ラジウム鉱泉が湧いた横浜の日本橋花街を現地調査した!

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)

ういっす!

今回は、横浜にあった日本橋花街に関する続編記事になります。

前回の記事では。横浜にあった日本橋花街に関する背景を資料を元にまとめました。大正の初めから誕生した花街は、関東大震災や横浜大空襲で度々打撃を受けるも、売春防止法が施行される頃まで大変賑やかだったって話ですね!

前回は図書館で発掘した資料の内容をまとめたって感じですが、今回は現地取材の様子をまとめる感じです。個の花街に関することを何か聞けないかと、結構時間をかけて現地取材したので、その内容を以下で放出したいと思います!

本記事のポイント

・ここではラジウム鉱泉の温泉もあった♨︎
・国道16号線沿いには、入り口にアーチが建っていた
・花街の名残はほとんどなく現在も開発は進んでいる・・

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謎多き日本橋花街

前回の記事では、今回紹介する日本橋花街は大正初期頃に誕生したこと、横浜大空襲で灰塵と化したこと、戦後は上大岡の大久保花街で営業を再開したこと、その後に再び元の場所で営業を続け昭和40か50年代ころに面影は無くなったこと、などについて紹介しましたかね!

背景をざっと学んだところで、今回は現地訪問して聞き込み調査を行った様子をお届けしようかという魂胆ですわ(*’▽’)

前回の記事を見た方はご存知かと思いますが、日本橋花街と聞いて場所を特定できる方はそうそういないと思うので再び確認です!

日本橋花街があったのは、神奈川県横浜市南区にある二葉町や新川町辺り。アクセスで言えば、横浜市営地下鉄線の吉野町駅から徒歩5分ほどですかね。この辺りは住宅地ですし、中心部から外れてることもあって、住民とかじゃないとあんまり行くことはない場所ですかね。

そんな花街跡へと向かい、現地で何か痕跡はないかと徹底調査をしに行ったわけです!

完全に住宅街に変わってた。。

ということで、はりきって現地に到着したものの、、、

花街跡は、もはやその面影は全く残ってなくて完全に住宅地と化していました。。まぁ、わかってましたけどね。ここはネットで検索しても探索している人はほとんどいなく、何でかというと面影が全く残ってないからでありまして( ;∀;)

古そうな飲み屋もあったりはするが、、

散策しているといくらか飲み屋とか飲食店も営業してはいるみたいなんですが、どれも1957年の住宅地図にはその屋号が記載されてないので比較的新しい店だと思うんですよね。。

ということで、一通り現地を散策したもののコンクリートマンションしかないので、ここからは昔を知ってそうな方に突撃する作戦を敢行することに!!

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95歳のおばあちゃんに遭遇

そう思っていた矢先、路上で立ち話している三人組のおばあちゃんを発見!

何か知ってればと、住宅地図を片手にぶっこんでみた!!

日本橋花街の事を調べているという聞き込みをした背景を話すと、おばあちゃん三人組は快く耳を傾けてくれました(*’▽’)

右:95歳のおばあちゃん
左:80代くらいのおばあちゃん

私:「ここがかつて日本橋花街と言われていて、料亭とか置屋がたくさんあったようで昔のことを聞きたく思いまして!」

老婆B:「私たちはだいぶ長いよ、私はここに住んで40年以上経つけどね。私は戦争の時に縁故疎開してた人間だから一度離れたのね。ここに戻って来たのは昭和25年だったかな。 あと私の家も置屋だったのよ。」

私:「ここにいた芸者さんに関して覚えてることとかありますか?」

老婆B:「 芸者は自分の名前を書いた手ぬぐいを持ってね、待合とか一軒一軒に挨拶に行くわけ。芸者さんね、綺麗だったよ。着物も来ててさ、見飽きるほど見たわ。本当に。こっちのお婆さんなんか95歳だよ、私よりもっと見てるよ!」

私:「えぇ~、ずいぶんお元気ですね!」

老婆A:「私は95歳だよ、大正14年生まれだから。ここで生まれてずっと暮らしてるんだから。私の家は酒屋だったの。××酒店って、その地図に載ってる? 」

おばあさんがおっしゃっていた酒屋は確かに地図に載ってました。酒屋ということもあり、花街だった頃は料亭へ酒を卸してもいたそうです。

しかし、以前に千葉県松戸市にあった平潟遊郭跡を訪問した際には、現地にずっと暮らす93歳のおばあちゃんに話を聞いたことがありますが、まさか今度は95歳のおばあちゃんに遭遇するとは!

