横須賀の海軍が押し寄せた「皆ヶ作銘酒屋街」の背景に迫る~皆ヶ作Vol.1

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)

今回は、かつて横須賀で大きな歓楽街だった皆ヶ作に関する記事になります。

横須賀には、大きなかつての歓楽街というと「柏木田遊郭(旧大瀧遊廓)」「安浦銘酒屋街」「皆ヶ作銘酒屋街」の三か所があり、柏木田と安浦に関しては記事にしてきたものの、皆ヶ作に関してはまだ記事をかけていなかったので、今回は念入りに調査して放出する形になります。

↓柏木田遊郭と安浦銘酒屋街に関して以前書いた記事は以下になります

皆ヶ作は何度も訪問して現地のお店の方々に取材を重ねてきたので、結構色々と発掘することができました。全部を一つの記事にするとすんごく長くなってしまうので、四部作に分けて記事にする予定です。

今回はその第一弾っすね(*’▽’)

ではでは、まずは皆ヶ作誕生から赤線時代までの歴史を以下でまとめていこうと思います!

本記事のポイント

・皆ヶ作には45軒の銘酒屋があった
・銘酒屋以外にはカフェーや料亭、検番も近くにあった
・2019年現在はカフェーや料亭の遺構がポツポツ残る程度

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横須賀製鉄所の誕生で栄えた横須賀

安針塚からの横須賀の湾港

まずは皆ヶ作の歴史から行きましょうか。横須賀というと、今では海軍の街として知られていますが、1865(明治2)年に横須賀製鉄所が誕生するまでは半農半漁の閑静な村でした。

しかし、1859年に横浜が開港したことで鎖国が解かれ、江戸幕府は自分たちで国を守らなくてはいけないということで海軍の増強や軍艦を作るための近代的な造船所を作る計画を立てました。

ただこの時、アメリカは南北戦争の最中であり、「日本と組む余裕なんてねぇよこんにゃろー」となったので、紆余曲折あってフランスと組むことになりました。

フランス人技師「ヴェルニー」

そこで、製鉄所を造るにあたってはフランス人技師のフランソワ・レオンス・ヴェルニーを中心として造られることになりました。

そんなこともあって、横須賀には今もJR横須賀駅からすぐの場所にはヴェルニー記念館という横須賀製鉄所誕生の背景を学べる博物館や、横須賀の湾港を眺められるフランス式庭園のヴェルニー公園なんかも残っていますが、その名前は彼からとっているわけですな!

上の写真はヴェルニー公園にあるヴェルニー氏の銅像。お隣には、製鉄所建設に貢献した日本人である小栗上野介忠順(おぐり・こうずけのすけ・ただまさ)の銅像のあるんですけど、それはおまけの話。。

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大きなメイン通りが残る柏木田遊郭跡

で、そのような製鉄所を作るために多くのフランス人技師が訪れたということで横須賀には外国人遊参所(外国人用の遊廓)が造られることになります。これによって誕生したのが大瀧遊廓であり、この遊廓が火事によって上町三丁目に移転して出来たのが柏木田遊郭っすね!

そんな感じで、製鉄所の誕生とともに街が発展して遊郭もできたわけですが、皆ヶ作はいったいどのような動きがあったのか??

海上自衛隊船越基地

この田浦の場所に横須賀海軍の造兵部が誕生したのが1886年4月25日。そのため、この頃から海軍の方が遊ぶためにポツポツ銘酒屋が誕生したのではと思っていますが、厳密にいつから皆ヶ作に銘酒屋が誕生したのかは不明です。

その辺を明確に書いている資料が未だ発見できずでして( ;∀;)

銘酒屋が建ち並んだ皆ヶ作

ただ、大正10年のころ、当時の大日本帝国海軍軍人の性問題が大きく論議され、性問題の解決方策として横須賀警察署等の要望などもあって、慰安施設を作ることになったそうです。当時、この街には25軒ほどの銘酒屋が点々としていたそうですが、これを現在の船越町に集中させようと計画されました。

しかし、25軒では少なすぎるということで45軒になったという。皆ヶ作という町名も”皆で街を作った”ことを意味して付けられたそうな。

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皆ヶ作は遊郭街ではない!

横須賀にあった売春街

これは安浦の記事でも書いたのですがここでも書いておこうかと思います。冒頭でも書いたように、横須賀には「柏木田遊郭」「安浦銘酒屋街」「皆ヶ作銘酒屋街」と三つの大きな売春街があったわけですが、この中で遊郭だったのは柏木田遊郭だけになります。

で、皆ヶ作と安浦にあったのは銘酒屋(めいしゅや・めいしや)と言われるお店であり、簡単に言えば遊廓より一つ格が下がった形式のもの。警察も把握しているし、ちゃんと許可をもらってお店を出していることもあり、遊郭と同じようなものではあるんですけどね。

でも、一応定義はそうなっているのでここでもそうしておきます。

遊廓と銘酒屋のルール

こんな感じで、銘酒屋は遊郭よりもルール的に厳しかったようです。建物の広さとか、部屋の数などなど。あと、遊郭で働く女性のことを娼妓(しょうぎ)と呼んでいた反面、銘酒屋で働く女性は酌婦と言われていました。

地元の古老が書き残した地元の資料によれば、酌婦は18歳以上と規定されてはいましたが、実際は内緒でそれ以下の人も働いていたそうです。女性を雇うときは年季契約でお金を貸し、昭和10年ぐらいで標準で300円ほど。若くてきれいな方だと400円とか500円にもなったとか。

銘酒屋という名目のため、最初の頃はお酒を出してその後に売春が行われていたそうですが、時が経つにつれてそんな建前はそっちのけになっていったという。

契約の際は親元の方で金銭の賃借の借用書を出し、それに女性の名前と「何年の年季奉公してもらいます」と書きます。もし嫌になって逃げた場合は、正規の契約のため警察が捜索することになり、捜索費用は全部本人負担。。

88軒の銘酒屋があった安浦

皆ヶ作に建てられる銘酒屋は45軒と決められており、同じ銘酒屋があった安浦の方も88軒と決められていました。 でも1軒が廃業すれば、その分、新しいお店を始めることは可能。

そんな感じで銘酒屋街として時を刻んでいった皆ヶ作は戦後に赤線となり、売春防止法によって売春街の歴史に終止符が打たれることになりました。。といっても、それから10年くらいはまだ色々あったようですが。。

皆ヶ作の歴史としてはそんな感じですかね。

横須賀の色街に関しては、図書館を漁るなどかなりの時間をかけて調べはしましたが、皆ヶ作って柏木田や安浦に比べて資料は少ない感じです。でも、まだ私が気付いてない資料はあるんだろうな。。

ということで、昔のことを資料でほじくるのはこのくらいにするとして、ここからは現地取材の様子を書いていくことにしますか(*’▽’)

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