神奈川県の相模川沿いに歓楽街が存在した!?水郷田名に存在した花街の歴史とは!

↑更新情報等はTwitterにてm(_ _)m
今回は、神奈川県にかつてあったと思われる私娼窟に関する調査記事です。というのも、神奈川県の相模原市のとある場所にはあまり知られていなかった私娼街があるという情報を仕入れたんですね!!
今まで神奈川県にある遊郭跡・私娼街跡(赤線・青線跡)はだいたい調べており、記事にまだできてない場所も調査中でありもう神奈川県は網羅したかと思っていたのですが、調べるとまだ全然目をつけてなかった場所にあったようなんですわ!
ということで、その場所について調べたことを以下で書き連ねていきたいと思います(^ ^)
本記事のポイント

・相模川の川沿いにある水郷田名(旧:久所)にはかつて花街が存在した
・久所は、かつて大山街道の宿場町でもあったことで多くの人で賑わった場所
・大鷲神社が今も現存し、昔は酉の市も行われてた

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相模川沿いにある「久所」という謎の場所

神奈川県の中心部を南北に流れる相模川。神奈川県の60%ほどの水道を供給している一級河川であり、昔はここの砂利をコンクリート製造などに使うために、その運搬として相模線が敷かれたり、あとは八王子に集積された絹がこの河川を使って運ばれていたりもしたという説もあったりと多くのネタを持つこの河川。
そんな相模川の河川沿いには田名村(現:相模原市中央区水郷田名)という村があり、なんとここに昭和の初めころの時代に花街があったんだそうです。位置でいうと上の地図の場所になりますが、大まかなのでもう少し拡大してみましょう!!
 
ん〜こんな場所にあったんかいな!元々は田名村久所(ぐぞ)という地名だったそうですが、後に今現在の水郷田名という地名へと変化を遂げています。
今回の記事は、あまりに資料が少ないため現地からの声を聞かないと大した記事にならないと思っていたので、取材に行った時には何とかして現地の方を捕まえたいわけです!そんなつもりで現地へと足を運ぶことにしたわけですが、まずは電車で最寄駅だと思われるJR上溝駅へと降り立ちました。

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まずは地元の資料館を訪問してみた!

▲水郷田名の最寄駅であるJR上溝駅
JR上溝駅は相模線という関東の中でも一応マイナー路線に入るであろう路線が通る駅なんですね。この相模線は相模川の砂利を運ぶために作られた路線であり、路線のカラーも川の水をイメージして水色が用いられています。
そんな感じで相模線に関して語りたいことはたくさんあるわけですが、相模線の話はこのくらいにして水郷田名がある西側へと歩いていくことにしました。
↓↓相模線に関しては、以下の記事にまとめてありますので見てみてくださいm(__)m
しかし、地図を見ていただくとわかるのですが水郷田名はアクセスが悪い。上溝駅からは歩いて1時間くらいかかるんですわ。まぁバスが通っているのでそれに乗ればいいんですけども、バスにギリギリ間に合わなかったということもあって歩いていくことにしましたぜ!
あ〜そろそろ中古車でもいいから車買おうかな〜と結構真剣に考えたりするんですが、なんだかんだ言ってそんなに頻繁に使うわけでもないし維持費かかるし、でも毎回使うときにレンタカー予約して営業所まで行くのもめんどくさいし。。
▲田名の歴史が学べる「相模田名民家資料館」
そんなことを考えながら到着したのが、相模田名民家資料館です。まずは水郷田名を訪れる前に、ここで資料館の方から情報収集ができないかと考えていたのです。
予想通り、館内には係りの方以外誰もいなく独り占め状態!!この資料館では、田名が長い間養蚕が中心だったということでその歴史に関してを展示していました。田名だけでなく、八王子、さらには甲信越地方など広い範囲で幕末あたりから日本は生糸の一大輸出国であったんですが、その辺は話が長くなるのでカットしましょう!
↓ここで作られた生糸は「絹の道」と言われた道を通って横浜まで運ばれていましたが、その辺は以下の記事にまとめてあるので、見てみてくださいm(_ _)m
▲昔の地図を見せつつ昔の話を伺う
館内を観察した後、係りの方であるおばちゃん二人に花街だったということについて何か知っていないか聞いてみることにしました!
私:「すみません、水郷田名って昔は花街で旅館が今よりたくさんあった街だったと伺っているのですが・・」
係り:「そうですね、私たちも親からそんな街だったと聞いてはいるんですが、詳しいことはわからないんですよね。」
やはり、当時の事を覚えている方にそう簡単には出会えないか。。ただ、今はここにいないがこの資料館の関係者である加藤さんという方だった話せるかもしれないという展開に(*’▽’)
係り:「少し前まででしたら芸者さんだった方も生きておられましたけどね、今はどうなんでしょうか。。あっ、加藤さんだったら知ってるかもしれない。」
私:「加藤さん??」
係り:「はい、今いないんですけどね。この方はここで長く暮らしている方なので昔のことなら知っていると思いますよ。ちょっと、電話して聞いてみましょうか??」
私:「あ〜本当ですか、すみませんお願いしますm(_ _)m」
すると、係りのおばちゃんが加藤さんという水郷田名に詳しい方に話を聞けるか電話で打診していただけることに。
係り:「加藤さん大丈夫ですって。高田橋という橋の近くに、という大きな看板を掲げた建物があるので、そこを伺ってみてください。」
私:「わかりました、ありがとうございます。」
という感じで、なんとか希望をつなぐことができたわけです!果たして、加藤さんから貴重な話を聞けるのか??
祈る気持ちのまま、いざ花街だった水郷田名へと足を運んだのでした( ´ ▽ ` )ノ

