今回は、千葉県の色街に関する記事になります。今まで全国の遊郭や赤線跡などを調査してまいりましたが、今回の対象は勝浦市。勝浦タンタンメンや朝市で有名なこの街には一体丼あ色街史が眠っているのか?
調査して、地元の古老などに聞き込みをすることができたので以下で放出していきたいと思います!!
本記事のポイント
・勝浦は紀州の方々が住み着いた歴史があり、気候が涼しく災害の少ない街
・勝浦にある岩切通りは、昭和初期辺りまで花街として栄えた
・戦後には、今は痕跡がないが赤線地帯らしき場所があった
見出し
勝浦市ってどこにあんの??
勝浦がどこにあるのかというと、ここです。千葉県の真ん中から少し南に下った場所で、太平洋に面しているため、東京や神奈川からは直線距離では近いものの、東京湾をまたがっているためアクセス的にいいとは言えない場所でしょうか。。
東京湾アクアラインや圏央道ができているので、車が一番いい手段だとは思いますが、ルートの選択肢が少ないので、道路は割と混みますww
▲全国区で有名な勝浦タンタンメン
んで、勝浦といえば日本三大朝市の一つに数えられる「勝浦朝市」や、B級グルメとして知られる「勝浦タンタンメン」ですかね。このタンタンメンは、海で働く方々の冷えた体を温めるために考案された食べ物。
「江ざわ」というお店が発祥であり、勝浦のはゴマが使用されておらず玉ねぎが使われているのが特徴。考案された当初は、物流の関係などでゴマが不足していたことが原因のようです。あと、このラーメンはすすってはダメ。よくむせて涙ぐみながら食べている方がいるようですが、蓮華(レンゲ)の上に乗せて食べるのが正当な食し方っす!!
↓江ざわに関しては結構昔に訪問したので、リンク載せときます!
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勝浦の色街史の調査を開始!
▲銚子市にあった松岸遊郭
早速調査開始です。色街史を調べる前に、まず勝浦には遊郭は存在しなかったようです。というのも、遊郭は公的に売春が認められていた場所。公的機関に届け出を出して認められている必要があるので、警察史とかを見るとその場所がどこかを知ることができます。
千葉県に関しては、大正時代には千葉市、佐倉市、松戸市、銚子市(松岸遊郭)、木更津、船橋市(海神遊郭)の6箇所が貸座敷として認められていたようです。それ以前の明治時代にあった可能性は否めないですが警察史を見ても勝浦に遊郭(貸座敷)があったという記述はないので、多分なかったんじゃないですかね。
事前調査はそんなにしておらず、かつて花街として栄えた「岩切通り」という通りがある事しかわかっていなく、もしあるとすれば花街で私娼窟だった、いわゆる料理屋などでモグリで売春が行われていた可能性ですかね。
▲大正時代に建てられた銭湯「松の湯」
ということで調査開始。場合によっては、大した情報が得られず記事にすらできないレベルになるのではと思っておりましたわい。街をウロウロしてまず目に入ったのが大正時代に出来た松の湯さん。古い銭湯があるということで、この辺が花街だったのではと思ったのですが、その確証はつかめず。
▲風情ある外観の「松の家 旅館」
さらには松の家というこちらの旅館なども、唐破風(からはふ)の屋根が印象的でなかなか趣がある建物ですね。この旅館は今現在も宿泊できるようです。素泊まりもできるそうですが、クチコミを見るとここの料理がかなり評判が良いようです。今度、泊まってみようかな!
ところで、岩切通りっていったいどこなんだ??
▲文献を漁った勝浦市図書館
どの辺を調査すればいいかわからなかったので、まずは勝浦市図書館を訪問することに。すでに千葉県立図書館には訪問していて、勝浦の色街史に関する資料は多少なりとも手に入れていたものの、さらに何かないか、あとは図書館の方でこの辺の歴史に詳しい方がいれば聞いてみようと思ったのが狙い。
結果としては、岩切通りという花街があった通りの場所を教えていただき、あとはちょっとだけ勝浦に関する資料をコピーさせていただきました。ということで、早速岩切通りの方へを足を運ぶことに!!
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古老たちから勝浦の色街史を取材した!
▲勝浦の歴史を伺った焼き鳥屋さん
図書館で資料を漁ったあとは、岩切通りを放浪しようと。ただ、その前に現地の方から何か情報を聞き出せないかと踏んだ私。先ほど訪問した勝浦市図書館には、花街に関して詳しい方がいらっしゃらなかったため、周辺のお店で何か聞ければと思い上の写真の焼き鳥屋さんに聞いてみたわけです!!
そうしたらここのおっちゃんとお店に来ていた友達らしきおっちゃんから、勝浦の色街史だけでなくその他の歴史など色々な事を聞くことができました(*’▽’)
勝浦の歴史を簡単に!
勝浦にはどんな歴史があるのか?この場所の海沿いは黒潮と親潮がぶつかる所であり、イワシが多くて海が銀色に盛り上がる事もあったといわれるほどの場所。元々勝浦に住んでいた方だけが住んでいたわけではなく、紀州の那智勝浦から移り住んできた方も多いんだとか。
というのも、勝浦は気候が涼しく災害も少ない場所。紀州から黒潮に乗ってきた漁師などが、この場所が居心地が良くて住みやすいということで、この地に住みついたようです(または、海が荒れて避難した場所が勝浦だったなどの説も。。)。
▲文豪達の別荘予定地だった「鵜原理想郷」
勝浦市の周りは100m近い山々に囲まれており、海側では親潮と黒潮がぶつかり、いきなり海が深くなることから、冷たい風が吹く場所。そして、これらの風は、勝浦が山で囲まれていることから外に逃げないため、この場所は夏場でも涼しい気候なのだという。
そんな過ごしやすい気候でもあり、文化人たちがここに別荘を作ろうと企てた鵜原理想郷という場所もあったりします。実際に分譲されることはなかったそうなんですが。。
▲日蓮宗の総本山である「身延山 久遠寺」
さらには、この辺りは災害が少ない場所。80歳以上の人だと、「ここは日蓮聖人のお膝元だからよ~だから災害が少ないんじゃ!」というらしい。というのも、すぐ隣の鴨川市は日蓮聖人が生まれた場所なのです。
日蓮宗の大本山は山梨県にある身延山なのですが、お隣の鴨川市にある誕生寺も生誕したというゆかりの場所であることから、日蓮宗や日蓮正宗の方々(日蓮正宗から破門される前は創価学会の方も)が結構訪問する地なんだそうですよ!!
