横浜にあったハマの日本橋花街の歴史を紐解いた!

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)

こんちは!

今回は、神奈川県横浜市にあった花街に関する記事です。

今まで知の冒険では、神奈川県の花街跡に関してはいろんな場所を紹介したつもりではあるんですが、まぁ県内にはたっくさんの花街があったようで、調べてみ調べても逆にどんどん見つかるという底なし沼状態だったりします(笑)

んで、今回は横浜市南区にあった日本橋花街に関して。”日本橋”と聞くと、国道一号線の出発地である東京の日本橋や大阪の電気街を思い浮かべる方が多いかと思いますが、実は横浜にもそう言われていた場所があったんですな!

結構規模が大きな花街だったようで、そこにはどんな歴史が隠されているのか、現地の方に聞き込みしまくって多少なりとも情報を集めてきたので、以下で説明していきたいと思います!

本記事のポイント

・近くにあった日本橋の名から付けられたっぽい!
・市の拡大とともに、大正の初めごろに花街は誕生
・戦後は上大岡にあった大久保二業地で営業もしていた

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謎に満ちた日本橋花街とは!?

今まで、知の冒険では横浜市内にある花街に関してはいろいろ調べていてですね、結構な場所を現地調査しており、私が小さい頃に住んでいた井土ヶ谷、あとは磯子に関しては記事化もしていますかね。

その他には、上大岡、弘明寺、蒔田、本牧などなど、まぁ~いろんな場所に花街はあったわけですよ。

横浜市内にあった花街分布(一部)

地図で示すとこんな感じかな??

全部が同じ時期にあったかはおいといて、この範囲だけでもこんなに多くの花街があったわけです。とはいっても、これでもあくまで横浜市内の一部っす。これ以外にも神奈川花街(横浜駅の北側辺り)とか鶴見、戸塚の花街もありますからね~。

んで、今回の焦点となる日本橋花街があったのは上の地図に赤い点で示した場所。市の中心部からはちょいと離れた場所で、横浜市営地下鉄線の吉野町駅の南側にあったようです。

弘明寺花柳界の写真

ただこの日本橋花街、地元の方でもその存在を知っている方はほんのわずかであり、資料も写真もほとんど記録がないため、かなり謎な花街だったわけです。本当に写真も何かないかと図書館とか探しまくったんですけどね〜〜、どれだけ探しても出てこないんですわこれが。。

横浜市内の花街だと、弘明寺花柳界や磯子花街に関する写真なんかは資料にあったりするんですけどね。。

なので、私もいつからかここの存在は知っていたものの、「まぁ、そのうち調べるか。。」くらいに思っていたんですわ。。

かつての日本橋花街

とはいえ、今まで一度も訪れてないし、会社の昼休みにストリートビューでちょろっと街並みを確認してみると料亭は残ってないようですが置屋っぽい建物はあったので、「そろそろ行ってみるか!」と、重い腰を上げて訪問してみたって感じですわ!

ということで、前置きはこのくらいにして、まずはこの日本橋花街誕生の背景から探っていくことにしましょう!

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日本橋花街はいかにして誕生した?

日本橋花街誕生の背景は、横浜の藝妓が時代の流れとともにどう動いていったかが関係していると私は考えています。ただ、それを話し出すとそれだけで話が終わっちゃいそうなので、横浜の藝妓に関しては別の記事で、まとめ記事みたいなものを書こうか〜〜と考えています。

なので、ここでは簡単に書こうと思ってます~!

改めてですが、日本橋花街があったのは上の地図の場所。JR関内駅付近の歓楽街からはちょっと離れた場所にあって、今では住宅地になっている場所です。ただ、明治時代まではこの場所は建物もない畑地だったっぽいです。。

この場所に何で花街が出来たのか??

※「今昔マップ on the web」を元に作成

横浜の藝妓がいた花街は、明治時代の頃までは関内、関外、神奈川の三か所がメインでした。そこには、八百政(やおまさ)、千登世(ちとせ)、可祢田(かねた)という横浜市ではかなり有名だった料亭もあり、花柳界を牛耳っていたそうです。

しかし、1904(明治37)年7月15日に横浜の市電が開通し、大正時代にもなると横浜市の人の流れが市の中心部から外側へと拡大していき、その流れで日本橋、蒔田、井土ヶ谷、上大岡、弘明寺などの場所にポツポツと花街が誕生していくことになるのです!

