極秘で行われたA級戦犯の遺骨奪還作戦!その全貌を調査したVol.5~ゆーとぴあ三ケ根を訪問

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現在のサンシャイン60がある巣鴨プリズン跡からはじまった、A級戦犯で死刑となった7名の方の遺骨を辿る記録。今回は、愛知県の三ケ根山にある「ゆーとぴあ三ケ根」を訪れた際の記事になります。
三ケ根には、殉国七士廟というA級戦犯で死刑になった7名の方々の遺骨が祀られているという旨を、前回の記事に書きました!!
↓↓前回記事はこちら!!
で、今回はその三ケ根にある「ゆーとぴあ三ケ根」という施設を訪れた際の記事になります。ここを管理している伊藤さんから聞いたゆーとぴあ三ケ根の歴史や今を取材しました!!
本記事のポイント

・ゆーとぴあ三ケ根は、東條由布子さんが建てた慰霊施設だった
・今現在は、由布子さんの意思を継いだ伊藤弘さんが管理している
・ゆーとぴあ三ケ根には、現地で使われた軍服などが多数展示されている

「ゆーとぴあ三ケ根」を訪問した背景!

前回の記事でも書いたように、愛知県の三ケ根山にはA級戦犯で死刑になった7名の方々の遺骨が祀られているということで訪れたわけです。ここで手を合わせ、一通り調査をしたかなということで三ケ根を後にしようとしたわけです。。
▲殉国七士廟の慰霊施設だった「ゆーとぴあ三ケ根」
しかし、三ケ根を去る際にたまたま見かけたのがこの「ゆーとぴあ三ケ根」という喫茶店でした。もしかしたら三ケ根に関する何かしらの話を聞けるのではないかということで、念のため訪問をしてみたわけです。
すると、館内には軍服やら小銃やら戦争関連と思われる品々が・・。そんで聞いてみると、ここは東條英機氏のお孫さんである東條由布子さんが管理していた慰霊施設だったわけです。7名の遺骨を辿って神奈川県から来たという旨を伝えると、ここを管理している伊藤弘さんがその背景等をいろいろ話してくれたというわけですな(*’▽’)

「ゆーとぴあ三ケ根」の背景とは!?

今現在は、伊藤さんが管理しているこの施設ですがもともとは東條由布子さんが管理さえていました。由布子さんの生涯とともに、背景を以下に書いていきます。

東條由布子さんはどのような方だったのか?

▲館内に置かれていた由布子さんの写真
この「ゆーとぴあ三ケ根」は、太平洋戦争開戦時の首相であった東條英機氏のお孫さんである東條由布子さん(本名:岩波淑子さん)が殉国七士廟などを慰霊するための施設として管理されていた場所でした。
由布子さんは、「NPO法人環境保全機構」の代表として遠く離れた太平洋の島々などに眠る戦没者たちの遺骨収集を行っていた他、台湾でダムを作ったことで知られる八田與一(はったよいち)氏の顕彰活動として桜の木を植えたりと多方面で活動をされていました。
しかし、由布子さんは2013年に他界されてしまいました。肺を悪くしていたようで、亡くなる5年ほど前からよく咳き込むことがあったようです。由布子さん、、、もう少し早くここの存在を知っていれば、由布子さんに会えたのにな。。

東條由布子さんの苦労を重ねた生涯

▲由布子さんが幼い頃に育った、伊東市の街並み
由布子さんは本当に小さい頃から大変な苦労をされていたようです。東條家の方々は、「東條」という名字だけでひどい扱いをされ、由布子さんの兄が小学校に入学した時には先生方が担任になるのを拒否して授業に出られなかったり、父が働いていた会社(日本窒素株式会社)をクビになったり。弟さんは、担任の先生に「この子のおじいさんは、泥棒より悪いことをしたのよ」とまで言われたという。
戦後、敗戦の雰囲気が残ったままの日本では、東條英機によって日本が戦争に巻き込まれ敗戦したということで、東條家に対する目は大変冷たかったとのこと。殺害予告などの手紙が送られ、戦後の貧しい日本、人々の絆が心の支えだった当時は本当に生きるのに苦労したとのこと。
そんなこともあって、東條家にはいつでも自決できるように人数分の青酸カリが配られたりもしたのです。実際に、それが使われることはありませんでしたが。。しかし、同じA級戦犯で死刑になった広瀬弘毅氏の奥さんは、夫が気負いなく天国に向かえるようにと、先に鵠沼の自宅で自決してしまいました。さらには、東京裁判で裁かれなかったBC級戦犯の方々は、戦地の方で裁かれ無残な亡くなり方をした方が多く、残された家族も世間の目もあってかなり苦しい暮らしをした方もいたという。。

由布子さんの遺志を継ぐ伊藤さんが管理を!

