今回の記事は、山梨県を代表する温泉街であり、かつては歓楽街としても栄えた石和温泉に関する記事の続編です。というのも、今まで知の冒険では石和温泉に関する記事を二つ書いているんですが、また久しぶりに顔を出した時に、ひと記事分くらいかける収穫があったので記事にしてみようという背景がありまして。
で、今回取り上げるお母さんは以前の記事「【後編】昭和の懐かしさが残るレトロ歓楽街「石和温泉」の現状を突撃調査した!」でも紹介した方。石和温泉を50年以上見てきており、今回はその思い出話などをいくつか話してくれたのでその辺を中心に書いていこうと思います。
昭和レトロな歓楽街
1961年にブドウ畑から温泉が湧きだしたことで観光地となり、さらには多くの飲み屋や芸妓置屋も誕生して歓楽街になった石和温泉。トルコ風呂やストリップ劇場も誕生して多くの男性を虜にしたこの街は、お隣の教育県として風俗の取り締まりが厳しい長野県からも遊び目当てで男が押し寄せた街。
そんな石和温泉、今でも一軒のソー〇ランドがあるだけでなく、スナックなども多数軒を連ねています。温泉旅館では今でもコンパニオンを呼ぶことができ、歓楽街の要素を今でも多く秘めている町。
そんな石和温泉の歓楽街では、今までの取材で飲み屋で働くおっちゃんと風俗の客引きをしているお母さんと出会い記事を書いてきたんですね!!
↓↓以前に書いた記事は以下になりますので、よければこちらも見てみてくださいねm(__)m
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50年以上歓楽街を見てきたお母さん
そして、今回の記事の主人公はまたもやこちらのお母さん(写真左)。湯けむり通りという飲み屋が連なる通りの交差点に居座り、街ゆく男性に声をかけて客引きをしているんですね。
ちなみに、右側にいるのはコスタリカ人の女性。すぐ近くにある外国人パブ「マニラ」で働いている女性で、いつもお母さんと一緒に交差点に居座ってこちらも客引きをしているのです!
この二人、もう完全に私の顔を覚えてくれていて「あ~また歴史勉強してるお兄ちゃんじゃない~」と言って迎えてくれました(*’▽’)
今回は記事を書こうと思って訪問したわけではなくちょっと顔を出したかっただけなのですが、色々話してると自身の昔話などを語ってくれたので記事にすることにしましたよん!
まずは、お母さんが芸者だったころの話から。
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石和や伊東で芸者をしていた
お母さんはまだ戦時中である1944(昭和19)年に千葉県で生まれたそうです。(お母さん)の父親は国鉄の職員で、(お母さん)の母親は石和で芸者をしていたそうです。父親は、国鉄の職員といっても仕事としては1961(昭和36)年に突如ブドウ畑から温泉が噴出したことで観光地と化した石和に、観光列車や旅館などを手配する観光の仕事に関わっていたそうです。
その後、お母さんは自身の母親と同様にも石和で芸者を始めました。芸者といっても、客と寝る枕芸者ではなく、主に踊りを踊っていた芸者さんだったとのこと。
最初は石和温泉にいたものの、その後は静岡県の伊東温泉や長野県の上諏訪など様々な場所で芸者をしていたそうです。最後はまた石和温泉に戻ってきて、1980年末期まで芸者をしていたとのこと。
お母さんが20代だったころ(計算上は1965年ころ)は、石和温泉に芸者は300人くらいいたという(ただし、数はうる覚えの記憶なので怪しいですが・・)。そのうちの100人は踊りを踊ったり三味線を弾いたりする芸者で、残りはお客と寝る枕芸者。
2019年5月現在でも置屋さんは存在するものの、果たして芸者さんは何人くらいいるのだろうか。。
話をしていると、お母さんが「ちゃっと待って。ここにね、昔の写真があるの。」と言って袋の中から何かを取り出してきました。
この写真はお母さんが静岡県の伊東温泉で芸者をしていた時の写真。「確か40代の頃だったかな~」とのこと。
この写真は上諏訪にいたときらしい。そうそう、長野県にある諏訪湖の南側にも今でも諏訪大手見番協同組合がありますが、昔はたくさん芸者さんがいたんですよね!
その他にも、お母さんが生まれた時の写真や亡くなった旦那さんの写真なども見せてくれました。芸者時代の写真に関しては記事に載せてもいいと許可をいただいたので掲載しましたよん。
芸者を終えて客引きへ
20年近く様々な場所で芸者をしてきたお母さん。年齢の問題もあり、芸者を終えた後の1980年代後半からは石和温泉の歓楽街を歩きながら客引きをしていました。
その頃は、女性を管理していたいわゆる置屋業者は10軒ほどあったものの、お母さんのように客引きをしていたのは決まって三人だったという。
街行く男性やストリップ劇場から出てきたお客にも声をかけたりしながら客を引き、その紹介料を収入とするもの。
そんなお母さんは、何回か雑誌の取材も受けたことがあるようです。今でもそのページをこのように保管していて、たまにお客さんに見せたりしているそうですよ!