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大正の頃から市勢が拡大
※「今昔マップ on the web」を元に作成

さらに、1923(大正12)年の関東大震災も、市内が灰塵と化したため人の流れが外へと向く動きが加速していったとも思われます。

今昔マップとかを見ると、その様子がなんとなくわかるかと思います。

この大正から昭和初期ごろにかけて、横浜にはいろんな場所に花街、というか見番が誕生していくことになるわけですが、ではでは、今回焦点を当てている日本橋の花街はもうちょっと厳密にいつ誕生したのか?

それは、『横浜市史稿 風俗編』の資料に記載されていて、ちょっと一部を抜粋してみます。

市内の藝妓は、前記の三場所に限られて居たが、市勢の発展向上に伴ひ、且つ地域の増大に従って、大正初年頃から各所に藝妓屋を営むものが漸次に出し、各藝妓屋組合事務所、即ち見番と称するものを設置して、料理店・待合等の二業組合と連絡を保ち、三味の音締も面白く、粋な浮世を茶に見せて各所各様の花柳繁昌記を物語って居る。

横浜市史稿 風俗編(545p)

ここに書かれているように、市の発展で周囲にも人口が移って行って、花街も大正の始め頃から周囲にできてきたという。

引用元:『横浜市史稿 風俗編』

次の項目には大正の始め頃にあった藝妓屋組合事務所、いわゆる見番の一覧が書かれているんですが、その中に”日本橋”の文字もありますね。

ということで、日本橋花街は大正の始めころには存在していたようです。

そして、そこからこの日本橋花街では芸妓置屋や芸者の数がどのように推移していったのかを見ればよりわかりやすいと思い、ちょっとその数を追ってみることに!

引用元:『神奈川県統計書 大正五年』

そこで役立つのが神奈川県統計書。

遊廓の数もそうですが、この辺の軒数や人数などは県の統計書に記録されているので、これを見れば花街に関する数の推移がわかるんですね〜〜。神奈川県の統計書は警察署の管轄ごとに分類されていて、日本橋花街があった場所は寿署の管轄なので、それを追っていけばいいわけです!

日本橋花街の推移表

そんで、神奈川県立図書館でそれなりの数の統計書を漁って明治の終わりから昭和13年までの、待合茶屋、芸妓置屋、料理屋、芸妓数を記録し、その推移を表にしてみました。

ただこれ、あくまで寿署の管轄内の数なので、日本橋花街以外のお店や人も含まれているため、大まかにって感じではありますがね。。( ;∀;)

表を見てみると、明治43年には待合や置屋はほとんどありませんが、大正元年からじわじわと数を増やしていますね。そして大正10年のあと、大正12年に数が激減しているのは、大正11年の関東大震災が原因とみて間違いないでしょう。

ただその後も、昭和に入ってからはまた数が増え始め花街の規模が拡大しているように思います!

なぜ、日本橋なのか?

そして一番の謎だったのがこの話。

日本橋というと、東京か大阪を思い浮かべる方が多いかと思うんですよね~。私は最初、「日本のいろんな場所にある”××銀座”みたいに、東京の日本橋をもってきて名付けたんかな~」って思ってたんです。

でも、もしかしたらこの辺にも日本橋という橋があったんかな~と思って調べてみたら、、

引用元:『南区の歴史』

ありました。。『南区の歴史』という資料にある大正初期の地図を見ると、吉田川に架かる橋の中に”日本橋”という橋があるではないですか!

この資料には「日本橋架橋記念」という写真もあって、橋が誕生した時にはこんな感じで盛大に祝われていたそうです。でも、これがいつの年代だったかは書かれてませんでしたけどね。。

今の地図で表すとココ

今の地図で表すとこんな感じ。日本橋花街の場所から微妙にずれてるのが気になるんですけどね。。

かつての日本橋

そんな日本橋ですが、現在はこんな感じの普通の道になっております。以前この下には吉田川が流れていましたが。川だったこの場所は、1970年頃だったかな~、埋め立てられており、現在はこの下を横浜市営地下鉄が通っています。

この一つ東側にあった横浜橋に関しては、横浜橋商店街が今でも残っていることもあって市民に知られてはいますが、日本橋は”日本橋芸妓組合”として名前が使われてはいたものの、今となってその名が知られていないのは当然ですかね。。

ということで、100%確定ではないですがこの橋の名前が芸妓組合の名に取り上げられたとみて間違いはないかと思っています。でも、何で芸妓組合の名に”日本橋”の名が使われたのか、その辺の背景はわかりませんでした。。

あとで現地訪問の様子も載せますが、現地に長く暮らす古老などに聞いてもその辺の理由は不明とのこと。。なんかそんな深い意味はなく、橋の名に”日本”と付いているからそれを付けた方がインパクトがあるとか??

