かつて新丸子にあった花街の痕跡は電柱と神社にあった!

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うっす!

今回は、神奈川県川崎市にあった丸子花街に関する第二弾の記事になります。

多摩川沿いにあった丸子花街について、前回は資料を漁って歴史の流れをまとめてみましたが、今回は現地調査になります。かろうじて花街があったという痕跡を探したり、当時を知る方に取材をしてきたので、その辺を以下でまとめていきたいと思います!!

本記事のポイント

・電柱には所々に料亭・旅館の屋号が残っている
・日枝神社の玉垣にも料亭と旅館の屋号が残されている
・日枝神社には大鷲神社があり現在も酉の市が行われている

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東京近郊にあった歓楽街

多摩川沿いに丸子花街があった

東京都神奈川県の県境を流れる多摩川。その川沿いには、今から40~50年前まで新丸子三業地といわれた花街がありました。

前回の記事では、図書館を漁ってほじくりだした資料を基にして丸子花街の誕生から終焉までを一つの記事にまとめております。

んで、今回の記事は現地を調査して花街だった痕跡を探し歩いた内容をまとめた記事になります。とはいっても、丸子には料亭や旅館の建物は残っていないのでわかりやすい痕跡は見当たりませんでしたけどね。。

1960年の丸子花街

そこで、神奈川県立図書館に行ってゲッツした1960年の周辺の住宅地図をもとに周辺を練り歩くことにしたわけです。

かつて料亭があったエリア

その住宅地図とGoogleMapを確認しながら調査をすると、料亭だった場所はこのようにデッカイマンションに変貌してるケースがほとんど。

マンションになっている場合、建物の屋号を確認すると料亭に使われていた名前がそのまま使われているケースってのが結構あったりするんですけどもここではそう言ったケースが見当たりませんでした。。

この辺には置屋があった

この辺には置屋があったんですけどね。。置屋の一区画は一軒家くらいの面積であることから小さいアパートとか一軒家が建っている感じですね。

その他も旅館や見番が建っていた場所も伺ってみたもののもう変わり果ててしまってますね。。とはいうものの、探してみると電柱と神社にわずかな痕跡が残ってたんですね!!

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花街の名残は電柱にあり!

遊廓や花街だった場所を調べるとき、その痕跡が電柱に残されていることが多々あります。

電柱に残された色街の痕跡

上の写真は、いろんな色街を調査した際に残された痕跡です。

“新天地”や”楽天地”という名称は、かつて赤線などの歓楽街だったエリアに付けられることは多く、”新地”という名称もそうですね。そして花街でいうと、近くにある二子もそうなのですが料亭とか旅館の屋号が電柱に残っているケースがあるんですよね。

そんな期待を込めて、花街跡を歩いてみると、、、

「吉水」と書かれた電柱

おっ!!

「吉水」と書かれている電柱がありましたな。これと住宅地図を照らし合わせると見事ビンゴ。ここには「料亭 吉水」があった場所なので、料亭の屋号がココに残されているってことですね!

料亭や旅館の屋号が残っていた

さらに電柱を見ながら丸子花街だった跡を練り歩いてみると、まだまだあるじゃないっすか~~~!

「花本」は料亭の屋号で「山水」は旅館の屋号ですね。電柱の位置と地図に書かれている場所も見事にマッチしているので、これも屋号が残っていると考えて間違いないでしょう!

建物として残っていなくても、探してみるとこういうところに名残ってあるもんなんですね~。

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花街の名残は神社にあり!

花街跡近くにある日枝神社

続いて訪れたのは、新丸子駅から歩いて15分くらいの場所にある日枝神社。

神社にも、花街や遊廓に関する痕跡が残っているケースって結構あるという今までの経験からここも散策してみたわけですが。これもビンゴ!

残っていましたよ、神社をぐるりと囲んでいる玉垣に!

