相模川沿いにあった厚木花街の歴史とは!?

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今回は、神奈川県厚木市にあった花街に関する記事になります。今まで知の冒険では神奈川県の遊郭・花街跡を色々記事にしてはきましたが、探せばまだまだあるもので、今回は厚木ですよ!

古くから山岳信仰として崇められた大山の宿場町として栄えた厚木は、すぐそばに神奈川県の中心部を流れる相模川もあり、その待機場所としての役割もありました。

そんな厚木にはどのような背景で花街が誕生し、当時はどのような物語があったのか。色々資料を集めたりして調査したので、以下で詳細を書いていこうと思います!

本記事のポイント

・厚木には20軒ほどの料亭があり、バブル前辺りまで芸者がいた。
・相模川には料亭が屋形船を出す遊船会があった
・近くには浅草を真似て造られた大鷲神社もあり、今でも酉の市が行われている

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厚木宿はどう発展したの?

神奈川県の中心部に位置する厚木市。

かつては、古相模湾と仮称する入江が厚木付近まで入り込んでおり、相模川やその支流の流れが丹沢山地や小仏山地から多量の泥土砂礫を流出し、それが大成してできたのが相模平野とされています。

その相模平野の最北端に位置するのが厚木っすね。厚木の地名の語源は明らかではないようですが、「アツメギ」→「アツギ」というように木材の集散からきている説があり、津久井や七沢から徴集した木材を相模川を南下した場所にある須賀港で番船に積み替えて小田原へ送ったり、さらには江戸にも送られていたという。

山岳信仰として有名な大山

そんな厚木には厚木宿という宿場町が誕生したわけですがどのような方が訪れたのか??

それには信仰が大きく関わっているようで、厚木より西に位置する山岳信仰として多くの参拝者が押し寄せた大山を参拝する大山詣の人々や、坂東三十三観音札所巡りの六番札所である飯山観音への参拝客が多かったとのこと。

そのため、厚木宿は神奈川の中心部を流れる相模川を渡るための河川交通の要所だったんですね。

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さらに、江戸時代の貨幣経済が安定した頃には、琵琶湖南部の近江商人が商圏を広げて関東へ進出してきた際に厚木でも商売を広げていったこと。さらには、1859年の開港によって横浜が港として開けて明治から大正の頃に関東甲信越で生糸の生産が爆発的に増えた際には、厚木の生糸商人も財を成すようになっていくことで、厚木の中心地にお金が落ちていったわけです。

すんごくざっくりですが、そのような経緯で厚木には人が増え商人が増えていき街が栄えていくことになります。

さらには、1923年の関東大震災の際には、江戸の中心部が壊滅的な打撃を受け、生活圏が外へと広まっていく流れに乗って小田急線が敷かれ厚木の方も多くの人々が住居をかまえることになっていく。

厚木にはそんな背景があったんですね〜。

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厚木宿を支え続けた花街の存在

今回の記事では、神奈川県立図書館や厚木市立中央図書館で文献を漁ったり花街があった跡地を訪問するなどして記事を作成していますが、まずは図書館で見つけた資料をもとに花街の歴史を追ってみることに!

商売人を支え続けた花柳界

厚木宿でも花街の存在は大きかった

厚木の街に花街が生まれたのは明治初期の頃だという。記録としては、明治九年調査『皇国地誌稿本』によると厚木町に「絃妓八人」と記されているとのこと。同じ神奈川県にある東海道の宿場町の藤沢宿や川崎宿では、遊郭があったことで宿場町の維持が出来たという背景があるように、厚木宿の繁昌に関しても花街の存在は避けては通れないテーマなのです。

近世から明治の前期にかけて相模川を渡船で渡した頃は、大山参り・観音霊場巡りの道者(どうしゃ)や旅の人達が、渡船を上って宿場に入るとそこには多くのお茶屋さん(今でいう料亭)が並んでいたという。

厚木宿の稲荷横町・石屋横町の周辺には、角勘、・白子や・高砂や・若松や・釜鳴や・熊沢や・紀の国や・吉野や・海老や・阿波や・大和やなどのお茶屋があり、お茶屋にはお茶屋女がいてお客の接待をしていたそうな。

明治33年頃には横町の芸妓連は上裏町から天王裏に移って「厚木芸妓合資会社」が組織されています。芸妓・置屋・見番が出来たのもこの頃。芸者遊びを豪勢に行ったのは財産を持つ大商店の旦那方で、生糸で儲けた半原の糸屋の旦那方が厚木へ乗り込んで豪華な遊びをしたのも、明治・大正・昭和の糸相場の上昇の頃だったという。

舟運衰退のピンチを屋形船により回避!

厚木花街にとって、東海道線の開通など鉄道の発達という背景も大きく関わっていたというのですね。

というのも、明治時代に入り鉄道が敷設されていることによって、舟運から「鉄道輸送に切り替わっていく時代。

乗客輸送が円滑になると大山街道を利用しての大山参拝に来た人々が次第に鉄道を利用し、今までの多くの大山街道を往来する参拝者が東海道線を用いて平塚より伊勢原・大山に向かう者が多く、厚木宿を通る矢倉沢往還(大山街道)の足が平塚・伊勢原へ奪われるようになっていきました。

鮎漁遊船会 による屋形船

さらには、1895(明治28)年の日清戦争後の不況の打開策を考慮した業者達は、鮎漁遊船会を考え出したのです。そこで、平田船に屋根形を付けた屋形船に改造して遊船として相模川の鮎漁とタイアップして都会人をこれに引き付けたのです。

遊興を共にする芸妓も既に明治初期より数人おり、遊船会が当たったのです。日露戦争等の好況期をつかんでこれらの業者は繁盛しました。

このように月光淡い夜の鮎漁に芸妓を船にはべらせて水上に遊興の宴が開かれる様は、明治38年の頃から唄われた『厚木音頭』にもその情景が唄われています。

1937(昭和12)年の厚木花街

太平洋戦争が終戦した1945年8月15日から半ヶ月余りが経つと、厚木町の歓楽街も活動を始め、映画館の厚木キネマが開館し、花柳界も次第に復活開業の準備を急いでいました。

12月23日には元町裏に進駐軍慰安所として富士山ダンスホールが開業し、25日には厚木ホテルが開業しました。

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飯山温泉の花柳界が賑やかに

桜が有名な飯山観音

ただし、厚木の花街にも陰りが見え始めてきます。。戦後の車社会の発展で人々の行動範囲が広がり、近くにある七沢温泉や飯山温泉などの温泉地が脚光を浴びることになります。

さらには、東丹沢が観光ブームにのると観光協会や地長の観光係などの支援もあり、小田急電鉄が猪鍋列車まで仕立てて宣伝したこともあり、両地区の温泉街や市外の愛川・清川の旅館も含めて、東丹沢観光旅館組合(組合員25軒)が結成。

今でも芸者が呼べる元湯旅館

これらの旅館は料亭も兼ねて芸妓も呼ぶことができ、初めは芸妓を厚木の芸妓組合より出張という形でこれを迎えて客に供(きょう)していましたが、後に飯山温泉組合では芸妓置屋を設置して芸妓が飯山に定住するように勧められることになります。

資料でわかった厚木花街の歴史はそんなところですかね、ではでは以上の背景を学んだところで実際の厚木花街があった場所へ繰り出していることにしましょう( ´ ▽ ` )ノ

続きはこちら!花街の名残として残る大鷲神社!
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