まぁ、それは今になっては神のみぞ知るって感じですかね。

現地に残る「日本橋」の文字

橋もなく、その存在をほぼ知られていないハマの日本橋。とはいえ、現地を訪問してみると何とか二箇所ほどその痕跡を見つけることができたんですよ!

一つはお店の看板に「横浜日本ばし」と書かれていて、もうひとつはコインランドリーの名前に使われていますな。こうして名が残されているだけでもちょっと嬉しい(*’▽’)

引用元:『郷土の民謡小唄集』

さらには、こんな小唄もかつてはあったようです。

こちらは、横浜市立図書館にある『郷土の民謡小唄集』という資料の中に記載されていたもの。かつて神奈川県ではいろんな街で、その土地を唄った小唄が作られていたようで、横浜市内にあった花街もいろんな場所で小唄が作られていたようです。

日本橋もその例に漏れず、『日本橋小唄 街の賑』という小唄を作っていたようです。もしかしたら、ここの芸者さんはこの小唄にのって踊っていたかもしれないですね。

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横浜大空襲で花街は消滅!

昭和になって料亭や置屋の数が増えて活発になっていく横浜の日本橋花街。しかし、そんな花街はとある出来事で焼け野原になってしまうのです。。

横浜大空襲の様子

先ほどの寿署の統計を見ても、芸妓置屋や芸者の数は昭和に入ってから増えていく一方だったものの、その後の1941年12月8日に太平洋戦争が勃発。日本はミッドウェー海戦辺りから形勢を逆転され、終戦間近には本土空襲によって、日本の至るところに焼夷弾が落とされ日本は焼け野原になっていきます。

それは横浜も例に漏れず、東京大空襲の約二か月後に当たる1945年5月29日に、517機のB-29が襲来し横浜大空襲が市民を襲い掛かることになります。

日本橋花街は横浜大空襲によって灰塵の街と化すことになります。ところが、日本橋芸妓組合はまだ死んだわけではなく、空襲後も息を吹き返して再び営業を開始することになるのです!

引用元:『神奈川県警察史』

その記録は『神奈川県警察史』に記録されていました。この表は昭和20年末の「横浜市内における営業状況一覧表」。何の営業一覧表かというと、米軍たちのための”慰安所”です!

横浜では、山下公園近くにあった互楽荘が慰安所として真金町や曙町の業者が共同経営の形でやり始めるも、女性達を集めるのに大変苦労したように突貫作業で慰安所設置に四苦八苦していたようなんですね。

この表にも”日本橋芸妓組合”という文字があり、空襲で壊滅したにもかかわらず、戦後すぐに営業を始めていたことがわかるかと思います。

ただし、この表の備考には以下のように書かれています。

戦災後は南区大久保に移転し同一営業所で営業中

『神奈川県警察史』

市内の方じゃないと、「南区大久保」ってどこやねんって思うかもしれませんが、これは京急の駅にもある上大岡なんですわ。もっというと、これはおそらく上大岡にあった大久保花街(大久保二業地)のことを示しているだろうと私は思っています!

上大岡にあった”浜の箱根”

ということで、話をちょっと上大岡に向けてみようかと思います。この上大岡は、関東大震災以降から住宅地として開発された街。今では住宅が建ちまくって昔の町の名残がぜ~~んぜん残っていない感じですが、こんな街にもかつては料亭が建ち並ぶ花街があったんですね!

ちなみに、花街の下には炭坑まであったんですよ(笑)

引用元:『上大岡 歴史よもやま話』

上大岡にあった花街は大久保二業地と言われていましたが、キャッチフレーズとして「浜の箱根」とネーミングされていたようなんですわ!

この「箱根」というのはかなりのネームバリューがあったのか、近くの井土ヶ谷花街の広告でも使われていた地名であり、「箱根って付ければ客が来るっしょ!」っていう考えだったんすかね??

