赤紙が貼られた過去も・・元遊廓「新むつ旅館」が乗り越えてきた120年の歴史を深堀りした!

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今回は、青森県八戸市にある元遊廓旅館「新むつ旅館」に関する記事の続編です。

前回は、新むつ旅館のチェックインからチェックアウトまでの流れや館内を一通り紹介したわけですが、今回の記事では新むつ旅館の歴史を深堀していこうと思います。

↓前回の記事はこちら

明治時代に誕生し、築125年であるこの新むつ旅館にはどのような歴史があって今に至るのか?

私が午前中に八戸市立図書館でコピーしてきた資料などをもとにお母さんから昔のこともたくさん聞いてきたので、その辺のことを以下にまとめてみました~(*’▽’)

本記事のポイント

・1899年7月3日に貸座敷(遊廓)の許可を得て開業した
・借金があっため、芸者さんが出稼ぎして金を補填していた
・旦那さんは、新むつ旅館を取り壊したかったらしい・・

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新むつ旅館の歴史をたくさん聞いてきた

ということで、今回の記事は新むつ旅館の125年にわたる歴史に関してお母さんに取材した様子をまとめていきたいと思います( ´ ▽ ` )ノ

八戸市立図書館でコピーしてきた資料たち

2019年11月02日(土)に宿泊した私ですが、この日は他のお客さんと一緒に夕飯後や翌朝の朝食後を合わせて六時間以上も色々お話を聞くことが出来ました!!

その歴史を聞いているうちに、今こうして新むつ旅館に宿泊できていることがいかに凄いことか、いろんな偶然の歴史などがあって今に至るのかというのが少しずつ見えてきた気がしますぜ!

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新陸奥楼は明治32年に爆誕!

まずは「新むつ旅館の前身である遊郭の新陸奥楼はいつ誕生したのか?」という話から。新むつ旅館がある小中野新地には、1895(明治28)年に遊郭が開設されたそうです。全盛期には東北屈指の遊廓として知られることになり、最盛期には33軒の遊郭に約120人の芸者さんなどがいたようです。

1913年の八戸市の地図

今の新むつ旅館がある場所は湿地帯だったとのこと。上の地図は八戸市立図書館にあった1913(大正2)年の地図であり、この頃には遊郭があった場所に「新地」と書かれた通りがあるのが分かりますね!

この新地通りの南側の場所に新陸奥楼が誕生したわけですが、時期としては1899(明治32)年7月3日に八戸警察署から貸座敷(遊郭)の許可を得て開業したようです。ちなみに、新陸奥楼の建物が建設されたのは、その前年の1898(明治31)年7月とのこと。

新むつ旅館にあった昔の写真

小中野新地の付近には新堀川という川が流れており、船着き場だったことや明治中期には鉄道も敷かれたことで、物資とそれに関わる人々で大いににぎわったそうな。

この八戸には、多い時では33軒と青森県内で一番遊廓の件数が多い時期もあったようで、市内の近辺には、主に二箇所に分かれて存在していたという。

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1939年の八戸市の地図

地図で示すとこんな感じ。こちらは1939(昭和14)年の地図であり、遊郭の屋号も書かれていて、新陸奥楼も書かれているのが分かりますね。上の地図の赤枠で囲った小中野新地には、新陸奥楼以外にも花泉楼、曙楼、開扇楼、輪島楼などの屋号が解読出来ましたが、その他は達筆すぎて何て書いてるかわからんかった。。

そんで、八戸には新陸奥楼があった通りだけでなく、すぐ近くの浦町という場所にも遊郭があったとのこと。上の地図の青枠で囲った場所に当たるわけですが、ここには旭楼、観月楼、花月楼などの屋号が確認できますね!

浦町という名前、「ウラ」と聞くと遊郭がある場所ということで”裏”と思いがちかもしれないですが、”浦”なんですよね。三浦さんという人物からこの名が付いたようですが、詳しい背景はそこまで調べておりません。。

通りがめちゃくちゃ広い

新むつ旅館の表にある通りは大変広く、昔は通りの真ん中に桜の木が植えられガス灯が灯っていたそうです。あとは井戸もあったとか。

昭和料理店組合の広告

あとこれはこの小中野新地にあった妓楼は昭和料理店組合という組合をつくっていたそうです。ただこれ、浦町にあった旭楼や観月楼なども含まれていますね。

新むつ旅館のお母さんにこれを見せると、「そういえば、うちも昔は『昭和料理店組合』って看板を掲げてたよ」とは聞いたんですがね。この料理店組合に関しては、いつこんなのが作られたのかとかその辺の背景は不明なので、次に新むつ旅館を訪問した時の宿題ですかね。

私が宿泊した14畳の部屋

お母さんの記憶では、1907(明治40)年には、新陸奥楼には3人の女郎さん、2人の芸者さんがいたそうです。芸者さんは下で家族と暮らし、女郎さんは二階で部屋をもっていたそうです。私が宿泊した14畳の部屋は元々二つの部屋だったのを一つにしたという。

八戸の遊郭では、芸者さんと女郎さんが同じ建物にいたという珍しいスタイルだったとか。

借金によって赤紙が貼られた過去

ただこの新陸奥楼、女性のやり手経営者が建てた遊郭でしたが、大正のあるときに、かなり経営が厳しいときがあったのだとか。というのも、お母さんによるとこの新陸奥楼は税金が払えなくなった年があるというのです。