現在、ゆーとぴあ三ケ根を管理しているのは、伊藤弘さんという方。由布子さんとは、殉国七士廟だけでなく、外地の遺骨収集活動や八田與一さんの顕彰活動を行うなど共に行動されていました。伊藤さんは、私と話している最中にボソッと「東條さんは、私にとって神様でしたよ」とおっしゃっていたのが、とっても印象的でした。
▲三ケ根での活動を記録している写真
今現在、伊藤さんがゆーとぴあ三ケ根を管理しているのは、由布子さんの意志によるものなのだそうです。共に、英霊の方々のために共に活動をしてきたということで、安心して伊藤さんにここを任せたのでしょうね。
ちなみに、伊藤さんは元自衛官。本来なら年金で全然暮らしてはいけるものの、由布子さんの意志を継いで使命感を持ってここで多くの方に三ケ根の歴史を伝え続けているのです。

「ゆーとぴあ三ケ根」に展示されている品々

由布子さんの写真の近くには、すごく薄れた写真が掲げられていました。この写真は、東條家が集まって首相官邸で取られた集合写真。中央で帽子をかぶって椅子に座っている方が東条英機、そして東条英機氏の右隣(こっちからみると左隣)にいる小さい子が、由布子さんです。
数年前までははっきり写っていましたが、徐々に薄れてしまい今の状態になっているそうです。この写真は由布子さんの書籍にも記載されている写真ということもあり、東條家でも大切にされている写真なのだと思います。
そしてこの場所には、多くの軍服や水筒など実際に戦地で使われた品々が展示されている他、戦争関連の書籍も多く並べられています。これらの者は、殉国七士廟そして三ケ根観音周辺に祀られている慰霊碑にかかわる方々から送られた品々なのだとか。
水筒は蓋がついていないものが多く、蓋がついているものはとても貴重なのだとか。
こんな感じで、鞄やら軍服・水筒などなどが並べられていました。三ケ根に建てられた慰霊碑に祀られている戦死者の遺族の方々が、ここに持ってきてくれたものだという。というのも、自分たちが持っているよりもこういう形で展示される方が有効だということらしい。。
ここに置かれている書籍も、戦死者の関係者などから送られたものだという。最近の本もあれば、めっちゃ古い旧字体で書かれていて何て書いているかわからない本などもたくさんありました。
入り口付近には、旗的なやつや小銃のようなもの、あとは麻雀牌なんかも置いてありました!!

開勇さんという憲平隊長の生き様

館内にあるこのような封筒にも東条由布子さんの名前が。ただし、そこには「開勇(ひらきいさむ)」という方の名前も。この方はいったいどのような方かを尋ねると、この方は生涯をかけて世界各地の捕虜収容所で処刑された1,618名の詳細を調査して大変な苦労の末に名簿を作成した方だったのです。
▲名簿が奉納されている、伊豆山の興亜観音
興亜観音は、前々回でも出てきたようにA級戦犯で死刑になった7名の方々の遺骨が眠るお寺です。ここは7名の方の遺骨があるわけではなく、開勇さんが作成した名簿も奉納されております。興亜観音は、大変険しい山の斜面に位置している場所であり、参拝するのも一苦労なわけです。
ここは、伊丹忍礼という方が新潟からこちらのお寺の住職として住まれ、今現在は娘さんがここのお寺を守っておられます。伊丹忍礼氏がここに来られた時には、貧しい生活を続けており、ここまで水道が引けなかったとのことで麓から生活水をもって上がっていたという。
その後、立正佼成会の方々の援助があり、昭和60年に水道が引けるようになったそうです。それほどの険しい場所で、A級戦犯の方々の遺骨だけでなく開勇さんが作成した名簿も奉納されているのです。
異国の地で戦犯となった方々は、監視兵に殴られ、執拗な拷問を受けるほか、真実を述べる機会も与えられずに無念の死を遂げた方々が大勢いたとのこと。彼らBC級戦犯とされた方々は、遺族の方々も本国で世間の目を避けながら生きた方々や、婚家先からも戦争犯罪者の家族として疎まれてしまったケースもあったという。
その後、開(ひらき)さんと由布子さんの二人がなくなった後には、2016年に靖国神社にてお二人の慰霊祭が行われたそうです。そこには、櫻井よしこさんや井上和彦さんなどの著名人の他、那須にある戦争博物館の館長である栗林氏なども参加されたとのこと。ゆーとぴあ三ケ根にはその時に使われた看板的なものが展示してありました。

伊藤さんからは、様々な話を聞いた!

