明治維新胎動の街にあった「弘法寺遊廓」の歴史とは!?

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)

今回は、山口県萩市にあった「弘法寺遊廓」に関する記事になります。萩市の遊郭というと、2019年現在でも遊郭の建物をそのまま使った旅館「芳和荘」があることでも知られている場所ですな!

今回の遊郭調査は、本来は芳和荘の記事を書くために宿泊しに萩市へ行ったんですが、図書館に行って多少の資料もゲッツ出来たので、芳和荘の記事とは別に萩市にあった弘法寺遊廓に関しての記事を切り出そうということになりました!

芳和荘に関しては次回の記事で詳しく触れますが、今回は弘法寺遊廓に関して焦点を当てて以下で紹介していきたいと思います(*’▽’)

本記事のポイント

・萩市にあった弘法寺遊廓は明治42年に越ケ浜から移転した
・弘法寺遊廓には検黴院や新堀券番もあった
・遊郭跡は今は住宅地になっており、名残としては芳和荘のみかと

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萩市は明治維新胎動の地

萩市にある「萩・明倫学舎」

山口県の中でも日本海側に面する萩市。幕末には吉田松陰などの明治維新で活躍した方々を数多く輩出した場所でありますね~!

萩市は大きな企業がなく観光が大きな収入源となっており、ここは明治維新関連の博物館などの観光スポットが結構たくさんあるわけですな。

『明治日本の産業革命遺産』に選ばれたスポット

そんな萩市では、2015年に『明治日本の産業革命遺産』として幕末から明治末までに日本の産業化の過程を示す23スポットが登録されたことがとても大きいんじゃなかったでしょうか!

全部で23スポットが登録されたものの、そのうち萩市だけで5スポットが登録されていますからね。この中でも松下村塾はよく知られたスポットだと思いますが、その他は知名度としては高くないかもしれないですけどね・・。

萩反射炉なんて、確かに当時のまま建物が残ってはいるものの、この反射炉は失敗作っすからね(笑)

反射炉では温度が足りず鉄を鋳造することができなかったんですわ。。この中では恵美子須ヶ鼻造船所跡以外はすべて訪問しているので、後に記事にはする予定です。

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弘法寺遊廓があった通り

そんな萩市にも遊郭がありました。山口県には結構いろんな場所に遊郭があったようですが、県内の中でも一番遊廓が多かったのは断トツで下関ですけどね(笑)

そしてここには、弘法寺というお寺があり当時はそのお寺の敷地内だったということもあり弘法寺遊廓と呼ばれていたそうです。

住宅地となった遊郭跡

そんな遊郭跡は、現在は芳和荘があるのみでその他の痕跡は皆無であり、もうここは普通の住宅地ですね。この辺は赤線廃止後は歓楽街になったわけでもなかったようなので、ここに長く暮らしている方がいたとしても、歓楽街だった背景を目にしているという方もまずおらんでしょうな~。。

そんなわけで、今回は時間の問題もありそこまで現地調査はせずに図書館などでゲッツした資料を元に、萩にあった弘法寺遊廓に関してほじくってみることにしました!

ではでは、次ここからは弘法寺遊廓の歴史に迫ってみることにしますね~~!

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弘法寺遊廓の歴史に迫った!

萩市の遊郭は、明治には越ケ浜という場所に港があり、日本海を往来する船の風待港として繁昌しました。そのために、この場所に貸席(遊郭)が設けられました。従業婦の中には船に出稼ぎする者もいたため、娼妓の事を「ソーカ(惣嫁)」と呼んだとか。

明治九年四月には、内務省は府県に通達して娼妓営業を許可する場所には検黴の方法を設けることを督励(とくれい)したため、全国的に娼妓検診が始められることになります。

昭和元年刊行『山口県統計書』より

山口県では1882(明治15)年7月に県下各所に梅毒検査所を設けて娼妓の検診を実施しましたが、萩市では越ケ浜に越ケ浜検黴所が設置されたんですね。上の資料は、山口県立図書館にあった山口県統計書であり、1926(昭和元)年の娼妓病院の表には「弘法寺病院」の記載がありますね!

