横須賀最大規模の売春街だった「安浦銘酒屋街」は、どのような経緯で誕生したのか?

今回は、横須賀にあった銘酒屋街である安浦に関する記事です。横須賀には柏木田、皆ヶ作、安浦の3箇所に売春街があったのですが、そのうちの一つになります。
安浦は結構前から何度か訪れてはいたものの、あんまり内容がまとまっていなかったのと他の記事を書くのが忙しすぎてしばらく放置していたのですが、3箇所に関してそろそろ重点的に調べてみようと思い、書いた感じです。
安浦に関しては2記事ほど書くつもりですが、まずはこの売春街がどのような経緯から誕生したかということ!それをまとめてみましたので。以下で紹介していこうと思います(*’▽’)
本記事のポイント

・横須賀には「柏木田遊郭街」「安浦銘酒屋街」「皆ヶ作銘酒屋街」の3つの売春街があった
・安浦という場所は、平地が少ない横須賀を埋め立てまくった際にできた埋立地に誕生した
・遊郭ではなく銘酒屋という形態のお店が集まる街だった

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安浦銘酒屋街はどこにあった?

まずは、安浦がどこかという話になるのですがいきなりわかる人は多くないと思うので地図を使って示します。安浦町は神奈川県の横須賀市にあるんですね。首都圏に住んでいるかただと横須賀市の場所が分かる人は多いのではと。
んで、場所は上の地図の赤丸の部分です。軍港の街ということで海に面している都市であり、京浜急行や横須賀線で行くことが出来ますよ!!
で、もうちょっと具体的に示すとこんな感じです。横須賀の繁華街は京急の横須賀中央駅の辺りなのですが、安浦はもう少し南に下った場所にあるんですね。最寄り駅は京急の県立大学駅。横須賀に行ったことはある人がいても、安浦に行く人は地元の方でない限り、そういないんじゃないっすかね!

安浦銘酒屋街はどんな場所だったのか?

▲安浦の銘酒屋跡
まずは、安浦銘酒屋街がどんな場所だったかに関してを簡単に書いていきたいと思います。安浦は、1922年に埋め立てが完了した地域に市内に散在していた銘酒屋を一か所に集めたことから銘酒屋街の歴史が始まりました。
軒数は88であり、横須賀にあったその他の売春街である柏木田遊郭や皆ヶ作銘酒屋街に比べて、歴史は一番新しいものの規模でいうと一番大きな売春街でした。最終的には1958年に完全施行された売春防止法によって売春の歴史に終止符をが打たれたわけですが、安浦ではその後2000年代頃までちょんの間が生き残っていたらしい。。
今現在、安浦に売春は消えて建物跡がいくらか残っているだけという感じです。安浦という場所は、当時は地元の方も避けるほどの雰囲気であったようですが、この街はどのような背景が合って誕生したのか??
以下で、その流れを追ってみましょう!!

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安浦銘酒屋街はいかにして誕生したか?

横須賀の街は横須賀製鉄所の発展から栄え始め、遊郭もそこからできることになります。製鉄所が出来てからどのように横須賀の街が発展し、そして安浦の銘酒屋が誕生したのかを追ってみましょう!