勝浦の街全体に関してはこのくらいにして、さっそく岩切通りに話題を移すことにします!
岩切通りの花街史を掘り下げる
そして、勝浦の繁華街といえばこの岩切通りでした。名前の由来としては、この先にある山だった道を切り開いたことから、”岩切”という名前がつけられているとのこと。この通りは浜勝浦漁港と東側に位置する豊浜を結んでいたことで、明治時代から人通りが多く栄えていた通りでした。浜勝浦の隣の豊浜は、豊かなほど魚が採れることでつけられた地名であるようで、こちらの方が盛大でイワシ漁業が盛大だったそうです。
ただし、1913(大正2)年に鉄道が開通したことでこの地区の繁栄は去ったようですが、大正から昭和初期までは岩切通りには料理店が建ち並んでいたそうです。
▲かつて花街として栄えていた「岩切通り」
その今現在の岩切通りはこんな感じ。お店が何軒かあるだけで、とっても閑静な道って感じで、とてもここが繁華街だったとは想像もできないほどの静けさでしたわい。。
ここが花街として栄えた頃は、夜12:00を過ぎても人通りは絶えず、飲食店や料理屋が立ち並んでいたため冷やかし客も多かったとのこと。この頃は酌婦がたくさんいて、彼女らの腕のレベルはかなりのものだったそうです。
ただ、この花街にあった料理店はただのお店ではなく、昭和の始めには当時全盛期だったカフェー、さらには私娼窟、いわゆるモグリの風俗店もあったそうなんですね。古老から聞いた話では、お店の女性と客が仲良くなった時のために、トイレから隠し部屋に上がれるような作りの旅館もあったらしい。
この通りは大正から昭和初期以降は閑散とした通りであり、花街跡だとは言えスナックやバーが軒を連ねているわけでもない。一応一軒だけスナックがありましたが、花街跡の名残というわけではなく、たまたまあるという感じらしいです。
今現在も勝浦の街には飲み屋街という場所はありません。勝浦というと、名が知れている街ということもあって歓楽街的な一画があると思っていたもののそうではないのですね。
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古老たちから焼き鳥をごちそうに!!
古老と話していると、どんどん人が集まってきました。なんだ、ここは古老たちの集会場と化しているのか??
「あれ、まだ生きてたの??」
という冗談交じりの自虐的な会話がやけに面白い!ここは大阪か?(笑)
▲歴史を伺っていると、焼き鳥おごってくれた
古老たちと勝浦の歴史に関して談笑していると、「じゃあちょっと焼き鳥を食わせてやろう!」ということで、焼いてくれることに(*’▽’)
おお~マジか、このおっちゃん達マジでいい人たちやんけ~!(^^)!
▲この店は芸能人も取材で来たらしい
焼き鳥を焼いている間に、赤線とは関係ない話に。今から数か月前に芸能人がこのお店に来たとのことで、写真を見せていただきました。おおっ、タカアンドトシやんけ!!さらには、篠原ともえも!
これは、『ぶらぶらサタデー』という番組で、このお店を目当てに来たのではなく迷子になってたまたまお店に来たのだという(笑)
▲篠原ともえが触った椅子ww
「この椅子ね、篠原涼子が触ったぜ!!」と私に勧めてくれましたが、おっちゃんは篠原ともえを篠原涼子と勘違いしているようでした(*’▽’)
篠原ともえって懐かしいな~と思いつつ、一応写真をパシャリ!!
全部で三本いただきました。味付けは、普段はタレであるもののあえての塩(*’▽’)
とってもおいしかったです!これは、つくねね!!
勝浦に赤線地帯があった?
古老たちと話していて、話は再び勝浦の歴史の方向へ。勝浦には、先ほども書いたように岩切り通りに花街があったようですが、この通りは大正から昭和初期には花街要素は消えてしまったようです。その後、この通りは今現在スナックが一軒ほど見られるものの、勝浦には飲み屋街というエリアはないとのこと。
▲館山市にある飲み屋街「渚銀座」
勝浦って漁業とかで儲けた方が遊ぶ場があるだろうとは思っていたのでこれは意外!南房総でいうと、一番南に位置する館山に渚銀座という飲み屋街があり、ここが一番栄えている繁華街とのこと。。ただ勝浦から館山って結構距離ありますけどね。。
ただし、ここで一人の古老からとある情報が。
「勝浦だって、昭和32年まであっちに赤線あったんだから!」
とのこと。
地図を見ていただきながらその場所を教えていただくと、どうやら上の地図の赤く塗ったエリアが赤線だったようです。こんな場所にあったんかい。。
それ以外にも様々な話をし続け、ちょっと岩切り通りのことを聞ければと思ったのですが、結二時間近くもの間、勝浦の様々な事を教えてくれました!いと、ありがたし!
そして、早速教えていただいた赤線地帯だったと思われる場所へと向かうことに!!
続きはこちら!戦後にあった赤線跡を訪問!
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