その後の弘法寺遊廓でも病院が設置されていたんですね。病床数が八台ってことで結構小さな病院だったんでしょうか。。

『萩案内』に記載された地図

1927(昭和2)年に刊行された『萩案内』に載っていた地図を見てみると、東浜松町に「遊廓」の文字がありますよね。

昭和5年発行の『全国遊廓案内』にも弘法寺遊廓が紹介されており、萩町には当時十軒の店があり、娼妓は遊郭全体で約40人で山口県や福岡県出身の者が多かったとか。

貼り店の方式は昭和初期には当局の指導によりほとんど無くなり、娼妓の選択は「写真店」と呼び写真で選ぶ方針だったとか。遊興は時間制で、費用は一時間遊びが1円30銭、全昼は3円50銭、全夜一泊は5円でした。

検番は川側にあり、検番には遣手婆(やりてばばあ)がいて客席に出る芸者の取次などを扱いました。遊郭北西部の新堀川にかかる橋の西側には検黴院(けんばいいん)があり、月・金の午前中には娼妓たちが検索のために列を作ったという。

昭和初期の弘法寺遊廓

萩市の図書館にある『新・史都萩(第70号)』には、昭和初期の頃の弘法寺遊廓の地図が掲載されていました。地元の古老による記憶をもとに作成したようですが、萩の遊廓に関してこの手の地図は私のレベルでは全然見つけることが出来なかったので非常に貴重なもの。

遊廓の屋号にしても、現在の芳和荘だった「長州楼」は多くの方がご存知かもしれませんが、その他には新開楼、亀福楼、大吉楼などの妓楼があったようです。

川沿いには新堀券番があったようだ

この弘法寺遊廓があった新堀川付近には、芸者の券(検)番があり新堀券番(検番)と呼ばれていました。大正8年2月27日の『長州新聞』によると、甲種芸妓32名で線香売上高は29,585本、2958円50銭だったという。

ここでいう「甲種(=芸妓で歌舞音曲が許可される)」「乙種(=酌婦:歌舞音曲が許可されない)」とは本来芸者であり娼妓ではない者たちでしたが、陰では春を売っていたようです。

大正8年4月23日

その他のルールとしては娼妓は一定の地域外へ外出することには規則があり、警察へ届け出る必要がありました。その規則を破った場合には罰金や重禁固に処すことが定められていたとか。身持ちが悪くどこにも行き場所のない娘を遊郭が雇いあげる話があったり、優良娼妓の表彰式も行われていたんですって。

図書館で長州新聞をあさっていたときには、実際に警察の許可なく外出した娼妓が三日間拘留されたなんて記事もありましたよ( ;∀;)

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娼妓達が参拝していた神社もある

遊廓跡の近くには住吉神社という神社があり、この境内にある恵美須神社と粟島神社は婦人病に効くと言われていたことから娼妓たちが参拝していたようです。

遊廓には神社がつきものであり、東京の吉原遊郭にも鷲神社(おおとりじんじゃ)があって11月の酉の市には毎年盛大に熊手が売られたりしますよね!

アンパンマンがやたらと目立つ

遊郭跡の近くにある神社には女郎さんが手を合わせに行ったりと由縁があることが多く、玉垣や手水舎(てみずや)には遊郭や料亭の屋号、または××芸妓組合みたいな文字が刻まれたりするケースが結構あるんですが、この神社にはその辺の痕跡は見られませんでしたな~。

幼稚園が併設されていて、鳥居よりも本殿よりもこのアンパンマンが一番目立っていましたけどね(笑)

弘法寺は遊郭跡の近くにある

ちなみに、弘法寺遊廓の由来にもなっている弘法寺は今も存在しています。遊郭があった場所からは徒歩7分ほどの場所にあり、境内は結構広々としていて私が訪問した時には誰もいなくて、とても閑静な場所となっていました。

今ではひっそりとしたお寺ではあるものの、遊廓があった当時はこの辺が今以上に弘法寺の敷地だったんですよね。想像つきませんが。。

長州新聞で行われた娼妓総選挙!