製鉄所建設によって栄えた横須賀

▲安針塚から見える横須賀の港湾
神奈川県で一番大きな都市である横浜は閑静な漁村であったものの、1859年の開港で一気に栄えることになりました。鎖国を貫いていた日本に一気に西洋文化がなだれ込んできて発展を遂げていくわけですが、これを機に江戸幕府は自分たちの力で国を守らなくてはと、海軍の増強や軍艦を作るための近代的な造船所を作る計画を立てました。
最初はアメリカに頼む予定だったのですが、アメリカは「うちは南北戦争の最中でそれどころじゃねぇよ!」となり、紆余曲折あってフランスが手を差し伸べてくれることになるのです。
造船所を作るにあたり、フランス人技術者としてフランソワ・レオンス・ヴェルニーが日本に来日することになり、ここで培われた技術は、世界遺産になった富岡製糸場や、兵庫県の珍スポットである生野銀山で使用する機械の製造にも応用されていったのです。
ヴェルニーという名前を聞いたことがある方は多いかもしれないですが、彼の名は公園の名前にもなり、また記念館も存在しています。JR横須賀駅を降りてすぐの場所にあるヴェルニー公園は雰囲気も良くて散歩とか気分転換にはマジでバッチコイな場所です!!
▲港湾の灯りが綺麗なヴェルニー公園
ヴェルニー公園は地形上風が吹きずらい場所で、夜は港湾の景色が綺麗なのに人が少ない超穴場スポット。この公園内には、そんなに大きな規模ではないもののヴェルニー記念館という横須賀製鉄所の経緯などを学べる場所もあったりするのですよ。
↓ヴェルニー記念館に関してはこちらの記事をご参照くださいm(_ _)
そんでもって、ヴェルニーなどのフランス人技師を招いて横須賀製鉄所が建設されていくわけですが、それと同時に遊興地である「外国人遊参所(外国人用の遊郭)」も建設されることになります。
横浜では開港時に港崎遊郭が建設されたように、今回のような外国人が訪れる場所には遊ぶところも必要だということで遊郭ができるというケースはいくらか見られるわけです。
ただし、ここで問題が発生します。外国人遊参所を構える場所もそうですし、横須賀製鉄所が建設されて人口も増えていくわけなのですが、横須賀には平地が少なかったのですorz

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平地が少なく埋め立てまくった!!

改めてですが、横須賀は軍都として人口が増えていくわけなのですが、この街には大きな弱点があるのです。というのも、平地が少ないんですわこれが!港町である横須賀は、海側に切り立った崖も多く平地が少ないため、住宅などを作る場所を確保できなかったんですね。そこで、どうするかというと「必殺埋め立てまくり作戦」に出るわけです。
▲崖に沿って家屋が建てられている
これは今現在も横須賀の街を見るとわかりますが、谷戸と言われる地形に家屋がへばりついて建っているのがわかります。これ、平地に場所がなくなったため仕方なく山の上まで家を建て出したっていう妥協策だと思うのです。最近は平地まで降りるのが不便ということで、崖の上の方に住みだす方が少なく空き家が増えているようなんですね。。。
で、平地部分にはタワーマンションが建つようになったもんなので、新居を構えようという若造達はそちら側に住んでしまうわけです!横須賀は人口減少も進んでいて、空き家問題は大きな課題となっているのですよ!
そんな感じで横須賀に平地が少なく埋め立てが必要ということが分かったと思います。そこから、上の地図のような経緯を経て横須賀の街は埋め立てられていきます。これらの埋め立てには軍や行政だけではなく、地元の有力者が迅速に対応した背景があるようです。彼らの尽力により、埋め立てが進められ、大瀧町には1868年に大瀧遊郭が作られたりもしました。
上の図を見てもわかる通り、横須賀の街はどんどん埋め立てして拡大しているのが分かります。ただ、最近は人口減少が問題になっているということもあって、そうそう今の状態からさらに埋め立てられることはないと思っています!!
ちなみにですが、上の図はおおよその埋立地の様子で超厳密ではないので悪しからず(⌒-⌒; )

経営難の後に火事で焼失した「大瀧遊郭」

▲大瀧遊廓があったと思われる大滝町
大瀧遊郭の背景は、柏木田遊郭を深掘りする記事で詳しく書く予定ですが、この遊郭は経営がうまくいかなかったようです。元々外国人専用だったものの、1872年には日本人も利用する二本立ての遊郭になり、1886年には妓楼数18軒、娼妓236名でした。
↓柏木田遊郭(大瀧遊郭)に関してはこちらの記事をご参照くださいm(_ _)
※「今昔マップ on the web」を元に作成
そして、横須賀の街は人口も増えて市街地がどんどん南へ増殖していくことになるわけです。埋め立てられた小川町・大滝町・若松町・米が浜などにはもちろんですが、そこだけでなく、上の地図の赤丸で囲ったエリアを見るとわかるように台地を縫うようにして奥にまで市街地が広がっているのが分かりますね!!
大瀧遊廓は1888年に火事によって消失してしまいますが、その移転先が市街地の奥地である柏木田という場所でした。これは、「市街地付近に遊郭みたいな町を置くのはまずいので、隅に追いやっちまおう!」という他の遊郭街ができる経緯と似たようなものです。
※「今昔マップ on the web」を元に作成
で、そんな感じで市街地が増殖していくものの、それでも人口増加に対応しきれないということで、安浦の場所を埋め立てることになったのです!ここが、安浦の銘酒屋街が形成された場所になるわけです。
大滝町の埋め立てにも貢献した永嶋家は、安浦の埋め立て事業にも関わるのです。この家は東京湾の海堡(かいほう、かいほ)の建設に携わった背景もあり、その技術やネットワークを生かして田戸海岸を埋め立てることになるのです。
ちなみに、この永嶋家というのは島崎藤村の名作『夜明け前』のモデルにもなっているのですよ!そんな感じで、永嶋家というのは結構すんげぇ方々だったわけです。
そんなすんげぇ永嶋家が田戸海岸を埋め立てていたわけですが、下請け会社と資金でもめて工事がストップ。最終的には安田保全社(安田財閥)に担当は引き継がれ、1922年に埋め立てが完成しました。埋め立てる前は「田戸海岸」という名称だったのですが、安田保全社から「安」をとって安浦と名付けられたようです。