ゆーとぴあ三ケ根には、1日に数名の方が訪れるようです。伊藤さんと奥さんは、その訪れる方々にここの歴史を伝え続けています。私が訪れた時も、親切に様々な質問に答えてくれました。
▲暖房はないため、伊藤さんとストーブに温まりながら・・
ゆーとぴあ三ケ根には、2017年から2018年にかけての年末年始に2度訪問して、計6時間近くは話したでしょうか。三ケ根の背景、太平洋戦争の出来事、東條由布子さん・開勇さんの話、八田與一さんのはなしなどなど本当に多く事を話してくれました。
ずっと朝から長いこと話していて、気づいたらお昼に。「あまりものでよければ」ということで、奥さんがうどんを作ってくれました。いと、ありがたし。
由布子さんに会えなかったことは少し心残りに。しかし、その遺志を継いだ伊藤さんにこうして出会い、三ケ根の事や太平洋戦争のことなど様々な話をすることが出来て本当に良かった。

三ケ根観音に建てられた慰霊碑の背景

最後に、三ケ根観音周辺に建てられている慰霊碑に関しても触れようと思います。ここには様々な観音像、特攻隊員の慰霊碑、フィリピンなど様々な外地で亡くなった方々の慰霊碑、戦争に駆り出された動物たちの慰霊碑など多数の忠魂碑が建てられています。
三ケ根観音周辺で、一番最初に建てられたのはこの比島観音(ひとうかんのん)でした。フィリピンなどで戦死した方々を弔うために立てらてた観音様です。そのあと、この観音を筆頭にいろいろな慰霊碑が建つようになりました。
実は、戦後から60年安保闘争までは、村や学校など色々な場所に戦地で亡くなった方々を祀るために忠魂碑を建てていたのだそうです。ところが、60年安保を機に忠魂碑を建てることが世情的になかなか難しくなった背景があったそうです。
そんな中、三ケ根山にある三ケ根観音の住職さんが元々戦争経験者だったこともあり、忠魂碑を建てたい方々が住職のもとを訪れ、この周辺に建てることを許可したという。
一通りここに建てられている碑を見て回りましたが、今現在はどの碑もとてもきれいに維持されているようです。伊藤さんをはじめ、多くの方々によって清掃されて保たれているようですが果たして次の世代まで保たれていくのかが心配。
地元の方もここはほとんど関心がないというか知られていない場所のようで、戦争に対する関心も薄れている状況ではあるものの、先人の想いを後世に残していってほしいものです。

おわりに

ゆーとぴあ三ケ根へは本当に訪れて良かった。知の冒険を始めて約3年。少しでも多くの方に日本の知られざる場所や背景を知ってもらいたいと、探しては突撃取材を敢行し続け。。
そんな中辿り着いた三ケ根。伊藤さんと出会ったことは本当に大切な思い出になりました。ほとんどの方に、さらには地元の方でさえあまり知られていないこの三ケ根を由布子さんと伊藤さんは守り続けてきました。伊藤さんだけでなく、伊藤さんに賛同する多くの方々も。少しでも三ケ根を訪れる方が増えると、伊藤さんも由布子さんも喜んでくれると思います。
今の私達の便利な生活は、突然手に入ったものではありません。先人たちの努力や数々の犠牲、そして様々な運によって我々は今こうして生きて行くことができています。その方々を想うことを忘れ、意識もせずに過ごして行くといずれ痛い目を見るわけです。なぜかというと、我々は歴史からでしか学ぶことができないから。
そのような歴史のバトンを今までつないでくれた方々への感謝が薄れることは大変悲しい。日本中にある神社仏閣や様々な慰霊碑は、先人達が残してくれた我々が今後生きて行くための道しるべなのです。大切にしましょうね!
そして、三ケ根を訪れたもののまだ訪れていない場所があるのです。それは、長野県にある七士の慰霊碑。7名の遺骨が焼かれた横浜の久保山火葬場長であった飛田さんの地元ということで、長野県のある場所にも遺骨は弔われているのです。ということで、この記事の続きはまだまだ続きます(*’▽’)
次の記事は、長野県に行くかそれともこの内容に関する別の場所か。長野県はまだ取材していないので続編は少し先になるかもしれないですが、その間は他の内容の記事は引き続き投稿していきますので!!
まだまだ、次に続く!!

参考文献

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詳細・地図

住所 愛知県西尾市東幡豆町大境18−80
営業時間 不明(電話で伺った方がいいかもです)
定休日 不明(電話で伺った方がいいかもです)
TEL 0563-62-3228
リンク https://loco.yahoo.co.jp/place/g-dXryXNoF41-/
備考 車で伺う場合は、三ケ根スカイラインの通行料420円が必要です。

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