吉原と縁がある多摩川沿いの歓楽郷「二子三業地」に迫る!

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こんちわっす!

今回のターゲットは、神奈川県川崎市にあった「二子三業地」になります。全国的にというか神奈川県の中でも二子ってあんまり知られてない場所でもあると思うんですけど、多摩川沿いにあるこの場所には、1970年頃まで芸者さんがいたんですよね~。

そんで、背景を調べてみるとココは東京の吉原とも縁があることや現役の料亭が今でも残っているということもあり、調査に至った次第っすかね!

二子花街に関しては、今回の記事では「二子花街の誕生から終焉」を取り上げて、続編では「現役の料亭『やよい』の歴史や館内の様子」を、さらにその続編では「現在の二子三業地に関して紹介する」という三部構成でいきたいと思います(*´▽`*)

本記事のポイント

・関東大震災や二子橋が誕生したことがキッカケで花街は誕生した
・花街は吉原や向島の業者を誘致して誕生
・多摩川では屋形船が浮かび花火も上がり風情ある光景が広がっていた

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大山詣の通過点だった二子宿

二子って聞いても、多くの方が「どこっすか?」という感じだと思うので、まずは場所から押さえておきましょう。

神奈川県川崎市高津区に位置し、多摩川沿いであることから川を渡れば東京って場所ですね。

今は閑静な住宅地になっているものの、この場所にはかつて50軒の待合があり、100人以上もの芸者さんがいたんですな~。

そんな二子の歴史について話すわけですが、二子周辺というと古くは大山街道沿いの宿場町として、明治には多摩川での川遊び目当てに東京から多くの人が訪れる行楽地として賑わっていました。

山岳信仰として有名な大山

大山に関しては以前に記事でも取り上げていますが、神奈川県の丹沢山地にある大山は、江戸時代中期頃から江戸庶民を中心に山岳信仰の地として崇めらえていた山でした。大山参拝のためにいろんな方面から大山道が整備され、その道中に、ポツポツと宿場町が形成されていったんですね。

二子は、その大山街道の通過点にあったため、多くの方の往来があったわけです。

そんな二子に花街が誕生するキッカケは何だったのか??

それはですね~、1923(大正12)年に発生した関東大震災だったのです!

関東大震災が花街誕生のキッカケ

誕生の背景を話すためには、関東大震災に関して話す前に多摩川のことを取り上げる必要があるので、まずはその話から。

二子三業地のそばを流れる多摩川

二子三業地のそばには、東京と神奈川の境を流れる多摩川があります。この川、今ではいろんな場所に橋が架かっていて鉄道でも車でも簡単に渡ることができますが、昔は橋は架かってなかったわけです。

そのため、近くの丸子には「丸子の渡し」があったように、二子にも「二子の渡し」があって、渡し船で移動していたわけですね。

多摩川沿いに残る「二子の渡し」の碑

今ではこんな感じで「二子の渡し」の碑が、ひっそりと佇んでます。

ところがです、1923(大正12)年9月1日に関東大震災が発生。

これによって、首都圏は大ダメージ。そのため、壊滅的な被害を受けた東京への救援・復興物資の輸送が急増したものの、多摩川には渡し船しかなかったので運ぶにも運べない状態になっていたわけです。。

そこで、二子に橋を渡すことが急務となり橋を架ける工事が始まり、1925年に二子橋が完成。すると建設関係者の行き来が増え、瀬田周辺(二子玉川駅と用賀駅の周辺)の旅館や料亭が連日賑わうようになりました。

東京側がそのように賑わいを見せるなか、神奈川側の二子では、酒造業のかたわら吉原で待合を経営していた大貫吉之丞という人物が、二子橋開通後の地域開発を考えて多摩川沿いに歓楽街を作ろうと計画を進めていったのです。

ということで、二子三業地の誕生に関する流れをまとめると、以下になります!

二子三業地誕生の流れ
1. 関東大震災による被害から、東京への救援・復興物資の輸送が急増
2. 多摩川の両岸(二子(神奈川)と玉川(東京))は「二子の渡し」の舟移動しかないため橋の建設が急務になった。
3. 1925(大正14)年に二子橋完成
4. 二子橋開通後の地域開発を考えて、吉原や向島の業者を誘致。
5. 二子三業地誕生

はい、誕生に関してまとめたところで、続いての話題は花街がどのように栄えていったかについて!

岡本太郎の曽祖父が花街を誘致

先ほど、二子橋が誕生したあと「吉原や向島の業者を誘致」と書きましたが、誘致したのは大貫吉之丞という人物でした。

有名芸術家の岡本太郎
引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/岡本太郎

実はこの大貫という人物、あの有名芸術家である岡本太郎の母である岡本かの子のおじいさんにあたる方なんですね。二子には岡本かの子の実家だった大貫病院があったわけですが、その病院跡地は公園となり、その向かいにある光明寺が大貫家の菩提寺になっています。

そんな岡本太郎に由縁がある大貫吉之丞が、二子花街の誕生に関わったわけです。大貫吉之丞はまず、自分の水田を埋め立てて待合「大和」を開店。さらには、新たな営業地を探していた東京の吉原や向島の料亭・待合・芸者置屋などに声をかけて二子に誘致しました。

さらには、その背中を押すように1927(昭和2)年には多摩川電気鉄道溝ノ口線の玉川-溝ノ口間が開通。鉄道が通ったことでさらに人が来るようになり昭和7年頃に二子三業組合、いわゆる検番が作られることになります。最盛期には待合が50軒以上あり、100人近くもの芸者が働いていた二子三業地。

ちなみに、二子は神奈川側の岸ですが、東京側の二子玉川の方にも料亭があったものの、そっちに芸者はいなくて、呼ぶ場合は渋谷の丸山花街から呼んでいたみたいですよ!

