こんにちわ!!
今回は神奈川県の南端に位置する三崎港にあった遊廓のお話です。
今まで知の冒険では神奈川県の遊廓跡はほっとんど訪問済みで記事にもしてきました。んで、今回のターゲットは三崎港にあった北条遊廓なのですが、既にここも訪問して背景は記事にまとめているんですよね。
でもです、北条遊廓には色街の頃の建物が今でも残っているんですよね。そんで、そのご主人に取材をすることができて建物の内部も見学させていただけたということでその辺を以下でまとめたという記事になりまっす!!
神奈川最南端の地「三崎」へ!
ということで、今回は三崎港にあった北条遊廓がターゲットなんですが、神奈川県民ならともかく、他県の方々だったら「三崎港?どこやねーーーん?」とブチ切れられるかもしれないので、まずは場所から確認しときますか。
三崎港は、神奈川県の南東部にある三浦半島の先端に位置しています。上の地図で示した場所ね!!
行き止まりということもあるし、京浜急行も手前の三崎口駅までしか行かないため、バスか車でないと到達できないちょっとアクセスが不便な場所となっております。。
その三崎港を拡大してみます。
漁港があったり朝市が行われる賑やかな場所が左側にある一方、北条遊廓があったのは右上の場所でした。
遊廓というと、人が集まる場所から離れた場所に一画を作って、そこに妓楼がぶち込まれるというのがよくあるパターン。北条遊廓も、以前はもっと漁港寄りの場所にあったものの、騒音問題や火事がきっかけで、最終的に北条湾の奥地に田んぼを埋め立てて、そこに押し込まれた?って感じ。
そんな北条遊廓があった場所は、現在閑静な住宅街となっております。
こんな場所が歓楽街だったとは想像もつかないですが、六十年以上も経過すると街は様変わりするんですね。
んで、この北条遊廓跡地に訪問するのは今回で三回目。この遊廓に関しては以前に訪問して背景を調べていたので、大枠は理解している状態ではあるんですよね!!
以前の北条遊廓の背景に関しては、以下をご覧になってみて下さい<m(__)m>
↓詳しい北条遊廓の背景はこちら
んで、今回再び訪問したのはこちらの建物を調査するためだったんですね!
この建物、周辺の建物に比べてかなり歴史を感じるということもあり、最初訪問した時もすんごく気になっていたんですが、本当にいろんな偶然があり、今回はご主人さんに話を伺うことができたというわけです。
赤線が廃止されてから60年以上が経ったということで、昔のこの辺の事情を知る方もほとんどいないのが現状でしたが、生まれてからこの地に住んでいるご主人さんから話を聞けたのは本当に貴重な体験でした!!
ということで、館内を紹介する前に、ご主人さんから聞いた北条遊廓の歴史をさらっと紹介していきたいと思います<m(__)m>
マグロ漁師で賑わった北条遊廓とは?
神奈川県には、東海道沿いの川崎、神奈川(反町)、保土ヶ谷、藤沢、小田原などに遊廓があり、その他には港町であった横須賀、浦賀、そして今回の三崎にもあったわけです。
江戸時代のようなまだ船運が移動の主要な手段だったときには、江戸へ行くための風待ち港だったこと、さらにはマグロ漁によって漁師がたくさんいたことが、北条遊廓誕生に大きく関係していたと思われます!
まっ、その辺の詳しい背景などは先ほど掲載した以前の記事にまとめているので、こちらをご覧になってみて下さい<m(__)m>
そんな北条遊廓には、時期により数のばらつきはあるものの五軒の遊廓がありました。「どんちゃん騒ぎして騒音の苦情での移転→火事による移転→北条湾の奥地へ」というように二度の移転を繰り返して、明治34年に北条湾の奥地を埋め立てたことで誕生した北条遊廓は、上のような配置図だったようです。
そんでここに遊びにきていたお客さんに関しては、『三浦半島の文化 第二十二号』という資料に金田楼ではなくて近江楼の遊客人名簿が載っていたので、簡単に以下でまとめてみました。
1930(昭和5)年7月の遊客人名簿からみた職業など
漁師:339人 平均年齢24.2歳
農業:3人 平均年齢45.3歳
商人:20人 平均年齢31.8歳
サラリーマン:4人 平均年齢35.0歳
船員:13人 平均年齢29.7歳
その他、不明:7人 平均年齢30.0歳
『三浦半島の文化 第二十二号』より
港だったということで想像がつきますが、改めてこのデータを見ても、ほとんどの客は漁師だったようですね。
売春防止法後は温泉旅館に!
北条遊廓は戦後赤線地帯となったものの、売春防止法によって1958年に売春の歴史に終止符が打たれることになりました。
全国の赤線・青線地帯では、売春防止法が施行された後は旅館や病院やアパートに転業したり、あとはそのまま潜りで売春を続けていたりなど様々なケースがあったわけです。
んで、北条遊廓ではどうだったかと言うと、四軒が旅館に転業し、一軒がアパートになったようです。
ちょっと簡単に以下にまとめますね!