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いざ、加藤さんがいる観光協会へ!

相模田名民家資料館から、加藤さんがいる水郷田名観光協会までは歩いて10分くらいかと。資料館のおばちゃん達に最短ルートを教えてもらっての徒歩移動。その途中には、当時の名残りなのか割烹旅館が姿を現しました。
そして、この場所の名物は鮎(アユ)料理です!相模川で採れたアユを使うわけですが、花街時代もお客さんにはふんだんにアユが提供されていたんでしょうな~~。
▲かつて花街として栄えていた水郷田名の街並み
割烹旅館を過ぎると、今度は坂を下っていきます。下って行って出現するこの街こそが、かつて花街として栄えていた水郷田名の街並みになります。この写真からは確認することはできませんが、住宅地と森が広がるエリアの境目に相模川が流れている形になります。
ここに来る前に地図くらいは確認してきたのですが、写真を見ての通り今現在は完全に住宅街となっていて、今現在は当時の名残はほぼないという残念な状態っす( ;∀;)
そして、資料館のおばちゃんの言うとおりに歩いていき、無事に観光協会に到着。なんか誰もいなそうな雰囲気でしたが、この建物の2階で加藤さんは私が来るのを待ってくれていたのでした!!

花街として栄えた水郷田名の歴史とは??

あ~加藤さんいた~(*’▽’)
観光協会の中には、加藤さんただ一人だけスタンバッてくれていました。加藤さんは、どっちかというとテンションが高いというよりかは静かに語り出すというような感じのおじいちゃん。ずっと地元に住んでいた方ということで、水郷田名が花街だった頃の話など、いろいろなことを教えてくれました( ´ ▽ ` )ノ

大山詣りへの宿場町として栄えた田名村

田名村は明治時代は畑が広がる村であり、農業が盛んだった街だったとのこと。専業農家や兼業農家が多く、その他には漁家や養蚕を行っていた家もあったそうです。そしてこの久所という場所は、近世中期には大山道を歩く大山詣りの方々たちの往来で賑わったそうな。
さらには、豊富に鮎が採れるということで大山詣りに訪れたお客さんにはふんだんにあゆ料理が出されたんでしょうな〜。
「大山詣り」という言葉が出てきましたが、これ知の冒険の読者さんであれば何度か別記事で出てきているのでお分かりの方もいるかもしれません。ここでは簡単に書きますが、江戸時代中期以降からは山岳信仰が盛んになり、神奈川県の丹沢山系に含まれる大山は特に信仰者が多い山でした。
※「今昔マップ on the web」を元に作成
渋谷の道玄坂を通る道、藤沢や平塚方面からの道などなど、大山を訪れるための道である大山道が整備され、江戸からなど各方面から大山の信仰者が大山道を通ったのです。で、特に田名では埼玉の西側から大山を目指す方が八王子を経由して訪れていたそうで、大山の一つ手前の宿場町だったようですよ!
ただし、大山詣りが盛んだったのは江戸時代の中期ごろ。その後は鉄道の発達によって大山へ歩いて訪れるお客さんが減ってくると、久所は宿場町から歓楽街へと変貌していったという。そこから花街が形成されていったようなんですな!!
そして元々は「久所(ぐぞ)」という地名だったのですが、その後に水郷田名として今の地名になっています。