お母さん:「どっかの雑誌か何かで見たんだけどね、うちが税金を払えない時があったの。でも、うちのおばあちゃんからもここが倒産したって話は聞いてないのね。ただ昔にさ、おばあちゃんから『赤紙を張られたことがある』って聞いたの。箪笥とかに赤紙を張られていたらしいのね。」

赤紙が貼られるって、つまりは差し押さえってことですね。

何でこうなったのかというと、実は初代の経営者である川村さわゑさんの甥っ子が結構な額の借金をしてしまったからだという。そして新陸奥楼の二代目の方がその保証人となった関係で、二代目の方がここを継いでいた時にお金が無くなってしまったんだとか。

新陸奥楼にいた芸者さん

そんなわけで、その借金を返済すべく、主人(今のお母さんの旦那さん)のお母さんなど新陸奥楼にいた芸者さんが盛岡や花巻に出稼ぎに行っていたそうです。しかもその働く期間である3年や5年くらいの給料は全て新陸奥楼のお金を工面するため前借りに。。そのため、出稼ぎに出た芸者さん達はただ働き状態で働いていたわけです。食べ物とかは出してくれるけども、服などの日用品はお客さんからご祝儀で頂いてしのいでいたという。

新陸奥楼、そして今も現存する新むつ旅館はそんな芸者さんたちの貢献があって今も歴史を刻み続けているんですね。

お母さんはここに来てから新陸奥楼の歴史に興味を持つようになったそうですが、特に税金が払えなかった頃の歴史が知りたいのだという。

図書館に行くにも、どうやってその辺の背景を説明していいかもわからないということで、行くのを躊躇しているのだとか。今度行った時に、一緒に図書館連れて行ってあげようかな(*´▽`*)

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海軍の慰安として戦時中も生き残った

遊廓の時代が続く中、日本は1941年12月8日に太平洋戦争を開戦することになります。そして戦時中、八戸には海軍の方々が駐留していたそうです。

1965年の地図

すると、新陸奥楼の通りの反対側のにあった遊廓の建物は海軍の方が来て所々壊してしまったらしく、新むつ旅館側の建物だけが五軒ほど残されたという。何でかというと、八戸にやってきた海軍の方々のために数軒ほどの遊郭が必要だったというのです。

そのため、アメリカに爆弾でも落とされて燃え広がり遊郭が全焼することを防ぐために、向かいの建物を壊したのだとか。

食堂にある塀が写っている写真

そんな戦時中の最中、小中野新地に残る遊廓には上の写真に写っているような塀で周囲を覆っていたりもしたそうです。

上の写真の塀は二代目のもののようで、戦時中、表向きは「こんな戦争が行われている最中に遊廓を営業するのはけしからん!」ということで、格子(顔見世)の窓を隠すために表を塀で覆うように指導があったんだそうです。でもそれは表向きで、本当は先ほどのように海軍の方々のために残したわけですよね、遊郭を!

でもこの塀、今となってはあっても部屋の中が暗くなるだけだからということで、今は全部取っ払っています。。

温泉掘削に大失敗・・

そんなこんなで五件ほど、新陸奥楼の近くの五軒の遊郭は戦争が終わっても生き残ることになりました。

そして戦後には赤線となったこの新地も、売春防止法の施行によって明治から続く売春の歴史に終止符が打たれることになりました。そこで、遊郭(厳密にいうと赤線時代は特殊飲食店)だった建物は主に旅館に転業したわけです。。中には料亭になったりも!

温泉は出なかったらしい・・

しかし、旅館組合は「旅館にするには温泉が必要っしょ!!」という考えを示し、組合の皆で銀行からお金を借りて温泉掘削をしたそうです。

が、、、結果は大失敗。。( ;∀;)

いくら掘っても真茶色で全然温泉になるお湯がでることもなく残念な結末に。。新むつ旅館周辺の旅館は、そんな背景があり赤線廃止後は借金を背負っての出発だったそうです。

これは大げさだが・・

本当はこんな感じでね、名湯の温泉地にでもなったらお客さんもバンバン入って商売繁盛となったかもしれないですが、こんな話は幻となってしまったわけですわ。。( ;∀;)

ま、これは例としては大袈裟すぎるかww

ちなみに、上の写真は草津温泉の湯畑!

工事関係者が結構宿泊していた

その後、新むつ旅館だけでなくこの周辺の旅館は、夢の大橋などの工事関係者の方が宿泊し、満員の日も多かったとのこと。やはり1960年代からの高度経済成長期に突入したことで、日本全国で数々のインフラを作りまくってきたからなんですかね。

その他にも、新むつ旅館では十和田観光の運転手さんやバスガイドさんが宿泊する契約を結んでいたため、その方々も宿泊していたそうです。

他の元遊廓旅館である佐賀県の白さぎ荘や別府のすずめ旅館などなど、現存する元遊廓旅館が今も生き残り続けているのは、こういった工事関係者が宿泊してくれたことが大きかった気がしますわ!

続きはこちら!新むつ旅館は取り壊すはずだった!?
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