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日本橋花街は空襲で一時焼失

95歳のおばあさんは大正14年生まれということもあり、横浜大空襲も経験。酒屋は横浜大空襲によって焼けてしまったという話も会話に飛び出しました。

とはいえ、おばあさんたちは昔のお料亭の屋号などは覚えてはいるものの、具体的な花街に関しての話はそれほど出てきませんでした。多分、思い出せば話してくれたと思うんですが、いきなり突撃して聞いたのでパッと出てこなかったのかな~と。。

ただ、「昔のことを聞きたければ、馬場自転車ってお店の主人が知ってると思うよ!」とのこと。

ということで、私は馬場自転車店へと足を運ぶことに!

老舗理容店でのお話

昭和初期頃からの斉藤理容店

と思ったのですが、その途中に昔からあるっぽい理容店を発見!!

こちらの斉藤理容店も、馬場自転車店と同様に1957年の住宅地図に屋号が載っており現在も営業しているようなので何か昔のことを聞けるかな~と思いましてね。

ってことで、早速突撃!

地図を見ながら昔のことを教えてくれた

店内に入り、「すみませ~~~~ん」と雄叫びを上げると、奥からお母さんが現れました。図書館でコピーした住宅地図などをもとに、再びこの街の昔話を聞いてみることに!

私:「ここは昔、花街だったようなんですが、いつ頃までこういった料亭があったんですか??」

お母さん:「私がここに嫁いできたのは46年前ですかね。まだその時は芸者さんもいましてね、夕方になると置屋から見番に挨拶しにいくんですよ。それで順番に料亭から呼ばれて座敷に行くんです。三味線の音も聞こえたりね。」

私:「そうなんですね。このお店では芸者さんの髪結いとかしてたんですか?」

お母さん:「うちの店は、私の祖父の代からのお店なんです。祖父が芸者さんの顔剃り、髪染めをしてましたね。うちは床屋なんだけど、女性の顔剃りは美容院ではやってはいけなくて、そういう決まりがあるんです。」

私:「そうなんですか!」

お母さん:「そう、うちで顔剃りをしてね、美容院で髪結いをやってたようです。」

その他に、ここの花街に関して知っていることを聞くとお母さんがこんな話を!

お母さん:「ここの花柳界には野球選手とか政治家の方などが使ってましたけどね、時代が進むとともにそういった遊びをする方も減っていきましたからね。そういえばその地図に日盛閣(にっせいかく)ってあります?」

日盛閣??

地図を探してみると、、、

確かに「日盛閣」と書いてある

あった。日盛閣って書いてあり、さらには、、、ラ、ラジウム鉱泉??

こんな場所にラジウム鉱泉の温泉があったんか??

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日盛閣があった場所はアパートになってた

お母さん:「そこはね、二階が宴会場で一階には芸者さんだとか一般の人が入る温泉があったんです。温泉に入ってさっぱりした後に二階で宴会するの。あとね、この近くに日枝神社っていう神社があって、そこを出発してこの辺の町内でお神輿(みこし)を担いで周るお祭りがあるんですよ。そのお祭りのお神輿を担ぎ終わると、町内で日盛閣の整理券が配られたんです。その時に私も入りに行きましたよ。」

私:「こんな住宅地の場所にラジウム鉱泉が沸いていたなんて、想像できないですね!」

お母さん「そうですね。ラジウムが出る温泉は浴槽が小さいんですけど、そういうのがありましたね。しかし、懐かしいな~。」

地図を見て昔のことを思い出してきたお母さん。さらには、見番に関する話も!