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釣りに来ていたお客さんが芸者遊びをしていた

江戸時代中期頃のようなだいぶ昔となると、この場所は大山参りのお客さんが宿泊する宿場町でした。その後、歓楽街として変貌していくと村の若者だけではなく隣群の者も暇さえあれば一度は足を運んだエリアだったそうです。
ここは歓楽街、つまり花街として栄えていただけでなく売春も行われていたとのこと。つまり、私娼街としての一面も持っていたようです。料理屋が立ち並んでおり、そこで芸者さんに接待していただいて飲み食いをした後に宿泊して・・という感じの街だったんですかね。
ただ、戦後からは釣りのお客さんが多かったと加藤さんはおっしゃっていました。昔は東京の神田辺りからここに釣りに来た方が多く、昼間は釣りを楽しんで夜は芸者遊びをするという方が多かったんだそうですよ!
ただし、相模川があゆの名産地として栄えたのは昔のこと。時代が進み、上流にダムができたり相模川の砂利採取によって河川が汚染された関係で鮎は激減しているという。
▲相模川で釣りを楽しむ人々
今現在も釣り客を楽しんでいる方はたくさんいらっしゃるようですが、お客さんが芸者遊びまでしていた頃は、皆が電車とバスで来ていたんですね。そのころはまだ皆が自動車を持っていなかった時代。淵野辺駅まで電車で来て、そこからバスに乗って水郷田名へとやってくるというのが定番だったんですって。
その後、花街だった風景も薄れていき、皆がマイカーを持てる時代にもなったことからお客さんは電車ではなく車で来るようになったという。東京からだったら日帰りで帰れるということで、ここに泊まらなくなったそうです。
今現在も相模川の淵に立つ大きなマンション。昔から建っているマンションなんだそうで、ここには釣りをして休みの日とかに泊まるためのいわゆる別荘的な役割で購入した方が多いんですって。

水郷田名で80年間暮らしている加藤さん

▲この街の歴史について教えてくれた加藤さん
加藤さんは親の代からずっとここに住んでいる方だという。今現在80歳ということなので、加藤さんは戦前生まれ。太平洋戦争の時は小学生だったという。
加藤さん:「私が小さい頃は華やかな街でしたよ。夕方になると太鼓や三味線の音が聞こえてきてね。一番栄えていたのは昭和20〜30年代あたりだったかね~。置屋さんは10軒くらいあってね、置屋から芸者さんが旅館に向かうでしょ。栄えていたときなんかは芸者さんが100人くらいいたんじゃないかな。だから、この辺は芸者さんがたくさん歩いていたよ!」
私:「この辺は、花街としてはいつごろまで栄えていたんですか?」
加藤さん:「花街としては昭和40年代頃までだったかな。」
私:「今は、旭屋くらいしか名残としては残っていませんもんね。。」
加藤さん:「ここの隣は、松本旅館っていう旅館だったんだよ。とっても美人な女将さんでね、この辺では『かわいい美人の女将がよそからやってきたぞ!』ってことで有名だったんだよ。そんでこっちの方には金子って旅館があったかな。あっ、確か下の方に昔の写真があったかな・・」
▲かつて水郷田名にあった割烹旅館「大黒屋」
加藤さんが見せてくれた写真は二枚。ともに「大黒屋」という割烹旅館で、この旅館は相模原市の旅館組合や飲食店組合が出来た時の会長さんの旅館だったそうです。この写真は1959年のものということで、売春防止法が完全施行してから間もない頃ですね。
この大黒屋は今現在はありません。以前は、盛田屋、料亭舟本、松本旅館、高乃旅館、割烹福本、割烹西田屋、割烹えびのなどなど、昭和の頃まではたくさんの割烹旅館や料亭が残っていたそうです。
話を聞いていて、加藤さんが「何か冷たいものでも飲みますか?」といってくれて、お茶までいただきました( ´ ▽ ` )ノ
いと、ありがたし!!

