風光明媚な根岸湾沿いにあった「磯子花街」の痕跡を探るべく、現地調査を試みた!

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こんにちわ!

今回の記事は神奈川県横浜市にあった磯子の花街に関する記事になります。最近は井土ヶ谷花街や上大岡にあった大久保花街など、横浜市にあった花街研究に没頭している私ですが、今度は磯子っすね!

磯子って私的にはなかなか未知の場所で、今まで知の冒険でもあまり研究してこなかった街。ということで、今回は花街を調べるだけでなくそのほかの歴史も絡めて勉強したりと結構時間をかけて調べてまいりましたぜ!

地元の方を何人か取材して、まだ芸者がいた頃の記憶がある方もいてそれなりの収穫があったということで、その辺をまとめて以下で放出していきたいと思います!

本記事のポイント

・大正時代に埋め立てられた場所に、磯子花街は誕生した
・海軍御用達の偕楽園など大きな料亭
・戦後の埋め立てや鉄道網の発達によって花街は無くなった

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磯子花街はいかにして誕生した?

現在の磯子花街跡

ということで、まずは磯子花街誕生の歴史から学んでいくことにしますか。今では料亭だった建物は一軒も残っていない磯子花街はいかにして誕生したのか??

磯子花街があった場所

磯子花街があったのは上の地図に示した場所でした。今では東京湾沿いというと、ひたすら埋め立てられまくって工場などいろんなものが建っていますが、磯子花街があった場所もかつては海だった場所でした。

磯子周辺の根岸湾は明治時代の頃から度々埋め立てられていき、その場所に花街の料亭は徐々に建っていった形になるんですね!

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明治時代からの海岸の変遷
※「今昔マップ on the web」を元に作成

その埋め立ての経過としては上のような感じです。大正時代ごろまでは上の左側の地図のような状態だったのが、大正、昭和と時代を経るごとにどんどん埋め立てられていってますね。この辺の海は遠浅だったこともあって埋め立てやすかったそうです。

「芦名橋」はバス停の名前にもなっている

その花街が誕生した大正頃の埋め立ての際には、のちの磯子二業組合の組合長でもあった葦名金之助(あしな・きんのすけ)という人物がおりまして、この人物の貢献が大きかったそうです。

そんなわけで、今でも「芦名橋(あしなばし)」というバス停や芦名橋公園など名前が残されているんですね。

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誕生したての国道16号線(左側)

ちなみに、この大正時代の埋め立てによって現在の国道16号線も誕生しました。出来た当初は砂利道であり道幅も狭かったようです。ちなみに、上の写真でいうと左側への道が国道16号線であり、右側は旧道っす!

風光明媚な海岸線に料亭が誕生!

花街があった頃の磯子

そんな埋め立てられた場所に花街は出来たそうですが、次は実際に花街にあった料亭について学んでいきましょう!

磯子が区として誕生する1927(昭和2)年頃、当時の磯子をリードしたのは料亭や別荘のサービス業でした。それは、漁猟や海苔の養殖に海の恵みがあったからだけではなく、屛風ヶ浦の海岸線の景観が風光明媚であり、海水浴場にも適していたわけです!

磯子花街での料理旅館業の開業は、1907(明治40)年の梅乃園が早く、その他には1922(大正11)年に磯子園、1926(大正15)年には磯子最大の料亭だった偕楽園が誕生することになります。

今は亡き磯子見番だった建物

料理店や置屋などの二業組合との連絡を取りながら花柳繁昌を盛り立てる見番が設立されたのは関東大震災以降。それ以前は神奈川や保土ヶ谷の芸妓を呼んでいたと言われているそうです。

磯子のように横浜市内には大変多くの花街があり、有名どころで言えば市の中心部にあった掃部山、関内、日本橋、神奈川、蒔田、井土ヶ谷、弘明寺、上大岡など。

その中でも、関内や日本橋は「料亭」「置屋」「待合」が揃った三業地でしたが、その他は二業地でした。

磯子花街で唄われた『磯子小唄』

そんな芸者さんたちは、磯子花街によって作成された『磯子小唄』を歌いながら踊ることで、料亭に来る旦那衆をもてなしていたようです。このように神奈川県内のそれぞれの花街では唄が作られ、人気が出たものはレコード化がされたりするなどしてさらにお客を呼べたという。

今でいう地方がお客を呼ぶためにご当地キャラ(ゆるキャラ)を作るようなもんってことなんですかね?隣のページには本牧二業組合による『本牧おけさ』も書かれていますが、このようにして神奈川県内にあった花街では、それぞれの場所で唄が作られ、その曲によって芸者が踊るという感じだったようです。

ところで、磯子にはどの辺に料亭があったのか??

