ブリ漁師で賑わった赤線時代の真鶴色街史を紐解いた!

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)

風光明媚で多くの自然が残る街「真鶴」。

前回は、地元のみかん農家のご主人さんから真鶴の売春宿に関していろいろ聞きましたが、今回はその続編です!

真鶴で一番賑わっていた西銀座周辺をほっつき歩いていた時にたまたま地元に70年近く暮らすおっちゃんと出会ったわけですが、このおっちゃんがまさにここが賑やかだった頃の時代を知っていて教えてもらえることになったわけです!

神、現る!!!

ということで、戦後、赤線があった時代にはここはどんな街だったのか。以下で紹介していきますね!

本記事のポイント

・連れ込み旅館だけでなく、ラーメン屋の二階でも行われていた
・女性の検査は毎月15日に近くの病院で行われていた
・売春防止法後も売春宿はあったが1960年前後にはなくなったっぽい

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赤線時代の真鶴色街史を紐解く!

前回の記事で書いた通り、松本農園の御主人から真鶴の色街史について取材した後日、別用で真鶴を訪問した私は、かつて賑わっていたという西銀座を訪問!

閑散とした西銀座

訪問してみたは良いものの、もはやかつても面影は全くなく道の両側は住宅かシャッターって感じ。。人通りもほっとんどなく、「本当にここがかつての歓楽街だったんか??」って思うほど。。

料理店の鑑札

とはいうものの、探せばなんかあるかな~って思ったら料理店の鑑札が現れたんですよ。そんなこともあってやっぱりこの辺のことが気になってしまい”誰かに聞き込みしよう作戦”を発動した私!

そこで、この鑑札があった場所辺りで遭遇したおっちゃんに話を聞こうとすると、そのおっちゃんがやたらと詳しく知ってましてですね(笑)

おっちゃん:「何?真鶴のそういった歴史を知りてぇのか。寒いから中入りなよ。」

と言って、突発的な取材スタート!!

事務所で取材開始

だいぶ雑然とした事務所で、早速かつての賑やかだったころの話を聞いてみることに!

私:「昔は、この西銀座ってところが賑やかで、いわゆる春を売っていたお店もあったと聞いているんですが。。」

おっちゃん:「おー凄かったぞ、真鶴は!俺はそのど真ん中に住んでたんだからな!」

と、すげぇはりきって教えてくれたおっちゃん。私も、どんな話が飛び出してくるかワクワクしながら聞いてましたぜ(*’▽’)

ということで、おっちゃんから色々話を聞いたわけですが、まずは売春宿がどこにあったって話から!

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売春宿はどこにあった!?

売春宿は、「風待ち港だった当初は真鶴港周辺に位置していたものの、JR真鶴駅が開業してからは駅寄りの場所にもできてくることになる」というのは前回の記事で紹介した内容ですが、今回はさらに突っ込んで聞いてみました!

住宅地図に印を付けてくれた

場所のことを聞いてみると、おっちゃんが「おっ、地図持ってんのか。どこがそう言った場所だったか印つけてやるよ!」と言って私が神奈川県立図書館でコピーしてきた真鶴の住宅地図に印をつけてくれました!

まとめるとこんな感じ!

真鶴港とJR真鶴駅の間には、ざっと四エリアほどそういった売春宿があり、真鶴港から少し坂を登った場所にある”西銀座”と言われていた場所に、特にまとまって存在していたそうです。

このように分布していたのは、昭和33年に売春防止法が施行された頃。西銀座以外には、JR真鶴駅から真鶴港へと続く道にポツポツとあったんですな〜。

一応住宅地図をもとに、ピンポイントでおっちゃんからは場所を教えてもらいましたが、まぁそこまで細かく書かなくてもいいっすよね。。

しかし、どの街でも歓楽街というと”××銀座”だったり”栄町”って名前が付けられるんやな~。

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賑やかだった赤線時代

この西銀座はとにかく賑わっていたようです!

かつての西銀座の様子

おっちゃん:「ここは毎日すごかったよ、昼間の15:00くらいになると女性たちはみんな浴衣一枚で腰巻き姿になるんだよ。んで銭湯行って綺麗にして準備を整えて、17:00くらいからよーいスタートだったな。あと飲み屋もたくさんあってな、飲み屋は12:00くらいからはもう開いてるんだから!」

私:「へぇ~。その売春宿のシステムはどんな感じだったんですか?」

おっちゃん:「17:00からチョイの間だよ。そんで12:30頃まではそれが続く感じかな。んでよ、深夜1:00頃になると泊まり客をとるんだよ。」

私:「なるほど」

おっちゃん:「俺らが小学校から帰ってくるとさ、女の子やらが呼び込むんだよ。賑やかだったよ~、本当に。そう言った女性とすれ違う時なんかも白粉(おしろい)の匂いがしてさ、今でもその匂い覚えてるよ。それに真鶴には横浜銀行と駿河銀行の二つの信用金庫があったんだから。こんな場所にだよ!そんだけ金が動いたんだってことだね。」

とはいうものの、現在はその建物は全部?取り壊されているし、西銀座も先ほどの通り、賑やかだった面影は残っていません。。

おっちゃん:「お〜、しかし懐かしいな。そうそう、この××旅館、あーここも連れ込みだったな〜。」

おっちゃん、地図を見て懐かしくなり、テンションがあがってきた模様( ̄▽ ̄)

おっちゃん:「あー、ここの××旅館のお母さんなんかさ、夫が肺炎になって倒れちゃったのに別の男を連れ込んで子供作っちまったんだよ。。本当にどうしようもないよな!」

私:「笑。。」

おっちゃん:「タバコ屋とか呉服屋の店もあるし、理容店だっていくつかあるだろ。関連事業だよ、この辺はね。しかし懐かしいね〜、久しぶりだよこんな話したの。」

おっちゃんも、久々にこんな昔話をしたようで、かつての懐かしい記憶を思い出して感慨深くなっている様子。

そんな中、旅館だけではなくラーメン屋の二階でもことが行われていたという話が、おっちゃんから飛び出しました!