大久保二業地は”浜の箱根”と呼ばれていただけでなく、さらには大久保温泉郷とも名付けられ料亭旅館が建ち並ぶ場所だったそうです。同じ神奈川県にあった綱島温泉や東京の羽田、大森なども、東京や神奈川特有の黒湯が出ることもあって都心に近い温泉地でした。

経済が右肩上がりになって、都心近郊のいろんな場所が住宅地へと変貌している現在ですが、東京や横浜近郊にもこういった温泉地はいくつかあったわけですな。

かつての大久保花街の場所

そんな花街跡も今では住宅地となっており、ここがかつて料亭旅館があった花街だとは微塵も感じないですが、ここも1960年代くらいまではそんな場所だったようで、日本橋芸妓組合も戦後はここで営業していたんですな。。

引用元:『神奈川県警察史』

さらに図書館で資料を漁ると、こんなものも発見!

これは『神奈川県警察史』に記載されたものですが、こちらは「連合軍進駐警備その他対策実施要旨のうち慰安所関係記録」という長げぇタイトルが付けられた内容です。終戦の1945年に、具体的な日付ごとにどんな動きがあったのかが書かれています。

進駐軍が横浜へ進駐を開始する前から慰安施設の準備に追われる様子が書かれており、とにかく突貫作業で互楽荘開設に向けて動いてたようですね。上にも書いてますが、開設したと同時に進駐軍の人が互楽荘へと殺到したようですね。

とはいえ、今回の記事で注目したいのは1945年9月5日の「本日開業せるもの。」に含まれる”大久保二業地”です。

これ、さっきの日本橋芸妓組合が「南区大久保に移転」とあるように、大久保では9月5日から慰安施設が開業したようで、日本橋芸妓組合もその頃から大久保二業地で営業をしていたんですかね。

そしてその後、具体的にいつかはわかりませんが、日本橋芸妓組合は再び元の場所で花街として営業を始めることになるのです。

姿を消していく花柳界・・

戦後、日本橋の花街がどのような街だったかに関して詳しく書かれた資料は見つかりませんでした。。神奈川県立図書館や横浜市立図書館など結構探したんですけどね。。

唯一街の様子がわかる手掛かりとなるのが住宅地図。日本橋花街があった横浜市南区については、一番古いものとしては1957(昭和32)年の住宅地図があるので、それを確認してみるわけです!

そしてその地図を見てみると、これがビックリ!

日本橋花街があった新川町や二葉町を見てみると、料亭、芸妓置屋、貸席、旅館のオンパレード( ゚д゚)

周辺は料亭や芸妓置屋だらけで軒数が半端ないんですわ。1957年ということもあり、まだ売春防止法の猶予期間だったからこれだけの数があったのかわかりませんが、日本橋花街ってこんなに件数が多くてこれだけの規模だったとは。。

こんだけたくさんの料亭や芸妓置屋があったにも関わらず、現在はこれらの料亭は一軒も残らずに閉業して建物もなくなってしまいました。現在この場所に暮らす方々でも、ここが花街だったのを知っている方はほとんどいないようです。。

これだけの軒数があったため、芸者さんもここに来ていたお客さんもかなりの数だったとは思うんですけどね〜〜〜、60年近い年月が経つと街はすっかり変わってしまい、ここの街の記憶もすっかり忘れ去られてしまうものなんですね。。

マンションが立ち並ぶ花街跡

現在はこんな感じで、マンションが立ち並ぶ住宅地ですからね。何だかその時代の経過の凄さというか、儚さに私は驚かずにはいられませんでしたよ。。

とはいえ、まだ花街だった頃のことを覚えている方はきっといるんだろうと思ったし、まだ置屋っぽい建物も残ってそうだったので、私は現地取材へと出向くことに決めたのでした!

おわりに

かつての日本橋花街

ということで、横浜市内の図書館を巡ったり、その後は何度か現地を訪問して他の聞き込み調査をした今回の日本橋花街の記事ですが、背景をまとめただけで記事が長くなってしまったので、二つに分割することにしました!!

今回の記事で背景をある程度学んだところで、次の続編では現地訪問して聞き込み取材した様子などを載せていきたいと思います。

聞き込みをした中には95歳のおばあちゃんもいたりと、なかなか楽しかったですよん(*’▽’)

↓↓続編はこちらになります

参考文献

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詳細・地図

住所 神奈川県横浜市南区二葉町周辺
アクセス 横浜市営地下鉄線の吉野町駅から徒歩5分ほど

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