どのような女性たちが芸者をしていたのか?

ここで働いていたのは芸者さんだったわけですが、いわゆる夜はお客さんと一夜を共にするということも行われていたと聞きました。つまり、ここは私娼街でもあり戦後でいう青線地帯だったようです。
赤線と青線とは?

【赤線地帯】
公的に特殊飲食店街として認められた一帯。公的とはいえ、売春は認められてはいないが、黙認されていた地帯(黙認ということに関しては、今のソープランドと同じと考えていいかと思います)。遊廓街→赤線地帯となった場所が多いかと。
例:吉原、川崎南町、横浜眞金町などなど
【青線地帯】
公的に認められていた赤線地帯に対し、公的に特殊飲食店街とは認められていないとされていた売春地帯。銘酒屋街やモグリの売春街とか。公に求められた公娼に対して、私娼(公的に認められていない売春婦)がいたため私娼街とも言われていた場所。
例:玉の井、川崎堀之内、横浜黄金町などなど
▲花街に関しての痕跡がないか探してくれた
女性たちはいったいどこからやってきた方々だったのかは不明ですが、資料を見る限り昭和の前半頃は、借金を背負わされてどこからかやってきたのだという。ただ、ここではそうそう借金を完済できるような仕組みにはなっていないため、年期を5年と定めていても、とてもその期間に借金を完済できるような状態ではなかったという。
身請けされて(借金を代わりに払ってもらい勤めを終えること)外の世界に出れる者もいれば、借金を背負ったまま他方のお店に売られる(鞍替え)者もいたという。万一脱走をしようものなら、抱え主ご用達の内偵機関に追っかけられて捕まるという。
加藤さんが記憶の記憶としての芸者さんの話でいえば、芸者さんには一ヶ月に一回病気の検査はあったようです。あと、加藤さんはここの街の芸者さんと付き合ったことがあるという(笑)
加藤さん:「私はね、小学校六年生の時に初めて彼女ができたんですけどね、その相手の方は芸者さんでしたよ!」
まじか。加藤さん、やり手ですな(^ ^)

水郷田名に伝わる作者不明の「新田名音頭」

▲新田名音頭の碑
建物から外に出て、周辺の様々なものを加藤さんが解説してくれました。まずは、こちらの碑。何やら曲の歌詞が書かれていますが、何の曲かというと「新田名音頭」という曲。ん~全然聞いたことない音頭や。。
そして、この曲は作曲者と作詞者が共に不明であるという。元々は田名音頭というお座敷向けの音頭であったものの、その後新しい大衆向けの音頭を作りたいという声が上がったことで新田名音頭が誕生したという。
今現在、新田名音頭は相模原中のお祭りで歌われる歌なのだという。昭和56年にはこの歌の保存会が誕生したそうなのですが、その初代会長を務めた「加藤衛一」という方が今回話を伺った加藤さんのお父さんにあたるという。
あ、上の写真には「水郷田名三業組合」という名称も見受けられますね。三業とは何かというと↓こちらに説明書いておきます。
三業とは?

・料理屋
・待合(お客さんが芸者さんを待つ場所)
・芸者置屋(芸者さんがスタンバっている場所)
簡単に言うと、料理屋・割烹旅館などの組合の事で、上の三つの業種が集まって営業している地域の事。三業地なんて言い方もされます。ということで、いわゆる花街なんて言われた場所にはこのような組合があったわけです。
ここに書かれている方はほとんどがもう亡くなってしまっているという。ここには、加藤さんの名前も刻まれています。新田名音頭、youtubeで聞くことが出来たので聞いてみましたが、聞いたことがない曲でしたな~。
相模原で行われるお祭りでは流れるようですが、それ以外の場所では聞かない音頭なんでしょうかね??
続きはこちら!なんと、以前は酉の市も行われていた!?
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