お母さん:「その日盛閣の近くに見番があったのよね。」

見番もありました

再び地図を確認してみると、あ〜確かに。日盛閣の二つ隣に横浜日本橋三業組合と書かれており、その横には”横浜日本橋芸妓学校”とも書かれてますな。

ただ、ここの花街が誕生した当時の見番の位置は新川町だったはずなので、初期の頃から位置は変わっているんじゃないか??

かつての横浜日本橋三業組合跡地

お母さん:「そこはね、今は見番はなくて家族葬をする施設になってるんです。」

というように、地図を頼りに見番があった場所に行ってはみましたが、まったく別の施設に変わっていました。。

そんな感じでいろいろ昔のことを話してくれたお母さんですが、、

お母さん:「この辺で一番古い方だったらね、馬場自転車の御主人さんかな。もう80代だと思うけど、ずっとここに暮らしてる方だからご主人に聞けばいろんなこと教えてくれると思いますよ!」

やはりここでも馬場自転車の名が出てきましたか!

ということで、私はお母さんに礼をして、すぐ近くにある馬場自転車店へと向ったのでした!

最後の砦、馬場自転車店へ!

昭和初期ころ創業の馬場自転車店

斉藤理容店からすぐの場所に、馬場自転車店はありました。

もう話を聞けそうなのはここくらいかと思い、再び早速突撃!

二代目のお父さん

すると、80代で馬場自転車二代目のご主人さんが昔のことを話してくれました( ̄▽ ̄)

この馬場自転車店は、現在のご主人さんが三代目で昭和の初期頃から続くお店なんだそうです。二代目のお父さんも、その息子さんである三代目の方も大変親切な方で、「日本橋花街の事を調べているんですが・・」と話すと、知っていることを色々話してくれました!!

私:「さっきは斉藤理容店でも話を聞いてきたんです。日盛閣という大きな旅館があって、ラジウム温泉があったという話も聞いてすごくびっくりしたんです!」

お父さん:「あ~日盛閣ってあったね。日盛閣は可祢多(かねた)って待合をやりながら営業してたんだよ。営業してるのは同じ人ね。二葉町や新川町は置屋や料亭が多かったね~。」

私:「ここは空襲で焼けて戦後に建て直したみたいですね!」

お父さん:「そう、ここは空襲で焼けたの。戦後はね、外国人専門の赤線。(地図を見ながら)あ~国際ホテルってね、赤線だよ。ここは外国人専門。」

外国人専門だった国際ホテル

前回の記事でも、日本橋芸妓組合はここが横浜大空襲で焼け野原になったため、戦後すぐは上大岡にあった大久保花街(二業地)で営業を再開していたようなんですが、そこには外国人の慰安施設もあったようでして。

なのでその後、空襲にあった二葉町や新川町を建て直して営業を再開した際も慰安施設をこの場所に設けていたんですかね。

だいぶデカい建物だし、名前もそれっぽい感じはする。一体この施設にはどんな背景があったのか。。

お父さんの話は続く。。

地図を元に色々話をしてくれた

お父さん:「そういえばね、うちの前に三味線屋があったの。三味線を売ったり修理したりするお店ね。ここは花柳界があったから三味線は結構使われてたんだよ。このお店の方には結構かわいがってもらったよ。」

流しさんが練り歩いていたそうな

お父さん:「あとね、新内流しが来たの。最初は三味線だけど、女の人がアコーディオンなんかを弾きながらってのもあったね。料亭が営業をする時間になると流しさんが周辺を練り歩いてね、料亭の二階に向かって『お二階さんいかがですか?』って声をかけるわけ。で、お客によっては窓を開けて呼び込んだりしたんだよ。市電もあったり川もあって情緒があったね。」

流しさんがいたんですか~。神奈川には横須賀に確かまだ現役の流しさんが一人いたはずで、別府温泉に行ったときも流しさんと少しお話をした覚えがありますが、ここが賑やかだった昭和の頃はたくさんいたんでしょうね。

私:「日本橋の花街で一番有名だった料亭はどれだったんですか?」

お父さん:「ここで名が知られてたのは可祢多と初栄だったね。でも一番最後まで残ってたのは鈴本じゃないかな~。」

という感じで話を進めるなか、話はこの街にあったゲートについての話題に。

お父さん:「あとね、この街にはゲートがあったんだよ。二つだったかな?」

私:「ゲート?どこにあったんですか?」

早速、住宅地図をもとにその場所を教えてもらうことに!