1923年の関東大震災が大きな転機に

安浦の埋め立て完成からわずか一年後の1923年に、関東大震災が発生してしまいます。横須賀市は永嶋家などの民間による開発が進んだ関係で、道路整備や区画整理が行われない中途半端なまま都市が発展していったため、横須賀市が大規模な都市計画をしようと考えていました。
が、そんな中で地震によって街が破壊されてしまうんですね。横須賀市の全16,315戸のうち焼失が4,700戸で全壊が7,227戸でした。そして、ちょうど埋め立てた安浦の土地が空いていたことから、埋立地のうち3,000坪を横須賀市に無償貸与されて、避難民収容のためのバラック(田戸バラック)が誕生したのです。
※「今昔マップ on the web」を元に作成
さらには、明治末期から銘酒屋といわれる業態のお店が市街地に広まっていました。各々の店は飲食店という名目であるものの私娼がいて売春行為が行われていました。しかし、銘酒屋では軍人が喧嘩を始めるなど街の治安の問題もあり、逸見・大滝町・若松町・深田などに散在していた銘酒屋が安浦に集められたのです。
▲初音は、安浦銘酒屋跡にある人気の飲み屋さん
これが1924年の出来事であり、ここから安浦の銘酒屋街の歴史が始まるのです。ここには銘酒屋のみの店舗が一軒5,000円を市から借用し88軒が建ち並ぶ形になりました。皆ヶ作の銘酒屋と同様に建物は45坪以内で1軒につき部屋数は4部屋と決められていました。

安浦は銘酒屋街であり遊郭街ではない!

これ、割と大事なことだと思うので書いておこうと思います。横須賀には3箇所の売春街があり、それぞれ柏木田遊郭、安浦銘酒屋街、皆ヶ作銘酒屋街と言われていました。ここで気をつけておきたいのが、政府公認の遊郭街だった場所は柏木田遊郭のみということです。安浦と皆ヶ作に関してはあくまで銘酒屋という遊郭とは少し異なった形式のお店の街でした。
銘酒屋は政府に売春を公認されてはいないものの、もちろん警察は把握していたが黙認していたので、銘酒屋があった街は公に売春が認められていた柏木田遊郭である公娼街に対して、私娼街とも言われていました。ただし、警察の管理下でもあり中で行われていることは遊郭とさほど変わらないため、遊郭と言ってしまってもまぁ問題ないのかもしれないですけどね。
▲遊郭と銘酒屋の違い
銘酒屋はいわゆる遊郭に比べると格が一つ下がった形式でした。最初の時期はお酒を提供してその後にという感じだったようですが、そのうちお酒の提供はなくただするだけって感じになったとか。また、そこで働いている女性は遊郭で働く娼妓・女郎などの呼び名に対して酌婦という言われ方をしていたそうです。
その他には上の表のような違いがあったようです。銘酒屋には遊郭に比べて色々な制限があったようです。表に書いてあるように遊郭の制限に関してはあったのかなかったのか不明な所があったので、その部分は「???」にしてあります( ;∀;)
ここで働いていた女性は、東北地方や千葉県・埼玉県・茨城県・長野県などの農家出身者が多かったとのこと。女性は家の農作物の不作続きなどによる貧農などの理由による借金の返済のための身売りとして働いていました。
借金の返済は、四分六分制(4割が女性、6割が遊郭・銘酒屋の経営者)と分配されていたようです。
「銘酒屋」という形式は遊郭に比べて聞いたことがない方も多いのではないでしょうか。他の東京の私娼街であった玉の井など、日本の至る所に銘酒屋は存在していました。
横須賀の銘酒屋の料金システムは、「チョイの間(ショートタイム)」「時間」「泊まり」の3パターン。チョイの間は、今現在大阪の飛田新地にあるちょんの間と同じ形式で、時間は一時間制、泊まりは名前の通り泊まりです!
横須賀では、1935年頃からは銘酒屋から特殊飲食店と名称が変わったとのこと。そして1958年に売春防止法が完全施行されて赤線が廃止した以降も、ちょんの間などの形式で長く生き残ったそうです。今現在は、安浦をうろついてもお店自体は壊滅していて遺構が残るのみ。
近くにある京浜急行の駅名も京急安浦駅→県立大学駅に改名されて、売春街だった痕跡はどんどん消えつつある、安浦はそんな感じの街っす!!

