

校舎の役目を終えた後は、睦沢公民館になります。ところが、その後に小学校増築のため解体され、旧陸奥沢小学校校舎保存員会によって1966(昭和41)年に武田氏館跡西曲輪(甲府市内にある武田神社の境内)に移築することに。

県令(今でいう県知事)である藤村紫朗にちなんで「藤村記念館」と命名され、歴史や民族を含む教育資料館として一般公開してきました。新都市拠点西部事業に伴って、失われた歴史警官の再生と市民や観光客の交流拠点となることを目的に建物を移築復元したとのこと。

その後。2010(平成22)年には今の甲府駅間北口広場へと移築されることになりました。ということで、この建物は二度の移転を経験していることになりますな!

藤村記念館の移転について
旧睦沢学校校舎
時期:1875~1957年
所在地:甲斐市亀沢(旧睦沢村)
睦沢公民館
時期:1957~1961年
所在地:甲斐市亀沢(旧睦沢村)
甲府市郷土資料館
時期:1966~2007年
所在地:古府中町(武田神社境内)
藤村記念館
時期:2010年~現在
所在地:甲府駅北口広場

建物の特徴としては、正面中央に「玄関車寄せ」をつけ、二階一間通りをベランダとし、両開きのガラス戸と鎧戸の二十扉などに洋風の意匠を見ることができます。

ベランダは独特の曲線を見せる幕板を飾り、軒天井は菱組の透かし打ち天井となっています。外壁は、漆喰塗りの日本壁で、隅は黒塗り擬石隅石形を示し、屋根は宝形造の桟瓦葦で、中央に太鼓楼と呼ぶ塔屋をのせています。

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そもそも「擬洋風建築」って何すか?

藤村記念館の歴史に関してはこのくらいにしておいて、続いては先ほどから出てくる「擬(ぎ)洋風建築」という単語について。

「キングの塔」と言われる神奈川県庁本庁舎

1859年に、日本は鎖国を解いて開港することによって多くの西洋文化がなだれ込んできたのは歴史で習った周知の事実。西洋文化の流入は、着る物や食べ物など多くの日本人の生活に浸透していくことになりますが、それは建物にも当てはまりました。

私が生まれた神奈川県横浜市では、開港した横浜港があったことで外国人居住区が誕生したことなどから多くの西洋建築が建てられていったわけです。今でも、馬車道駅の周辺には、上の写真の神奈川県庁本庁舎であるキングの塔など洋風チックな建物が立ち並ぶ独特の雰囲気が残っていたりします。

山梨県北杜市にある旧津金学校

そんな幕末の頃には、西洋の建築を日本の職人が見よう見まねで建てたものが多く、そんな職人によって建てられた建物が擬洋風建築と言われる建物だったのです。名称の先頭に「擬」と書いているように、その職人は正規の西洋建築教育を受けていなかったわけです。

擬洋風建築という言葉は、昭和の時代に入ってから建築史家が使い始めた言葉で、当初は”西洋建築の正しい知識を持たない職人が造った奇妙な建築”とみられていたようです。ところが、第二次世界大戦後の明治建築再評価の中で、次第に高く評価されるようになってきたとのこと。

そんな背景があり、擬洋風建築は山梨県のみならず全国に建てられており、今でも多くの建物が現存していて、今回紹介する藤村記念館以外にも多くの建物が博物館など様々な用途で使われています!

続きはこちら!二階では、昔の教室が再現されていた!
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