極秘で行われたA級戦犯の遺骨奪還作戦!その全貌を調査したVol.2~横浜の久保山訪問

本記事は、前回記事の続編になります!
↓↓前回記事っす
前回は、以前に巣鴨刑務所があった池袋を訪問したことに関する記事を書きましたが、今回は横浜の久保山墓地を訪問した内容になります。
なんで、久保山なのか?そして、そこではどんな物語があったのか??
そこでは、A級戦犯の方々の遺骨を奪還するという極秘作戦が実行されていたのです!!
本記事のポイント

・A級戦犯死刑囚7名の遺体は、横浜の久保山火葬場で焼かれた
・その後、米軍から遺骨の一部を見事奪還成功!
・奪還後は、興禅寺の住職が場所を変えながら保管していた

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A級戦犯の遺骨は久保山で焼かれた!

▲7名の遺体が焼かれた久保山火災場
前回の記事で書いた通り、東京裁判で絞首刑となった7名。彼らは、巣鴨刑務所で刑が執行された後に、2台の大型トラックで横浜の久保山火葬場へと運ばれ火葬されることになります。
そして、昭和23年12月23日に火葬が行われたのです。
火葬された後、7名の遺骨は太平洋に散骨されてしまいました。ところがどっこい、その背後では、彼ら7名の遺骨の一部を奪還する計画案を考えた男たちが現れ、ひそかに遺骨を奪還する計画が行われていたのです!!

興禅寺が関わった「遺骨奪還作戦」とは?

▲遺骨が安置されていた興禅寺
久保山火葬場で焼かれたA級戦犯である7名の遺体。東京裁判の弁護人であった、三文字正平氏、林逸郎氏は進駐軍の意図を見抜いて、7名の遺骨がばらまかれるような雑な扱いをうけないようにすべく、遺骨を取り戻す計画を考えたのです。
彼らは弁護人という立場から、火葬が久保山で行われることを察知していました。そこで、三文字は、近くの興禅寺の住職である市川伊雄師と飛田火葬場長を含む3人で久保山火葬場から遺骨を奪還するための打ち合わせを行います。
火葬が終わった7名の遺骨は、なんと米軍によって麻雀牌を混ぜるようにしてごちゃごちゃに一つにまとめられてしまい、黒塗りの箱に詰めて持ち去られてしまいます。しかし、箱に詰める際は詰め方が雑であったため、いくらか余った骨らが残り、コンクリートの穴に捨てられたのです。
その余った骨を奪還すべく、米軍の占領下にあった久保山火葬場に三文字、飛田、市川の3人が黒マントに身を包んで、厳重な警戒状態であった火災場に侵入。遺骨が捨てられたコンクリート穴に忍び寄って、懐中電灯の明かりを頼りに竹竿の先に器をつけたものですくい集めました。
遺骨をスーツケースに詰めた後は、一時、興禅寺に保管をしたわけです。
興禅寺を訪れて、お寺の方に話を聞いてみました。話を聞いてくれたのは、70歳くらいのお母さん。話を聞いてみると、その作戦部隊の一人だった市川住職は、お母さんの夫の父親だったとのこと。興禅寺の脇に、上の写真の碑があり、ここにその出来事に関する内容が書かれているとのことでした!
石碑には、遺骨奪還作戦の旨が書かれていました。市川住職はいったいどんな方だったのでしょうね?奪還した遺骨はA級戦犯の方々のものということもあり、左翼的な方々は異論があるかもしれないですが、こんな作戦が行われていたなんて。。
本当に映画にでもなりそうな話でありますが、これを映画化したら思想の違いでちょっとした問題になるかもしれないですね( ;∀;)

奪還した遺骨は、熱海へと運ばれた!!

無事に奪還して、興禅寺に運ばれた遺骨。しかし、興禅寺では久保山火葬場に近すぎて危険極まりないわけです。そこで、三文字、林、飛田、市川等の人々とA級戦犯の七名の遺族らが秘密に打ち合わせて、最終的には熱海にある興亜観音というお寺に移すことになったのです。
興亜観音とは、A級戦犯の中の一人である松井石根(まついいわね)大将が、日中戦争によって犠牲になった方々を弔うために作られた観音です。この興亜観音は、赤軍派に爆破されたりした経緯がありますが、今現在も7名の遺骨が眠っています。
興亜観音に関しても、現地に行って取材済みなので、次回の続編記事で詳細を書きたいと思います!

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知られざる、光明寺の慰霊碑

久保山墓地管理事務所を訪れてみました。ここは、以前黄金町の記事を書く際に横浜大空襲の慰霊碑に関して聞きに来たことがあったので、訪問は2度目っす(‘ω’)ノ
そして、A級戦犯の方々が久保山火葬場で焼かれたことに関して聞き込みをしたところ、「ここからすぐの場所にある光明寺というお寺に、その方々を祀った慰霊碑が確かあったはずです!」という情報を得ることに!!ということで、光明寺に行ってみることにしました~!
本当にすぐの場所にありやした!!だいぶ閑散としたお寺のよう。。
そして、光明寺の境内をキョロキョロしていたところ、確かに慰霊碑がありました!!ただし、この碑はA級戦犯の方を祀ったというよりかは、A級・B級・C級関係なく久保山火葬場で焼かれた方々60名を祀った慰霊碑だという。
この碑は、有志によって昭和43年に建立された碑のようです。
なぜ、この碑が光明寺にあるのかを、住職に聞いてみました。すると、住職の方はその経緯を丁寧に教えてくれました。マジ感謝です(*’▽’)
あの碑は、有志らによって建立されたようです。しかし、建立した当時は東京裁判に関して日本の中でもきちんとした整理が行われていなかったとのこと。そのため、日本の中でもA級・B級・C級戦犯で有罪になった方々に対して否定的な方が多かったようなのです。そのため、碑を建立するにしても色々なお寺などで拒否されてしまったとのこと。。。
しかし、光明寺の当時の住職が、国の中の風潮には流されず戦犯と言えども日本人の先人を祀ることは正しいことだということで、碑を建てることを許可した。そのため、このお寺に碑があるんだそうです。
碑の裏には、A級・B級・C級関係なく、刑が執行された方々の順番で名前が刻まれています。A級の方々だけでなく、B級・C級戦犯となってしまった方々の中には、こちらの反論を一切認められず、あまりにも不当な判決によって死刑となってしまった方々もたくさんいました。

おわりに

本記事では、巣鴨刑務所から運ばれてきたA級戦犯7名の遺体が運ばれてから、熱海の興亜観音へと運ばれるまでに関してをまとめました。次回の記事では、興亜観音を訪問して住職の方に取材した内容から、遺骨が運ばれてからの興亜観音の出来事を中心にまとめようと思います!
↓↓続きはこちら!!

参考文献

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詳細・地図

住所 神奈川県横浜市南区清水ケ丘225
TEL 045-231-7590
アクセス 南太田駅から徒歩20分ほど
リンク https://ja.wikipedia.org/wiki/興禅寺_(横浜市)
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