安浦や皆ヶ作の私娼街の影響

上でも書いたように、今回紹介している安浦と皆ヶ作の私娼街が存在することによって、公認遊郭街である柏木田遊郭は大きな打撃を受けていました。これは、安浦や皆ヶ作としてまとまった銘酒屋街(私娼街)になる前からの話ではあるんですけどね。
いわゆる柏木田遊郭は料金が高めの格式高い遊郭街であったこともあるし、あとは何せ場所が悪いんですわ!地図を見るとわかりますが、海に近い平地の場所にある2つの街に対して、坂を上った高台に位置していることからアクセスが悪いわけです。料金も高いしアクセスが悪い場所よりかは、手ごろで行きやすい場所に行く人も多いようだったのです。
柏木田遊郭の人からすると、公認遊郭街として営業しているのに、売春が認められていない私娼街に客を取られてしまうのはかなり堪えていたようなのです。

1920年12月18日
柏木田遊郭貸座敷業組合37名、「全国再高率の賦金と私娼の増加による経営圧迫のため、私娼の厳密なる取締り及びこれが適わない場合は賦金を酌婦税と同等に」との陳情書を県に提出

1926年01月22日
遊興税付加率半減の陳情書を市長および市議会に提出。私娼の跋扈により

[全楼収入]
大正14年度:390,759円75銭
大正13年度:210,000円

ここに書いたように、柏木田遊郭は、たびたび私娼の跋扈(ばっこ)を懸念していたことが分かり、私娼の影響かは不明ですが大正14年度の全妓楼での収入は大正13年度の半分近くにまで落ち込んでいたりと、収入はあまり安定していなかったようです。

▲大きな通りが残っている柏木田遊郭跡
また、これは柏木田遊郭の記事で詳しく書きますが、柏木田遊郭は女性に対する扱いがあまりにもひどかったようです。毎年のように逃亡が起きたり、ろくに食事も与えなかったり虐待があったり、自殺やお客に刺殺される、病気のため廃業するなど。。明治以降から戦前あたりの柏木田遊郭の歴史を見るとマジで悲惨です。。資料を見ていて本当に悲しくなるほどに。。
ただ、安浦の銘酒屋街もなかなかの場所だったようです。この付近に住んでいる方達は、安浦が独特の雰囲気を持っていたということで、大人たちでも避けて通っていたとのこと。柏木田だけでなく安浦でも、酌婦の中には重箱という箱に投げ捨てられたり、塩を撒かれたり、前借の増加といく末を悲観して横須賀署に自由廃業を願い出たり、大変な思いをした女性たちがたくさんいたようです。

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おわりに

どうでしたか?今回は、横須賀最大規模の売春街であった安浦の背景をまとめてみました。その背景には、横須賀製鉄所が設立して街が発展し、平地が少なく埋め立てまくった 際に出来た安浦という場所に、銘酒屋を集めたという背景があったのですね!!
単に売春が行われていた街というだけでなく、背景まで調べるといろいろと視野を広げられるわけです。背景を説明したので、次は安浦を実際に探訪して現地の方に聞き込みをすることができたので、その内容の記事を書いていきたいと思います!ただ、建物に関しては先人の方が調査済みであるので、あまり建物には焦点を当てないないようにするつもりです!
ということで、続編記事までしばしお待ちくださいm(__)m

参考文献

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