上の地図にまとめましたが、磯子花街としてまとまってた一画だけではなく、その南側には偕楽園、田舎家、雨月荘(海軍御用料亭)などがありました。その中でも一番大きかったのが偕楽園で。一部は海水浴場として市民に解放されていたため、夏には大人や子供で大変賑わったそうです。

こんな感じで、料亭はまとまった一画がありつつも海沿いに点在してもいたようです!

偕楽園の入り口

偕楽園は海軍指定料亭ということもあって、イカリのマークがついたトラックが横付けになり米や酒の荷を下ろしていましましたが、一般人は唾を飲み込むだけ。高級軍人と特権商人の宴会もあったでしょうが、前線に特攻出撃する送別の宴もあったとか。

一方、料亭が密集していた一画の様子はこんな感じ。上の地図は、横浜市中央図書館にある1959(昭和34)年の地図を参考にして作成したものです。

この時代にはまだ見番や二業組合事務所があり、料亭もそれなりにありますよね。ただ、ここから根岸湾沿いが埋め立てられるようになると花街は急速に衰えていくことになるんですね。

今では料亭は一軒も残っておらず、現在では一軒家の住宅になったものもあれば、どこからかデベロッパーでも来たのか大きなマンションになっているものも見受けられます。

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敗戦直後には花街が復活!

1941年12月8日に開戦となった太平洋戦争。終戦直後の本土空襲によって様々な場所が焦土と化したわけですが。横浜にも1945年5月29日の横浜大空襲によって市の中心部が大ダメージを受けることになりました。

しかし、磯子地区は被害を受けることはなかったという。ここまで戦火は襲ってこなかったのですね。そんなこともあり、終戦直後も海苔の養殖がおこなわれ、夏が来れば子供たちが海水浴を楽しんでいたそうです。

敗戦で国内が元気を喪失していた頃の1945(昭和20)年11月4日、花柳界全部、待合、貸席の営業再開が許可になります。その時、磯子花街も息を吹き返し、田舎に帰っていた芸者さんも古巣に戻ってくることになります。

三味線や踊りの需要は減っていった

しかし、時代がどんどん進み、横浜の中心部も再建が進んで接待は古い料亭・芸妓のお酌からスマートなクラブでのホステスのサービスに変わって行くことになります。そこで、昭和30年3月12日の新聞には「磯子芸妓組合が新時代の芸者のため、偕楽園で芸者学校を開校」との記事もあるように、芸者も時代の流れについていこうとはするものの花街の勢いは徐々に衰退していくことになるのです。。

工場誘致と根岸線開通で花街は消滅

そんな中、昭和30年代(1955~1960)頃になると磯子の人々にとって「根岸湾埋め立て問題」という一大問題が発生したのです。それは、「埋め立てによって新たなメリットを生み出そうとする者」と「父祖伝来の生計の場である海を死守しようとする者」の熾烈を極めた闘争の日々でした。

7年間接収され続けた横浜市中心部

横浜市側は、神奈川や鶴見地区を埋め立ててきて、根岸湾も埋め立てて工場地帯を造成したかったわけです。というのも、横浜市は戦後GHQによって7年近く市の中心部が接収され続けることになり、他の都市に比べて戦後の復興が遅れていたんですね。

そのため、桜大線(桜木町-大船)の敷設と共に根岸湾を工場地帯にして日本の再建に役立てたかったようです。

しかし、地元漁民はこの場所は海苔の養殖を主体に多種類の漁具で品質の良い漁業生産を行えるということで絶対反対の姿勢!!

1973年に根岸線が全線開通

そこで、最終的には市が漁協の方々に補償金を支払う形で1959(昭和34)年に解決。それから五年後の1964(昭和39)年5月に、根岸線の桜木町-磯子間が開通し、1970(昭和45)年に磯子-洋光台が、そして最後に1973(昭和48)年4月に洋光台-大船間が開通することに。

戦後の混乱期に花街と遊郭との境界線が曖昧な時期があり、昭和33年に完全施行された売春防止法によって磯子花街も衰退。さらには、JR根岸線の開通や埋め立てによって海岸料亭の情緒は無くなり、昭和43年にはついに偕楽園が閉園。

以上が磯子花街の誕生から消滅までの簡単な流れになります。現在磯子に行くと、工場地帯になっていて昔は風光明媚な海岸線が広がっていたとは想像もつきませんが、この街には以上のような歴史があったんですね。

磯子に関して学んだところで、次のページからは実際に現地を訪問して花街の痕跡をひたすらほじくり出してみることに(*’▽’)

続きはこちら!芸者さんが利用していた化粧品店があった!?
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