横須賀にあった売春街「皆ヶ作」の歴史を探るべく、埼玉県の食堂を訪問した~皆ヶ作Vol.4

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)

今回は皆ヶ作記事の第四弾になります。今までは、横須賀の売春街だった皆ヶ作の歴史や、未だ現地で営業を続けられている老舗の飲み屋さんを取材しましたが、今回はその時に、昔に皆ヶ作で下宿をしていた元海軍の方が現在埼玉県の小川町で食堂をしているとのことで、そのお店に取材に行った内容になります。

↓前回までの皆ヶ作の記事は以下ですm(__)m

で、今回はその埼玉県小川町にあるお店『一力食堂』で、実際にご主人さんから話を聞いただけでなく、そのご主人のお店の近くに住んでいる仲間(この方も皆ヶ作で過ごしていた方)にも参加していただき、三時間以上にわたっていろいろな話を聞かせていただきました!

ということで、その内容を以下で紹介していきたいと思います!

本記事のポイント

・ご主人は、皆ヶ作にあった月見家旅館に下宿していた
・皆ヶ作には金貸しやパチンコ屋、質屋などもあった
・ツケ払いで飲めたため金がなくても皆が酒を飲めた!!

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埼玉県小川町にある食堂へ!

前回取材した、バー「一二三」

神奈川県横須賀市の売春街だった皆ヶ作の歴史を調べ続けている今回の記事シリーズ。前回の記事では、皆ヶ作にある老舗の飲み屋であるバー「一二三(ひふみ)」を訪問して取材をしておりました(*’▽’)

んで、そこのママさんから、「埼玉県の小川町という場所に、海軍だった時に皆ヶ作で下宿をしていた方が、その下宿先の名前を使って食堂をしているよ!」という情報を仕入れたんですね!

ということで、その食堂の御主人からも皆ヶ作の昔の話を聞けんじゃないかということで、いてもたってもいられなくなり久々に埼玉取材遠征へと出かけたわけです!

結構距離はある・・

ところで、埼玉県小川町と聞いてパッと場所がわかる方はそうはいないんじゃないですかね。私は知の冒険の取材で何度か埼玉県は訪問していて、何となくの場所であればわかっていましたが、今まで一回も行ったことない場所ですし、見所だとかどんな街かも全くわからん未知の場所。。

今回は、目当ての一力食堂だけでなくついでに何か所か訪問したかったこともあり、桶川まで湘南新宿ラインで行って、そこからレンタカーを借りるという作戦に!

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見所がたくさんある小川町

小川町は和紙の生産が盛んだったようで、昔は商人が多かったとか。その方々が小川町で芸者遊びをしていたこともあってか、昭和の中頃までは人口の割には多くの芸者さんがいたそうです!

今でも割烹料理屋の二葉や、女郎うなぎが名物の福助など見どころも多く昔の話も聞けそうだな~とは思ったものの、今回の記事のテーマではないのでこのくらいにしておきましょう!

今回の目当てである「めし処 一力」

見所がたくさんあり、小川町周辺をうろうろしていたわけですが、今回小川町を訪問した一番の目的は横須賀の皆ヶ作に関する歴史を聞くこと!

元海上自衛隊員であり横須賀の皆ヶ作で下宿をしていた経緯をもつご主人が営む「めし処 一力」が今回の目当てですね。営業時間は中休みがあり夜営業は17:30から。

ただ、今回みたいに飲食店は取材のハードルが高いんですよね。事前に取材を申し込んでおけばまだ大丈夫ですが、いきなりの訪問だと他にお客さんがいると取材は厳しいですし営業時間の間だと忙しいっすもんね。。なので、お客さんが少ない時間に今回の目的だけを伝えておき、後で時間があるときに取材をしようというのが作戦っす!

ということで、いざ店内へ!

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元海上自衛隊の御主人がお出迎え!

