昔を知る寿司屋の店主を取材
スナックを出て、早速斜め向かいの栄寿司さんにも聞き込みをしようということで突撃!
古賀政男と厚木花街の由縁
すると、60代くらいの店主さんがお出迎え。そしてお客さんが誰もいないということで、来店した背景を伝えてご主人さんからいろんな厚木花街の思い出を聞いてきましたよ(*’▽’)
私:「お店はいつからあるんですか?」
ご主人:「ここはね、親の代からで昭和43年からかな。昔は芸者さんとかいたね。うちの隣は三味線のお師匠さんだったし、路地の向こうには踊りのお師匠さんがいたよ。料亭で言ったらね、厚木で一番大きな新倉っていう料亭があったんだけど、1950年代だったかな~火事で焼けちゃったの。すごく大きな火事だったよ!」
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私:「いつごろまで厚木の花街に芸者さんがいたんですか?」
ご主人:「そうね~バブルの前くらいかな。厚木には二業組合と三業組合があってね、昭和30年代から40年代前半が一番賑やかで芸者さんは300人くらいいた記憶があるよ。お祭りのときなんかは芸者さんが『手古舞(てこまい)』という格好をしたりね。ちなみに、二業組合と三業組合の違いは泊まりがあるか無いかなの。」
戦後の厚木では、平塚の七夕祭りに対抗して厚木でも七夕祭りを行っていました。高度経済成長期やバブルで日本の景気は上り坂だったものの、厚木の花街はバブル前には衰退してしまったようです。。
私:「昔では、大山詣の方とかが多かったみたいですね。」
ご主人:「厚木って言ったらさ、大山詣の人達が下りてきてご苦労さん会をするでしょ。でも中には一気に藤沢まで行って藤沢の花柳界を利用する人もいたけどね。んでね、横浜から来た人は厚木を通るけどさ、小田原とか静岡からの方は秦野の花柳界で遊ぶわけだ。 昔は厚木や海老名を通る今の国道246号線って言ったら東海道の裏街道だったんだよね。」
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さらにさらに、ご主人さんが言うには厚木花街は国民栄誉賞第二号の方である作曲家の古賀政男(こが・まさお)とも関係があるというんですね。日本の歌謡界に多大なる貢献をした古賀。
彼が楽曲をした歌の中で『ゲイシャ・ワルツ』という曲があるのですが、その曲は厚木花街で作られたというのがもっぱらの噂とのこと。
ご主人:「あと嘘かホントかわかんないけどさ、古賀政男のゲイシャワルツって歌があるのね。それは、あゆみ橋のたもとにある大島家っていう料亭で作られたってのがもっぱらの噂(笑)」
今は割烹旅館 大島家があった場所はマンションになってますけどね。。そんな噂も厚木の花街にあるそうですよ!!
水面に移る花火こそが粋
厚木宿のそばを流れる相模川も、厚木花街とは大きく関係します。今でも毎年8月には『あつぎ鮎まつり』が開催され花火も打ち上がるわけですが、それは花街があった時代から続いているんですね。
昔は今よりも相模川の水量は多く、夏場なんかは各料亭が屋形船を出して船上で芸者さんが旦那衆をもてなす光景が良く見られたそうです。
ご主人:「昔は相模川沿いにも料亭がたくさんあったよ。さっきの大島屋もそうだし、水明楼は俺の同級生の家でね、大和家旅館は俺の先輩の家だよ。」
私:「お昼に相模川に行ったら屋形船みたいなのがありましたが、昔はたくさん船があったんですか?」
ご主人:「そうそう。夏場は鮎漁の時期だからたくさん屋形船が出てた。金に余裕がある人は芸者を呼んでね、船頭さんに投網(とあみ)を打たせてさ、屋形船の中で鮎の塩焼きなんかを食べるんだよ。」
私:「相模川の鮎は有名ですもんね。」
ご主人:「今も8月には花火が上がるけどさ、昔は屋形船で花火を見る人もいるわけだよ。でさ、自分も子供の時に身内のツテで船に乗ったことがあるんだよ。でも屋形船からは屋根があって船からは花火が見えないわけ。。でね、あるとき聞いたんだよ。そしたらさ、『屋形船ではね、水面に移る花火を見て線香花火のように楽しむの。それがお大臣の粋な遊びなんだよ』ってね。」
私:「なるほど~~」
ご主人:「俺の小さい頃はさ、芸者さんはお風呂入って髪をセットして、17〜18時くらいかね、宴会がある料亭に出向くわけ。夕方になると芸者さんがタクシー待ってたりとかよく見かけたよ。俺も子供のときは可愛いがってもらったりとかさ、お小遣いもらったりとかもしたよ。」
そんな光景が広がっていた厚木花街。ところが、時代が進むにつれて日本はバブルに突入。カラオケ機が誕生し、芸者よりも若いコンパニオンと戯れる方が楽しいとなるなど、人々の遊び方も変わっていくことになるのです。
