こんちわ(*’▽’)
今回の記事は、千葉県松戸市にある「戸定邸」に関する記事になります。ん?「とさだてい?」「とていてい?」と最初なんて読むかわかりませんでしたが、読み方は「とじょうてい」です!
その屋敷は、水戸藩最後の藩主である徳川昭武(とくがわ・あきたけ)という方が建てた屋敷であり、今では松戸市が借り上げて市が管理しているんですよ!
そしてこの建物は明治時代の建物。所々に、今の建物では見ることができない見所がたくさん詰まっているのです。ということで、戸定邸にはいったいどんな歴史があるのか、そしてその建物に隠された様々な見どころを紹介していこうと思います!
戸定邸ってどこにあるの?
千葉県松戸市というと、皆さんは何を思い浮かべますかね?
松戸市は、水戸街道の途中にあり松戸宿があった宿場町でした。さらには江戸川水運が盛んだったこともあり、平潟遊郭も誕生。次第に移動手段が鉄道になると、水戸街道や江戸川辺りから松戸駅周辺が盛んになっていくことになります。
そして、1923年の関東大震災では、東京から被災した方々がたくさん住み着いたこともあり、その頃から人口が増えて住宅地となっていきました。
そんな流れで松戸市は発展してきたわけですが、そんな松戸市は特に有名と言える観光スポットがあるわけではなく、今でいえば『中華そば とみ田』ですかね。
死ぬほど行列する店であり、今ではあまりにも行列ができるということで整理券制度を導入したお店。戸定邸に行く前に、ふと、とみ田の前を通ってみると、まさかの6時間40分待ちという、プーさんのハニーハントを余裕で凌駕するほどの人気ぶりでした(笑)
と、タラタラと関係ない話をし続けるのが私の悪い癖であるので余計な話はこのくらいにしておいて、話を戸定邸に戻しましょう!戸定邸があるのは上の地図で示した場所になります。
松戸駅の東口を出たら南側へと移動。そんで高台を上っていき、戸定が丘歴史公園の園内にあるかたちになります。歩くと15分くらいかな??
位置しているのは千葉県ですが、すぐ近くに東京と千葉の境を流れる江戸川があるので東京の目と鼻の先にあるんですな~。
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風情ある戸定邸を散策
ではでは、早速行ってみることにしましょう。
戸定邸は戸定が丘記念公園の中に位置しており、まずは園内を散策してみることに。前日は雪が降っていたということもあり、この雪がまた良い雰囲気を醸し出しておる(`・ω・´)
住宅街とは思えぬほど自然豊か
戸定邸があるのは松戸市の住宅街の中。そして、やはり徳川家の屋敷ということもあり広大な高台の土地を抑えているというのも納得です。戸定邸という屋敷は、戸定が丘歴史公園という公園の中にあり、園内は緑豊かで歩いているだけでも、とっても癒される雰囲気になっています。
こういう庭園ってやっぱいいわ。特にいいなと思っているのは、東京の青山にある根津記念館の庭園!青山というビルだらけのコンクリートジャングルに位置しているものの、園内にいるとどこかの地方にワープしたかのような緑豊かな雰囲気を味わえるわけですわ(`・ω・´)
こういう場所って本当に大事!
こんな感じで並べられている竹なんかも、風情があっていいですな~~(*’▽’)
あとは、コスプレして撮影会をやっているグループもいました。いったい何のグループなんだ??
あと、公園のすぐ隣には千葉大学園芸学部があったりします。戦前の松戸の誇りというのは、工兵学校と園芸学校であり、共に日本で他に類のない唯一の学校だったそうです。
この園芸学部は、明治42年4月に「千葉県立園芸専門学校」として設立されたのが起源であり、今現在(2019年)でも園芸学部がある大学は日本全国で千葉大学が唯一なんだそうです!!
へぇ~知らんかったわー。
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茶会などが開かれる「松雲亭」
続いてはこちら。これは戸定邸ではなく「松雲亭」という建物。見学できるんだったら中を見たいと思ったのですが、どうやら一般開放はしていない様子。。一体この建物は何のために造られたのか??
どうやらこの建物は市民の憩いの場として1978(昭和53)年に建設されたお茶室なんだそうです。ということで、徳川昭武とは無縁の建物であり、彼が去った後に誕生したんですね。
インターネットで検索してみると、お茶会以外にもいろいろなイベントがここで行われているそうで、イベントスペースとして活用されているようです。
利用するには三か月も前から予約する必要がありますが、一時間1,080円(市内在住者は540円)と超格安で借りれるので、何かイベントをやりたい方にとってはすごくいい場所じゃないでしょうか。ちょっとアクセスは悪いですけどね( ;∀;)
背景が学べる戸定記念館
あとは、戸定邸やそれを建てた徳川昭武の背景を名ぶことができる戸定記念館もあります。館内は撮影禁止。時期によって展示内容が入れ替わるらしく私が訪問した時には「プリンストクガワ 華麗なる人脈」という展示が行われていました。
徳川幕府が外国と手を組んで政治を強くしていこうという目録から、徳川昭武がパリ万博に行って、海外視察に向かったというお話。そんなに大きな記念館ではなく、30分近くでさらっと見てる程度の博物館。
中ではいくらか簡単な資料も販売したので買ってみました。買ったのは「公爵徳川慶喜家 徳川慶久・慶光」「徳川昭武のヨーロッパ体験」「松戸徳川家関係系図」の三つ。徳川家の系図は実子や養子の関係が複雑に入り乱れていて、関係を理解するのがとっても大変。。
戸定邸を建てた徳川昭武とは!?
続いては徳川昭武の話。これから戸定邸を訪問するわけですが、その前に徳川昭武とはどんな人物だったのかについて触れてみることにしましょう!
徳川昭武は水戸藩9代藩主である徳川斉昭(とくがわ・なりあき)の18男として、ペリーが来航した1853(嘉永6)年9月に生まれました。
しかし18男って、ものすごい数の兄弟ですねwwwそんな兄弟の中でも、一番有名なのは、徳川幕府最後の将軍である徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)でしょうか。日本史の勉強でも習いましたよね(*’▽’)
この昭武と慶喜は16歳も年が離れた異母兄弟でした~~。
徳川慶喜って名前は知っていましたが、顔は初めて見ました。ちょっと津川雅彦さんに似てる??
という話はさておき、1866(慶応2)年11月、この年の8月に将軍家の家督をついていた慶喜は、13歳の昭武を水戸家から将軍家に迎え入れます。弟の資質に大きな期待を寄せ、将来は日本の指導者になってほしいと願っていたのです。
そして、慶喜は昭武に将軍職を継ぐことが出来る身分を与えた上で、翌年パリで開かれる万国博覧会に将軍名代(代理)として送り出しました。慶喜は衰え行く幕府を際せるために、慶喜はフランスとの強力な連携をとる政策を考えていたのです。
ただし、昭武がパリに滞在している間に日本では大改革が進行。そう、明治維新です。そんな背景があったあと、昭武には何度か帰国命令が出され、帰国後は水戸藩藩主につくことになります。
そして1882(明治15)年、昭武は戸定邸の建設に着手し、17年に完成させました。7年近い西洋体験を持つ彼が建てたのは純和風の住まい。書斎の床の間に日本画、その前にはヨーロッパから持ち帰った馬車の置物もあったそうな。
晩年、昭武は慶喜と共に戸定邸で、趣味の写真や絵画などを楽しんだそうです。そして、1910(明治43)年7月3日に58歳で亡くなりました。富士山も見えるし、和と洋が混在した独特の邸宅で、趣味に没頭しながらここで隠居していたそうな。。