なんかこういう雑誌を見ると、字体やら配色やらですごくヤバそうな雰囲気を醸し出していますが、お母さんはその辺にいるやさしいおばあちゃんですし、雰囲気もとてもアットホームですけどね。
多分雑誌の中に収録されているマンガだとは思いますが、こんな感じで紹介もされていました。ちょっとマンガに描かれているお母さんの絵が似てなさすぎる気がしますが・・ww
そんな感じで客引きを始めていたものの、さらに年齢を重ねてそんなに動けなくなると、今の交差点の角にずっと立ち続けるようになったとのこと。
しかし、そんな歓楽街として賑わった石和温泉は、バブル崩壊や不景気によって客数は減少。当然、お母さんのお客もどんどん減っていくことに。。
お母さんの感覚では、平成の時代になってから石和温泉の観光客は減った印象だとおっしゃっていたのですが、データを漁るとだいたい当たっていました。
笛吹市国土施策創発調査によると、石和温泉の宿泊客数は、1988(昭和63)年のNHK大河ドラマ「武田信玄」の放映をきっかけに伸びたようで、その後はバブル経済や景気の長期低迷によって客数が減ったそうです。
上のグラフは2003年までのデータしかないのですが、多分右肩下がりで現在に至っていると思います。
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現在は人通りはまばら
今の石和温泉は、土曜日は多少の人通りはあるもののそれ以外の日は簡素。 今回取材したのは土曜日ということもあり、浴衣姿の団体客を何組か見かけたりはしたものの人通りが多いとは言えないかな~って感じでした。
お母さんと話している最中には、団体客とコンパニオンの姿も見かけました。コンパニオンは20~30代くらいの女性でさすがに外国人ではなく皆が日本人。旅館に呼ぶコンパニオンたちは、「ノーマル」と「スーパー」の2パターンがあるんですが、違いは何となく分かりますかねww
上の写真みたいに街中をお客さんと闊歩(かっぽ)しているのはノーマルコンパニオン。上の写真は、一次会が終わった後の二次会でスナックとかに向かっているんでしょうかね。
お母さんと話しているときに向かいの飲み屋から出てきたおじいちゃんは、かつて石和でスト〇ップ劇場を経営していた方らしい。結構飲んでふらふらしてた。。
そんな光景を目にしながら、お母さんに最近の石和温泉の事を聞くも本当にお客さんが少なくて厳しい状態だという。最近のGWを含む10連休でも、思ったほどお客は多くなかったとか。。
お母さんは今ではどのようにお客さんを獲得しているかというと、すぐ近くにある外国人パブ「マニラ」から出てきたまだ遊び足りない客などを引っかけたりしていることが多いという。よそから観光客として遊びに来た客よりも、常連客の方が多いとか。
ちなみにお母さん、雨の日はレインコートをかぶっていつもの交差点に立ちます。立っている時間としては外が暗くなってから日付が変わるまでの間。今後も立てる限りはこの街に立ち続けるというお母さん。
本当に優しいおばあちゃんで、これからも健康に気をつけて元気でいて欲しいと思う今回の取材でした!!
帰り際、前回取材した外国人パブの前を通ったらもう閉店していましたww
前回は10か月くらいに石和温泉を訪れたんですが閉店していたとは。。こちらの外国人パブは経営者が亡くなったというっことでお店が閉店したらしい。街は変わっていくんですね。
あと、よく思い出したらお母さんが座っている椅子がちょっと進化していたww以前はビールケースを逆さにして座っていたものの、簡易チェアに変わってました。ちょっとウケる。。
以上、石和温泉の歓楽街に関わり続けるお母さんの簡単な紹介でした。50年も石和にいたということでまだまだ話のネタはあると思うので、今後もちょくちょく取材していこうと思います!!
おわりに
最後に、お母さんが名刺をくれました。白い紙を名刺サイズに切って手書きで書かれた名刺。多分常連さんに渡す用の名刺だとは思いますが、色々話をしたということでくれたのだと思います。
ちなみに、「軽の車のおば・・」というのは以前の記事でも書いたボッタクリのことww
山梨県へ取材に行った時はまた顔を出しに行こ(*’▽’)
参考文献
詳細・地図
住所 | 山梨県笛吹市石和町川中島 |
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アクセス | JR石和温泉駅より車で5分ほど |
リンク | https://www.isawa-kankou.org/ |