ということで、二子三業地が賑わった背景をまとめると、その要因は以下の五つが主ではないっすかね!

二子が歓楽街になった要因
1. 江戸時代から大山街道の二子宿として栄えており、「二子の渡し」の船着き場で通行が盛んだった。
2. 大正時代に二子橋が完成し、徒歩や車通行ができた。
3. 玉川~溝ノ口間に鉄道が開通し、より便利になった。
4. 多摩川の豊かな自然、鮎などの幸にも恵まれた。

今では閑静な住宅街になっている二子ですが、にぎやかだった時代があったんですね〜〜。

その二子の花街に関しては、高津区が発行した『高津区制40周年記念誌 たかつ ひと・まち・記憶』という郷土史に詳しく載っているので、以下ではその辺の写真をいくつか紹介したいと思います。

賑やかだった二子三業地の記憶

ということで、『高津区制40周年記念誌 たかつ ひと・まち・記憶』の資料を元に、二子三業地が賑やかだった頃の様子を見てみようと思います。

料亭「おしず」開店の頃
引用元「高津区制40周年記念誌 たかつ ひと・まち・記憶」

こちらは料亭「おしず」と書かれていますが、ここは今も唯一現存している「やよい」なんですね。「やよい」は、以前の屋号が「おしず」だったので!

花街が賑やかだった時は、夕方になると街は慌ただしくなり、お座敷前の芸者さんたちは三時ごろには銭湯へ行って髪結いさんに髪を結ってもらっていました。昔は料亭と料亭の間にも桜の木が一本ずつあったほか、タバコ屋さんのところに水門があり、「きよし」というお蕎麦屋さんのところの両脇には「二子三業地入り口」と書いてある街灯があったとのこと。

三業組合総出の行事 二子神社祭礼
引用元「高津区制40周年記念誌 たかつ ひと・まち・記憶」

年中行事もいくらか行われていましたが、中でも節分は特に華やかであり、二子神社で芸者さんが豆まきをするんですが、袋に5円とか10円が入っていてすご〜〜く人が始まったんですって!

どこかの料亭での座敷
引用元「高津区制40周年記念誌 たかつ ひと・まち・記憶」
屋形船での川遊び
引用元「高津区制40周年記念誌 たかつ ひと・まち・記憶」

こちらは多摩川に浮かぶ屋形船ですね。

神奈川県でいえば相模川沿いの厚木花街・水郷田名の花街、多摩川沿いの丸子花街でもそうですが、川があると料亭が屋形船を浮かべて芸者がおもてなしをし、川では花火が打ち上がるというのは割とよくあるケース。

二子でも、そんな光景が広がっていたようです。いいな~どんな光景だったんだろうな~。あと、おっさんがめっちゃカメラ目線www

戦前の二子三業地の様子
引用元「高津区制40周年記念誌 たかつ ひと・まち・記憶」

そんな二子の街並み、戦前はこんな感じだったそうです。

この界隈は普通の民家はなく、待合、料亭、芸者屋(置屋)などがひたすら建っていたようです。いや〜この当時の街並みを歩いてみたいものですぜ。どんな雰囲気だったんだろな〜。

そんな賑わいをみせていた二子三業地でしたが、日本が太平洋戦争に突入して敗戦になると、二子にも連合軍がやってくることになりました。花街の近くにはダンスホールができた他、花街にも日本人用と連合軍用それぞれの方々が利用する料亭に分けられました。

とはいえ、1958(昭和33)年に施行された売春防止法を受けたことで、多くのお店が廃業してしまいました。

その後、高度経済成長で景気も良くなりだんだん成り手が少なくなってくると、この辺りのお店は一斉に辞めてしまい、三業組合も解散しようという話に。。若い芸者さんも違う土地へ移って行ってしまいました。。

料亭「やよい」の女将さんの話では、二子には昭和50年頃まで芸者さんがいたと話していましたよ。

そして、料亭だった場所には新しい戸建てやアパートが建つようになり、閑静な住宅地となっていきました。

「二子三業組合」の銘が入った街灯

今では、二子新地最後の料亭である「やよい」が残り、花街だった場所には点々と「二子三業組合」の銘が入った街灯が12本残るだけに。

ただ、神奈川県内でいえばこれだけ残ってるだけでもまだ残っている方かもしれないですね。今まで、県内では掃部山、日本橋、井土ヶ谷、上大岡、蒔田、戸塚、藤沢、小田原などなど結構いろんな場所を調べてはきましたが、ほっとんど名残ないっすからね( ;∀;)

ということで二子三業地の背景はこのくらいっすかね。大まかにでもご理解いただければ幸いでございます!

おわりに

という感じで、ざっくりですが関東大震災や二子橋誕生をキッカケに誕生した二子三業地に関してまとめてみました!

ただし、冒頭でも書いたようにこの記事には続編があります!

二子三業地最後の料亭「やよい」

この二子三業地には今でも現役の料亭「やよい」が残っており、その館内の撮影と女将さんに話を聞く機会があったということで、その内容をまとめた記事になります!

どうぞ、ご覧になって見てくださいね〜( ̄▽ ̄)

参考文献

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詳細・地図

住所 神奈川県川崎市高津区二子1丁目7周辺
アクセス 二子新地駅から徒歩5分弱

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