ご主人:「バブルの頃になるとね、男衆も芸者さんの踊りだとかわかんないわけ。三味線なんかよりもカラオケでよくなっちゃったし、年寄りもコンパニオンとかの若い子にお酌してもらった方がいいわけ。だからあの頃に今までの文化を壊しちゃったわけだよ。」
私:「今の時代はそうですよね。どこ行っても芸者ではなくて呼ばれるのはコンパニオンですし。」
ご主人:「昔はゲン担ぎなんかもあったよね。すり鉢のことを”当り鉢”っていうし、スルメイカの事は”アタリメ”っていうでしょ。商売として”スル”って表現は嫌だから逆の”当り”って文字をつけるわけ。あとは、料亭の裏口から入っても表からは出ないようにとかね。これは”すり抜ける”、つまり”スリ”ってつく表現を使わないようにするため。今はそんな風潮ないけど、昔はゲンを担ぐってことをしていたのよね。」
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芸者が惚れたヒモの男もいた
色々花街の思い出を語ってくれるご主人。せっかくなのでお寿司も握ってもらうことに。そして、寿司を握りながらもご主人は話し続ける。
ご主人:「昔はさ、お金に余裕がある人なんかは本妻に生活費を収めていればね、本妻以外に二番目の女として芸者さんと関係を持つ人もいるわけ。でもそれはさ、本妻に迷惑をかけないほどの収入があって、二番目の芸者さんへのお金も出せる余裕のある人だけが出来る遊びなのね。」
ご主人:「 で、厚木は三業地があって泊まれる旅館もあるわけ。お金持ちのいい旦那が付いていればその芸者さんは体を売る必要ないでしょ。でも、いい旦那が付いてない芸者さんは体を売るのもいるわけだよ。それで体を売る人は枕芸者っていうわけだ。」
私:「なるほど。」
ご主人:「逆にヒモの男もいるわけだ。厚木にはさ、二つあっち系の事務所があったのよ。そういう人の中にはいい色男がいるわけだ。そういうのに芸者が恋するとさ、そういう色男を食わせてヒモになるわけだよ。でもそんな芸者もね、『年を取ると何で私はこんな男に金をつぎ込んだんだ・・』みたいになって、男とトラブルになるっていう、人と人との争いごとってのがおこるわけだ。」
私:「そういう落語とかありそうですよね。あと、商売でうまくいった人なんかは芸者に金をつぎ込んだんですかね。」
ご主人:「花柳界の支払いは半年ずつなの。しかもね、支払うときは全額払わないの。例えば支払いが100万だとするでしょ。そしたらお店は90万しか貰わないわけ。というのもね、全額もらうと縁が切れるってことなの。だから、その縁が切れないように常に支払いを残しておくっていうね。」
私:「金の切れ目が縁の切れ目って言いますもんね。なるほどな~。」
お寿司を食べながらも、ご主人の話は続く。
私:「お父さんの記憶のある頃は、料亭は何軒くらいあったんですか?」
ご主人:「料亭だけでも20軒くらいはあったんじゃない?置屋ではさ、行った時間でお線香立てるるの。その一本が二時間くらいなのよ。その時間までに女の子が返ってこないともう一本立つわけ。一本3,000円だったら二本で6,000円なわけね。その場合は置屋にお金を払うわけでしょ。でもこれは個人の契約にしちゃえば置屋を通さず安く済むわけだ。一回芸者を置屋に返して、その後にまた呼ぶわけ。そうすると置屋を通さなくていいでしょ。」
そういう小競り合いだったりね、わずか200mくらいの場所で男女のいろんな物語があったわけだよ。
最後にこんなことも教えてくれました。厚木の芸者さんは、ご主人が知ってる時代は東北の方が多かったようです。この近くの半原にも東北出身のおばあちゃんが多いのだとか。
厚木にあったソニーなどの会社でも、東北から集団就職としてやってきた人も多かったらしい。
そんなこんなで、二時間半近くご主人といろんな話をして、時刻は夜中の1:00を過ぎた頃に。当然終電はなく、この後は本厚木駅前のマンガ喫茶に宿泊をして厚木花街の取材は終わりとなりました(*’▽’)
おわりに
料亭や見番の遺構が何も残っていない現在において、二度ほど厚木花街跡を訪問して調査できたのはこのくらいです。でも、芸者さんはバブル前頃までは健在だったようなので、まだ当時の事を知っている方は他にもいるかと思います。
今回は寿司屋の御主人から色々話を聞かせていただきましたが、今後も厚木に来た時はちょこちょこ花街のことも継続的に聞き込みはしてみようかと。
ただ、厚木というと記事内でも書いたように飯山温泉も歴史ある温泉地であるので、今後はそこも時間を見つけて調査していこうかな~なんて思っていますよ!
ということで、厚木花街の調査はいったんこの辺で。また何か収穫があれば記事に内容を付け足すかもですけどね~!
参考文献
詳細・地図
住所 | 神奈川県厚木市寿町1丁目付近 |
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アクセス | 本厚木駅から徒歩10分ほど |