玉垣に刻まれた料亭の屋号

神社に残る色街の痕跡

神社というと、境内に残っている碑をよ~~く確認してみると、花街からの寄贈ということで「××藝妓組合」「××三業組合」という文字が刻まれていたりするんですよね。

あとは玉垣にも、料亭とか旅館が神社に関する何かしらに寄贈とか寄付を行ったということで屋号が刻まれていることが多いわけです。

屋号が残されていた玉垣

んで、碑にはそのような痕跡が見られなかったんですが、玉垣をよ~~く見てみると、、見事にその痕跡があったわけですわ!!

といっても、かなりかすれているので画像だと見ずらいかもしれないですけどね。。こちらの画像には「丸子荘」「み月」「和楽」と料亭の屋号が刻まれているんですが、どうですかね、、見えますかね(;・∀・)

料亭と旅館の屋号があった

まだあります。

結構たくさん残っていて、「可祝」は旅館の屋号、他は料亭っすね!

まだまだあるぞ

こちらは「みか月」「和楽」は料亭の屋号で、「繁の井」「山水」は旅館っすね!

ココは置屋の屋号っすね

ココに書かれているのは全部置屋の屋号だと思います。ここに画像で載っけた以外にも残ってまして結構な数がありました。

この玉垣について、神社の方にいつ頃刻まれたかを聞いてみたんですが「それがわかんないんすよね~」とのこと。。よくあるケースは、関東大震災で倒壊したから、本殿の再建のための費用を寄贈していただいた方の名や屋号が刻まれているとかなんですけどね。

まぁいかんせん、ここに屋号が刻まれているということで、この日枝神社は新丸子にあった料亭に支えられていたとは思いますけどね。新丸子三業地が賑やかだったとき、芸者さんたちはここに来て良く手を合わせていたんだろうか。。

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浅草から勧請された大鷲神社

浅草から勧請した大鷲神社

そしてもう一つ注目したいのがこちらの大鷲神社。

こちらは1951(昭和26)年に浅草の鷲神社より御分霊を勧請して、境内にある稲荷社に合祀した神社。ここにあるのは戦後からなんですね~。

覗いてみると熊手があった

祠の中を覗いてみると、熊手がありましたよ!

横浜真金町の酉の市

神奈川県でいえば、横浜の遊廓があった真金町、平塚遊廓、厚木花街、相模原市にあった水郷田名三業地など遊廓や花街があった場所には、浅草の吉原遊廓の鷲神社に倣って神社を設けて酉の市が行われている場所が多々見られます。

酉の市は11月の酉の日に行われる祭礼っす。商売繁盛を願って、主に商売をする方々が熊手を購入するという行事というかお祭りなわけですが、それはここ日枝神社でも同様とのこと。

この日枝神社では今でも酉の市が行われているそうなんですね。今年(2020年)は新型コロナウイルスもあって開催は厳しそうですが、開催されるときは行ってみたいな~。

『新丸子節』の碑もあった

あとはこちらの歌碑もちょっと注目したいっす!

この碑には『新丸子節』という歌が書かれていたんですが、神奈川県でいうといろんな場所に花街があり各々の場所で民謡が作られ、各所のお座敷でその民謡が歌われていました。

きっと丸子の花街にあった料亭でも、大広間で新丸子節にのって芸者さんが踊っていたりしたんじゃないですかね~。

地元の木材屋さんに話を聞いた

社務所に突撃した

日枝神社で酉の市が行われていることと、玉垣にも料亭た旅館の屋号が残されているということで神社の方に花街に関するエピソードが聞ければと思い、社務所へと突撃することにした私。

ピンポンすると神社の方が出て来てくれました!

神社:「はい!」

私:「すみません、昔、丸子にあった花街の歴史を調べているのですが、ご存じだったりしますでしょうか。」

神社:「ん~~私は他所からきてるのでその辺はわからないんですよね。。」

出て来てくれたのは、宮司さんの奥さん。宮司さんは今お客さん対応中とのことであるのと、宮司さんも花街に関しては恐らくわからないのでは、、とのこと。

そこで、神社の近くにこの地に長い間住んでいる木材屋のご主人さんであれば知っているかもという流れに!

これはうれぴーー(*´▽`*)

木材屋さんに案内してくれた

ご主人さん宅に電話でアポを取っていただき、今家にいるとのことで案内していただけることになりました。

いや~大変ありがたいっす<m(__)m>

藤清材木店に伺った

今回話を聞かせていただいたのは、神社の目と鼻の先にある「藤清材木店」。

花街の歴史を聞きたいというと、ご主人さんは大変親切に昔のことを話してくれました!