お客さんはまだ誰もいない

店内に入ると、まだ夜営業が開店したばかりということでお客さんは誰もいませんでした。中に入ると、店主さんと女将さんが迎えてくれて、ご主人が笑顔で挨拶してくれたので早速今回訪問した旨を伝えました。

自分が知られざる街の歴史を調べてブログを書いていること、横須賀の皆ヶ作に行ってバー一二三を訪問してそこのママさんから一力食堂の話を聞いたことなどなど。

するとご主人さんは理解したそうで、「あ~一二三ね、よく小川町まで来たね!でもね、その話はちょっと違うんだよね」とのこと。

皆ヶ作の思い出を語ってくれた

というのも、私は一二三のお母さんから「ご主人さんが、海上自衛隊の時に皆ヶ作の一力旅館に下宿しており、その名前を使って食堂を開いた」と聞いたのですが、”一力”という同じ名前が使われているのはたまたまで、ご主人さんが下宿していた旅館の正面にあったのが一力旅館だったとのこと。

創業は明治45年とのこと

ご主人:「うちの店は明治時代からあるお店なのね。もともとは今の駅寄りにあったんだけど、小川町の駅が出来るっていうんで大正13年に今の場所に移転してきたの。だから、一力って言っても同じ名前なのはたまたまなのよ!」

昔の皆ヶ作の地図を確認してもらった

そこで、横須賀中央図書館でコピーした昔の皆ヶ作の地図を見ていただき、昔の思い出話を聞いてみることに!

ご主人:「俺たちがいたのは昭和41か42年頃だったかな~。でもね自分が泊まった下宿先の名前が分かんなくてね。あ~確かにこの辺にこんな感じの通りがあったね。下宿していた目の前に一力旅館があったのは覚えているのね。そんな感じだから前に田浦も行ったんだけどさ、ずいぶん迷っちゃってね。。」

1977年の皆ヶ作の地図

ご主人の話をもとに1977年の地図を見てみると、目の前に一力旅館があったことを考えると、下宿先だったのは月見家旅館だった可能性が高いっすかね。

ご主人:「下宿先の建物はね、昔でいう遊郭みたいな、いかにもっていう外観だったよ。丸窓があったりね。 俺なんかは正規の玄関じゃなくて脇から入ってね、で二階に上がったら四畳半の部屋が二部屋か三部屋くらいあってさ、全部扉がふすまなんだよね。駅から宿までには途中に怪しい飲み屋がいっぱいあったよ。一階は飲み屋なんだけど二階でそういうサービスをしていたってお店ね(笑) 」

私:「その当時もまだそういうお店があったんですね。」

ご主人:「あったよ。今でも覚えてるけど、当時の額で一回3,000円だったね。」

ご主人の先輩も召喚!

先輩を呼んでくれることになった

そんなこんなで話をしていると、ご主人がふと電話を取り出しました。

ご主人: 「この近くにね、皆ヶ作で自分より長くいた先輩がいるんだよ。もしあれだったら電話してみようか?」

私:「本当ですか、ぜひお会いしたいです(*’▽’)」

ということで、ご主人さんはその先輩に電話をして呼んでくれることに!

ご主人:「 もしもし、ほれで実はね、神奈川の人でこの間一二三に行って昔の地図を持って色々話をしててね、もしあれだったら出てくる??いやね、若い人が一二三に行ってうちのお店のことを知って来たのよ。で、俺より神奈川長かったからもし色々知ってればなって思ってさ! 」

そんな感じで電話で話すと、先輩は予定が空いていたらしくお店に来てくれることに!これは思ってもない展開( ´ ▽ ` )ノ

そして15分後・・・

先輩が到着

その先輩の方も来てくれました( ´ ▽ ` )ノ

先程と同様に、私がブログをやって街のことを調べていることや小川町まで来た背景を説明し、先輩にもいろいろ聞いてみることに!

私:「横須賀にはいつにいらっしゃったんですか?」

先輩:「私はね、東京オリンピックの翌年だから1965年に横須賀に来たのね。それで翌年に広島の江田島に行くまでだから昭和40~41年頃だったのかな、それまで自衛艦隊についてた船に乗っていたのね。 」

先輩:「私の場合は母校が田浦の自衛艦隊だからね。訓練があるときは護衛艦だから二週間とか三週間とか沖に出ちゃうの。自分が乗ってた船は秋月という船だったよ。」

先輩:「そういう話でいえばね、昔は梅毒だとか淋病とかも多くてね。で、俺なんかが船の風呂の掃除をしてたらさ、「一番風呂に入りたい」っていう人がいるのよ。つまり、病気の奴が入る前に風呂に入りたいってことね!」