ラーメン屋の二階でも売春が!

地図を眺めていておっちゃんが一言。

おっちゃん:「なぁ、そういえば”平珍”ってラーメン屋は地図に載ってねぇか?ラーメン屋の二階でもそういうの行われてたんだよ。」

『1969年の真鶴明細地図』より

探してみると、、、あった!

おっちゃん:「お〜あるじゃねぇか。」

そうなんですよね、昔はソバ屋とかうどん屋などのお店に二階があると、そういう場所に使われてたんだそうです。以前、twitterで教えてもらったんですが、井上章一著の『愛の空間』という本にはそう言った記述が書かれているんですよ!

この本の「第三章 ソバ屋のできごと」という章では、芸者には一流からピンキリまでいて、一流の待合では一流の芸者しか呼ぶことはできないら、ランクの低い芸者だったら安い待合どころかうどん屋の二階にも呼ぶことができるっていうんですわ。

かつてのソバ屋やうどん屋に二階があると、そこで女連れの男が利用していた時代があったんだそうです。この書では「食と性は、ソバ屋を媒介にして江戸時代ごろから接点をもっていた」とあり、敗戦後の住宅政策によって、次第に分離していったという。昭和62年生まれの私には「そんな時代があったんかい!」って感じですが、そうだったみたいですよ!

ということで、真鶴にあった平珍というラーメン屋も二階がそう言った空間だったそうです。

平珍の建物はまだあった

その平珍、今ではお店はないものの、建物自体は住宅地図と照らし合わせると残ってるっぽいんですよね。。多分ココ。お隣(写真でいうとその手前)にあったという”パンチ”というバーの建物はぶっ壊されて更地になっていますが、平珍だった建物は今も健在しているようでした。

かつての西銀座

そんで、もしかしたら昔の真鶴の写真に平珍が写ってないかな~と漁ってみる。前回の記事を書くために取材した松本農園の御主人からは、取材中におまけとして真鶴のいろんな写真データを大量に頂きましてですね。西銀座の写真も何枚かあるので、じっくり見てみることに!

すると、この写真に写ってましたよ!!

拡大すると・・

平珍あった!

ね!

まぁ、あったと言っても看板しか写ってないし、だから何だって話なんですけどね。。(笑)

ちなみに、おっちゃんの話だと熱海の糸川べりにあったお蕎麦屋さんとか、小田原の宮小路にあった小料理屋の二階でも連れ込み旅館のように、部屋がそう言ったことに使われていたとのことです。

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コの字型の売春宿

いろんな話が展開されていくなか、続いては売春宿がどんな内部だったかを説明してくれました!

おっちゃん:「あとね、こう言った売春宿ってさ、入り口は一つなんだよ。んで、廊下はコの字になっていて、その廊下沿いに部屋があったんだよ。でね、入り口は一つで出口も一つなんだ。つまり、奥は行き止まり。逃げないようになってんだよ。」

私:「なるほど」

勝手に考えた間取りww

雑過ぎて申し訳ないですが、間取りはこんな感じか??

売春宿について教えてくれている

おっちゃん:「でさ、女性たちがいる部屋も固定じゃないんだよ。今日は君ここ、君はここ、って親分(宿主)が振っていくんだけどさ、ちょっと逃げそうな奴は親分の隣の部屋にするんだよ。逃げねぇようにな。」

おっちゃん:「それにさ、部屋のドビラの上には回転窓っていうのがあるんだよ。そこを棒で押すと中が見えてさ、部屋で何してるか見れるの。親分が監視するため。面白れぇだろ。」

しかし何でも話してくれるおっちゃんだ。最高。次々といろんな話が飛び出してくる!

そんなおっちゃんは今、旅館を運営しているんですが、おっちゃんの前の代の方が、女の子に逃げられて借金を返せなくなった売春宿の借金を肩代わりしたことがあったそうです。そんで、その建物の所有権も移り、しばらくはその旅館の荷物置き場になっていたとか。

おっちゃん:「俺もたまに売春してたその建物に荷物を取りに入りにいくんだけどさ、なんか空気が重いんだよな。そう言ったことをしてる宿ってさ、気味が悪いわけ。何年か前に取り壊して今は更地にしてるけどさ、取り壊した時はスッキリしたよ。」

売春宿、どんな雰囲気だったんでしょうね。。

ここで一旦ページを区切りますが、まだまだおっちゃんの話は続きます。続いては、おっちゃんの実家が薬局で、おっちゃんが売春宿に避妊具を配っていたという話!

続きはこちら!おっちゃんは売春宿に避妊具を配っていた!
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コメント

  1. 知の冒険の記事で初めて真鶴岬や小田原やらが風俗も売りにしていたって知ってビックリだったけど、確かに記事で紹介されてた辺りを地図で見ると今も旅館が若干残ってるし、小田原百貨店なんて商業施設も有るんだよね。

    昔は凄く栄えてたんだろう。

    何で風俗店今も有るのに形骸化した売春禁止とかするんだろね。
    寧ろ男女ともに風俗店利用資格や就業資格作り半月一回の検査義務とか法律で感染リスクをコントロールした方が日本の為に成りそう。
    そこ行くと当時の真鶴の売春婦は実質人身売買で人権が無かったのは問題だけど、感染リスク管理はちゃんとしてたんだね。

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