話を聞かせてくれたご主人さん

私が携帯していた1960年の住宅地図を見ていただきながらの取材となったんですが、その地図を見て懐かしがりながら色んなことを話してくれました!

ご主人:「これはいつの地図ですか?」

私:「1960年ですね!」

ご主人:「 ほー、これは懐かしい名前が並んでますね。料亭は私が大学時代の時にはまだたくさんありましたよ。でも、もう少し前はもっと料亭があったと思いますよ。」

私:「当時は街の雰囲気はとても賑やかでしたか?」

ご主人:「賑やかでしたね。丸子には映画館が三つありましてね。”モンブラン”って映画館なんて、学生の時は毎週行ってましたよ。あと、近くにストリップ劇場もあったんですよ。そこがうちのお客さんでね、ようは舞台とかが傷むからよくその部分の材木を運びに行ってたんですよ。んで、お店を出るときにね、劇場が綱島街道に面してるもんだから、『あいつ昼間っからストリップ劇場行ってるよ!』って感じで良く指をさされたもんですよ。。 (笑)」

私:「ストリップ劇場もあったんですか。この辺は東京が近いということもあって、東京からやってきた方々が接待などでお店を利用していたんでしょうか?」

ご主人:「この辺では多摩川で砂利が採れましてね、その接待とかが多かったんじゃないかな。ちなみにうちは材木屋ですからね、問屋さんとの付き合いがあったから、うちの親父なんかはしょっちゅう料亭を利用してましたよ。」

部屋にある資料を引っ張り出す

そんな感じで話を聞いていると、奥さんが部屋にある資料を引っ張り出してくれました。

この辺の昔の写真も見せてくれた

こちらは日枝神社が刊行した資料ですが、昔の写真がいくつかあり、見せていただきながらなお、話は続く。。

私:「地図を見ていると大きなものから小さいものまで旅館もたくさんあったみたいなんですよね。この辺の旅館には、連れ込み旅館もありましたでしょうか?」

ご主人:「 連れ込み旅館もたくさんありましたよ。そういうのは小さい旅館でしてね、この周辺に点々とあったんですよ。「花屋」って連れ込みがあったのは覚えてますよ。でも、たぶんあれだ、昭和33年の売春防止法だね、あれで無くなっちゃったんじゃないかな。」

私:「今は住宅地になりましたが、もう花街があったとは到底思えなくなっちゃいましたね。。」

ご主人:「そうですね。ただ花街が無くなって以降も10年くらいですかね、親父が頻繁に利用していた料亭の女将からは、付け届けが送られてきましたよ。それが私が知る花街の最後のエピソードですね。」

丸子花街以外にもいろんな話に花が咲き、結局は一時間くらい話したでしょうか。40~50年近い前の話ではあるものの、こうして当時を知る方と語らいあえたことはとても貴重な体験だったと思います。

おわりに

かつては両側に料亭があった。。

今回は、二記事にわたって丸子花街に関して書いてきましたが、とりあえず私なりに調べられるだけは調べたって感じです。

ここは私が棲んでいる場所から近いですし、11月に酉の市が開催されれば、行けたらいてみたいな~とも思ってますが、とりあえず調査はここまでにしとこうかと思います!

神奈川県の花街でいうと、あとは二子と綱島、あとは野毛とかも今後書いていきたいと考えております。でも、一つ一つめっちゃ時間かけてしまっているので、しばしお待ちいただければと思います(;・∀・)

ではでは~

参考文献

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詳細・地図

住所 神奈川県川崎市中原区丸子通1の周辺
アクセス 新丸子駅から徒歩5分ほど

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コメント

  1. 茶碗むし より:

    現役丸子劇場の隣に住んでいました。妖艶なお姐さん達が仕事の合間に向かいの
    セブンイレブンでお買いものをしていました。
    ある日、天皇陛下が丸子劇場の前を通られるということで丸子劇場は布で目隠し
    されていました。

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