唯一夜更かしができたチャイナタウン

私:「皆ヶ作でいえば、一二三のママさんからは、昔はチャイナタウンというお店が有名だったと聞きましたがご存知ですか?」

先輩:「あ〜チャイナタウンね。ここは溜まり場だったね、本当はいけないんだけどさ、ここは唯一夜明かしが出来るお店だったの。飲み屋で言ったら、自分が最後までいた時は数えたら27軒くらいあったかな~。」

私:「あと、おたか旅館が連れ込み旅館だったとも聞きました」

先輩:「おたか旅館、あったね。詳しくは、ん〜まぁいろいろあったよ(笑)」

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船まで飲み代を徴収しに来た

お腹が空いたので夕飯も一緒に

話をしていたところで、先輩の方と一緒に夕飯を注文することに。私は何となく食べたかった天ざるうどんを注文。天ぷらは油っぽさがなくあっさりしていてとってもおいしかった(*’▽’)

ツケ代を船まで徴収しに来た

話は続く。。今度は当時の飲み代だとかその辺の話に。

先輩:「昔はみんな給料で飲んじゃってね、給料持ってつけ払いに行ってね。全部払える人は払えればいいけど、半分しか払えない人はまた翌月のつけ払いだよ。当時はね、給料日になったら領収書持ってお店の人が船までやって来てたんだから。」

ご主人:「そうそう、昔はそれが当たり前だったの。給料をもらう時にさ、班長が『お前らちゃんと払ったか?店とトラブル起こすなよ!』って言ってたりしてたね。 」

ご主人さんと先輩

その辺の話は第二弾の記事でも紹介した、船越にある「おかね」という飲み屋でも聞きましたな〜。飲み代はツケ払いで来たから、金なくても飲んでた的な話ね(笑)

私:「昔は喧嘩も多かったみたいですね。」

先輩:「昔は喧嘩も多かったの。色々酷いこともあったし、内々でもみ消したこともたくさんあったね。だから民間の人達とはなるべく接触しないようにはしてたの。民間の人とトラブルになると広まっちゃうでしょ。だから飲む店も結構限られてたかな。 」

私:「この当時は仕事が終わったら飲みに行くのが当たり前の時代だったんですか?」

先輩:「そうね、夜になるとどこ行っても飲み屋には人であふれていた。この当時はね、夜になるとパチンコに行くか飲みに行くかしか選択肢がなかったからね。」

今だと仕事終わりに飲みに行く人はそんなに多くないですもんね。ネットがあったりでいくらでも娯楽がある時代ですし。昭和40年代頃は娯楽が少なかった分、皆が飲み屋で発散してた時代だったようです。

専門の金貸しもいた!

下宿先の一つだった「一力旅館」

ツケ払いで酒が飲めたということもあり、金がなくても酒を飲む。そんなわけで、中にはこんな話もあったそうな。

先輩:「当時の下宿先はね、知っているもん同士で同じ部屋を使っていたの。でもそれぞれ船が違って沖へ出る期間も異なるからかち合うことはあまりないのね。でさ、数週間訓練に出るからって部屋を空けるでしょ。その時に、部屋にカメラとか置いてたもんならさ、片方の奴がいつの間にか質屋に売っちゃったりとかね(笑)」

ご主人:「俺も金ないやつによく貸してたことあったよ。3,000円だか4,000円だかをさ。」

昔は質屋や金貸しがいた

先輩:「そんな訳で、がさくには質屋もあったし専門の金貸しもいたね。暗い細い道の先にパチンコの換金所みたいのがあってさ、そこ行くとオヤジがいて『おっ、兵隊さんか?いくらほしいんだ?』って金貸してくれんの(笑)」

ちなみに、昔から皆ヶ作にいた方々は、「かいがさく」のことを「がさく」を略すそうです。お二人もしきりに「がさくにはさ〜・・」みたいにおっしゃってました。

そんなこんなで皆が飲んでた時代には金の貸し借りだとか、金銭トラブルとかそんなことは日常茶飯事だったそうです(・_・;

続きはこちら!沖縄に上陸した時はアレが配られた!?
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