お父さん:「え〜っとね、国道16号線からだね。『ハマの日本橋通り』だったかな、そう書かれたゲートだよ。だいぶ昔に無くなっちゃったけどね。」

お父さんが言うには、上の地図の赤丸で示した場所にゲートがあったようです。でも、そこもその痕跡を見つけることはできませんでした。。

そのゲートがどんなのだったのか、写真に残ってないか図書館も結構漁ったんですけどね、、ゲートどころか街の様子や芸者さんが写ってる写真など一枚も見つけることはできませんでしたよ。。

そんな感じで一時間近くお父さんからこの街の歴史を聞くことができました。その他にも雑談を交えていろいろ聞いたんですが、花街に関しての新情報としてはこのくらいですかね!

日本橋花街跡を練り歩く

とりあえず聞くだけ聞きいたかな〜って感じなので、ここからは現在の日本橋花街跡である新川町や二葉町がどんな感じになっているか、跡地に残る花街の痕跡などを探っていきたいと思います( ̄▽ ̄)

とはいうものの、マジでマンションだらけで見栄えする写真はマジでないっす。。本当に料亭の建物は一つ残らず破壊されてマンションになってますし、昔の風情がある雰囲気は皆無。。

そりゃそうか、、ここは横浜市営地下鉄線の吉野町駅からすぐの場所ですし、住宅地としてはうってつけの場所。飲食店や飲み屋もわずかにありますが、不動産屋が張り切ってマンションにしたんかね。。

とはいうものの、マンションやアパートの屋号を確認してみると、かつての料亭の名残を確認することができるんですね。

料亭の屋号が残る

住宅地図を片手にマンションやアパートの屋号を確認しながら歩くという、傍(はた)から見たらめっちゃ怪しい動きをしてた私ですが、こんな感じで割と屋号が残っているもんだな〜という感じです。

こちらも料亭・旅館の屋号が残る

さらにはこちらにも二つほど。

あと、この細い通りには少しばかりか花街の名残りがありました。

元芸妓置屋だった建物

それがこちらの建物。ここは住宅地図を見ると元芸妓置屋であり、門構えは昔の名残りがあると思われます!

ここの向かいにある美容院のお母さんに話を聞くと、この置屋の方は三味線の先生でもあったそうです。

このシーンだけ、なんだか昔を思わせるような景色でしたよ!

元料亭跡に残る料理店鑑札

屋号が残る鈴本ビル

最後はこちら!

日本橋花街にあった料亭の中でも、最後の方まで残り続けた「料亭 鈴本」のマンション。さっきも説明した通り、このビルは「鈴本ビル」という名前になっていて屋号が残っているんですよね。

んで、ビルの周囲を見てみると、、

鈴本ビルに残る鑑札

料理店の鑑札がありました。

今まで神奈川県にある料理店の鑑札は結構たくさん見つけてますが、これは結構保存状態が良い!

これも、かつての花街の名残ということで、現地探索はこの辺で終了。今回紹介した方以外にも、日枝神社の方や近くの美容院の方などに話を聞いたりもしたんですが、出来ることはやり切った感じ。。

ちょっとでも、ここに暮らす方から花街の歴史を聞けて良かった。

おわりに

今も開発は続く・・

以上ですかね!

二つの記事にわたり、横浜にあった日本橋花街の背景や現状を書いてきました!

あとは図書館で横浜貿易新報のバックナンバーを漁りまくったりしたら何か出てくるかもしれないですが、昔のことを知っている方もほとんどおらず、資料もほとんどない場所だったので私レベルではこれが限界ww

私が現地を訪問している時も、また新しいマンションが建っているようで、今も開発が続くこの街。

かつてここが花街だった記憶はほぼ皆無に近いですが、この記事で少しでもその歴史を語り継ぐことができたら幸いです!

参考文献

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詳細・地図

住所 神奈川県横浜市南区二葉町周辺
アクセス 横浜市営地下鉄線の吉野町駅から徒歩5分ほど

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