南側の敷地にある井戸から温泉が出たことで、「三崎温泉」という温泉旅館に転業。その後は廃業して建物を取り壊した。
・金田楼
近江楼で出た温泉を引いて、建物の一部を改築して「北條館」という温泉旅館に転業。北條館はそう長くは続かなかったようで、廃業後、建物は現在も残る。
・三国楼
「隆勝館」という旅館に転業したものの、廃業して建物は残っていない。
・東海楼
旅館に転業はしたらしいが、結構すぐに廃業して建物も取り壊されたらしい。
・八千代楼
八千代楼だけはアパートに転業した模様。ただ、現在は新しいアパートと駐車場になっている。
という感じで、北条遊廓では四軒が旅館とはなったものの、どの旅館も長くは続かなかったそうです。。ん~ここは三崎港から少し外れた場所にありますし、なかなか存続は厳しかったんでしょうね。。
今でこそ、東北や西日本にはまだかろうじて元遊廓の旅館が存続しておりますが、これらの旅館もいろいろな廃業危機を乗り越えて奇跡的に残っている状態です。
私が取材しに行った元遊廓旅館は、売春防止法によって売春に終止符が打たれた1958年のあとは高度経済成長期となり、学校や道路など多くの工事需要があったことで工事関係者の方が泊ってくれたため細々と営業を続けることが出来たってみんな言ってましたし。
そして今回の主人公である金田楼は、温泉旅館『北條館』として営業を続けたんですが、ここで、、
んっ、、??温泉??♨
こんな場所に温泉が湧いたんか??
と思ったわけですよ。。でもね、ご主人さんに聞くと一応出たんですって!!
場所でいうとこんな感じ!
金田楼の向かいにあった近江楼の敷地の隅っこに井戸があり、そこから温泉が湧出。そして、そこから金田楼へ管で引っ張っていた(上の写真の赤線のルートで管を引いていた)んだとか。
この場所は、遊廓を作るために北条湾を埋め立てた場所なんですけどね。なので、「湧くとしても海水しか湧かないんちゃうの??」とは思ったんですが、ちゃんと専門家に成分を計測してもらい、「『温泉旅館』として名乗っていいっすよ~~!」と許可が下りたんですって。
ただの「旅館」とするより、「温泉旅館」と名乗った方が客が来るっしょ!!
その管の一部が、こんな感じで地面からひょっこりと顔をのぞかせておりましたけどね。。(;・∀・)
という感じでいろんな話を聞いているさなか、思い切ってこの質問を切り出したわけです。
「この北條館の中、見せていただくことはできますでしょうか?」
今まで、神奈川県の遊廓・赤線や花街跡など、かなりの場所を取材してはいたものの、県内には当時の建物が残っている場所はほぼないのが現状。そのため、ここまできたし、こうなったら思い切って問うてみようと思って聞いてみたら、、、
「中見たいですか、いいですよ、じゃあ行きましょうか!」
しゃーーーーーーー!!
マジで、ご主人さん神過ぎる。
ということで、北條館の入り口へと向かうべく表口へと回ることに!
はい、こちらが北條館の入り口。遊廓・赤線だった時代は入り口は逆でしたが、新たにこちら側に道路ができたということで、温泉旅館になるとこちらが入り口になったようです。
こちら側は赤線後に温泉旅館にするために大改修した部分とのこと。
道路わきの入り口から館内までは庭をかき分けて進んでいくんですが、すさまじく雑草が伸びまくっていたので、
では、ここからは館内で撮影した写真をバンバン載せていきますね!
この北条遊廓にあった金田楼内部の写真は、おそらくネット初掲載でしょうから!!
うお~~~扉を開けた瞬間、一気に昭和の時代に逆戻りしたかのような素晴らしい雰囲気。
おばあちゃん家みたいな匂いがしましたww
玄関の脇にはこんな看板も!
旅館として営業していた当時は、表に掲げられていたんだろうな。。
こちらは入り口の門に掲げられていたもの。親戚の方の手作りだったんですって!
この北條館は漁師の方が藝者を呼んで大広間で宴会をしたり(ここから徒歩5分ちょいの場所に三崎見番があった)、あとはロケの撮影の方々が宿泊したってこともあったそうです。そんなこともあり、有名人としては俳優の中井貴一さんのお父さんである佐田啓二(さだ・けいじ)さんも宿泊しに来たことがあるとのこと。
と言われても、佐田さん、世代が違うこともあって私は知りませんでしたけどね。。
今では廃墟と化しているこちらの北條館。実はこの建物、今でもこうして残されてはいるものの、ご主人さんは出来れば早く取り壊したいんだそうです。
とはいうものの、壊すにもお金がかかるためこうして残り続けているとのこと。普段であってもご主人さんはこっちの建物に来ることもなく、こうして部屋に来たのは相当久々とのこと。。
この木なんかは、丸々一本の太いものが使われていますね!
運ぶの大変だっただろうな。。
この部屋の天井は、たくさんの杉の板がつかわれていますが、この建物の中でもかなり高価なものなんだそうです。
では、ここで一旦ページを区切りますか!
いよいよ、次のページでは北條館の二階と、遊廓の時代から残る建物の内部を紹介しますね!