図書館で新聞を漁っていたらこんな内容の記事を見つけたので、ちょっと記事にも載せてみたいと思います!

長州新聞主催の「萩町両妓人気投票」

大正8年3月2日~4月10日には、株式会社長州新聞社主催で「萩町両妓人気投票」が開催されました。両妓とは弘法寺遊廓と新堀券番の事を指すと思われます。

今の時代ではAKBの総選挙が人気を博したこともありいろんなことに対して総選挙が行われていますが、今から100年近く前にも遊郭では人気投票が行われていたわけです!

当初は4月30日までの予定だったようですが、警察から何らかの注意があったことをうかがわせる記事があり、また日本海軍第二艦隊の萩沖停泊歓迎行事と重なったため、混乱をけるため10日までになったのではないかと、『新・史都萩(第70号)』には記載がありました。

人気投票の賞品も載っていた

こちらの記事では、人気投票結果の賞品まで載っていました。ここの賞品がなかなか面白くて、一等は「丸帯(特別品)」ですよ。いかにも、時代を表しているし、彼女たちの必需品でしょうからこれはこれで嬉しかったのかな。

その他には、六等がマフラー、八等が座布団、十等が洋傘。

ちなみに、この辺の記事には共遊楼、一二三楼、大吉楼、長門屋など遊廓の屋号が載っていますが、萩の遊郭跡にある元遊廓旅館の「長州楼」の屋号はないですね。。この記事は大正8年4月11日の記事ですが、まだこの頃は長州楼は無かったんでしょうかね。。

大正8年3月30日の長州新聞

そんな総選挙ですが、さらに長州新聞を漁っていたらこんな記事も発見しました。こちらは1919(大正8)年3月30日の長州新聞の記事。ここには、「本社主催 両妓人気投票当選者 一ツ家 綾子」と書いてありますが、写真だけあってこの内容に関する内容がこの紙面に書かれていないので何だか謎ですww

写真が白黒ですし、ぼやけているのでちょっと顔が分かりにくいですがさぞかし美人だったか男を操るのがうまかったんでしょうな(*’▽’)

遊廓の客や関係者は舟を利用して新堀川をたどってくることも多かったとのこと。その後、1958(昭和33)年にの売春防止法の完全施行により赤線が廃止。遊郭だった建物は飲み屋やダンスホール、旅館に姿を変え、萩の遊廓はその歴史に幕を閉じました。

元遊廓旅館『芳和荘』

元遊廓旅館「芳和荘」

萩の街に行って博物館などを取材し、萩市立図書館で資料を漁るなどした後に訪問した芳和荘。築100年もの建物を現在の御主人が今でも旅館として続けているのは本当に凄いこと!

詳しくは芳和荘の記事で書きますが、こういう旅館って維持するのは本当に大変とのこと。ご主人に取材をさせていただいて、元遊廓旅館経営の話を聞いて本当に頭が下がりましたm(__)m

中庭の景色は風情あるな~

旅館の中には広い庭があり、廊下が庭を囲っているこの景色は本当に風情というか時代を感じますわ。まぁ芳和荘に関してはネットに多くの写真や記事も出ているのでこの景色は見慣れている方は多いかもしれないですけどね!

ただ、今の時代にこんな光景を生で見れたのは本当にいい経験だと思いました。

この芳和荘に関しては、次に投稿する記事に取材内容を詳しく書こうと思っているのでそちらを参照してみてくださいm(__)m

おわりに

今回は現地の方への取材は出来ずに、現地を歩いたことと山口県立図書館や萩市立図書館で探した資料を元に記事を書きました。

ということで、次は芳和荘に宿泊してご主人から色々と話を聞いたのでその辺をまとめて記事にするのでちょっとだけお待ちいただければと思います!

ではでは~~!

参考文献

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詳細・地図

住所 山口県萩市大字大字東浜崎町2区
アクセス JR東萩駅から徒歩5分ほど
リンク https://travel.rakuten.co.jp/HOTEL/41666/41666.html

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