ちょんの間街からアートの街へ!平和をとり戻した黄金町物語Vol.3~横浜大空襲

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1941年12月8日から始まった太平洋戦争。1945年8月15日に終戦を迎えるまで大東亜圏で戦いが繰り広げられ、多くの犠牲者を出し日本は敗戦をした。1945年には沖縄で多数の犠牲者を出し、連合軍は日本本土への攻撃に移る。その際には、1945年3月20日には東京大空襲がおこり、浅草周辺の街が大量の焼夷弾によって焼け野原と化した。
その後は5月29日に横浜大空襲がおこり、今度は横浜の街が狙われることに。その際に被害が大きかったのが、まさに黄金町だったのだ!

横浜大空襲の中で一番被害が大きかった黄金町

1945年に横浜を襲った横浜大空襲。その空襲の中で一番の被害を受けたのは黄金町のエリアだったのです。その原因としては、近くにある野毛山と現在の関東学院の場所には高射台があったからのようである。そんな黄金町を襲った横浜大空襲に関してもまとめてみることにした。

ついこの間までは、黄金町の駅に機銃掃射の跡が残っていたという。横浜大空襲の際には黄金町周辺の住民はこのガード下に逃げ込んだという。ところが、逃げてくる人は熱いからと遺体の下に逃げ込み、それによって遺体が積み重なっていったのだとか。ガード下では亡くなった方の体の脂が流れてコンクリートにしみていた。

また、黄金町の前を流れる大岡川にも空襲時には多くの人が飛び込んだ。川には人が飛び込みすぎてこちらでも遺体が重なるようになり多くの死者を出したという。

黄金町の駅周辺には、亡くなった遺体が積み重なっていたなど、その光景は壮絶だったという。横浜大空襲の遺構としては、旧平沼駅が知られている。旧平沼駅は京浜急行の戸部~横浜駅間にかつてあった駅であり、そのホームが今でも残っている。そのため、電車に乗って外を見ていると写真のような光景を目にすることができるのだ。京急に乗った際はぜひ!!

横浜大空襲の歴史を調べてみた!

黄金町駅周辺には横浜大空襲に関する慰霊碑などが数か所にわたって置かれていることに関して事前調査した。ということで、今回は上図の5箇所「円覚寺」「久保山墓地」「東光寺」「霞ヶ丘丘友会館」「普門院」に行って空襲に関する慰霊碑を巡るなどして空襲に関しての調査を行うことに!

巨大墓地がある久保山霊園へ

黄金町駅から上図のような順番で訪れた。まず訪れたのは、黄金町から北西側に位置する円覚寺と久保山墓地。久保山に向かい空襲に関する話を聞きに行くことに。

黄金町から久保山へは坂道をひたすら登って歩いて行かなくてはいけない。途中には霞橋という結構ご立派な橋もあるのです!こちらはかながわの橋100選にも選ばれている橋だ!

遺体の仮安置所だった円覚寺

黄金町駅から20分くらい歩いただろうか。ひたすら坂を上って少し息が上がってきたのだが、ようやく1つ目の目的地である円覚寺にたどり着いた。円覚寺というと鎌倉にある円覚寺が有名であるが、このお寺はその鎌倉の円覚寺を大本山とするお寺のようだ。名前が同じだからややこしい。

そんな円覚寺にはこんなご立派な鐘が佇んでいる。この円覚寺は、横浜大空襲で被害にあって亡くなった方々の遺体の安置所だったという。そんな背景がるということで、お寺の住職に横浜大空襲で亡くなった方々の慰霊碑があるか尋ねた所、空襲に関する慰霊碑は無いとのことだった。そして、「この辺のお墓に関しては久保山墓地の方に聞いた方がいいかもしれません。」という言葉をいただいたため、わたくしは久保山墓地の方々にアタックすることにした!!

久保山墓地管理事務所を訪ねた!

そしてこちらの久保山墓地の管理事務所に訪れることにした。「すみません、黄金町の歴史について調べているのですが、黄金町の周辺が横浜大空襲でかなり被害を受けたということで慰霊碑を探しているのですが、久保山に慰霊碑はございますでしょうか?」と伺う。
すると、「関東大震災の慰霊碑はすぐそこにあるんですけどね、ちょっと聞いてみますね?」ということでさらに詳しい方(受付の方のお父さんらしい)に電話で聞いていただけるとのこと。そしてその結果は、「うちが管理しているエリアでは慰霊碑は無いみたいです」とのことでした。しかし、「もしかしたらお茶屋さんが管理している他のエリアだったらあるかもしれないですよ」とまだ希望があるという。

そこで、事務所の方に久保山墓地の一覧と周囲のお茶屋さんが書いてある紙をいただいた。緑色の蛍光ペンでなぞられたのがお茶屋さん。ざっとみて11のお茶屋さんがあり、この久保山墓地は「市営が管理しているお墓」「お寺が管理しているお墓」「お茶屋さんが管理しているお墓」が混ざって成り立っているという割と複雑な構成となっている。
事務所の方から「お茶屋さんが管理しているお墓にもしかしたら空襲の慰霊碑があるかもしれないから聞いてみるといいんじゃない?」と言われたため、お茶屋にアタックしてみることにした。

そもそもお墓近くにある「お茶屋さん」とは何か?私は、いわゆる旅の途中に休憩するようなお茶屋さんを想像してしまったのですがそうではないようだ。お茶屋さんで清掃のようなお墓の管理を行うお店のことのようだ。
ということでお茶屋さんに話を聞きに行ったのだが速攻で敗北した・・。というのも1件目に突撃したお茶屋さんで「久保山に空襲の慰霊碑は無いね。三ツ沢の方に移っちゃったから」と言われてしまった。やはり、久保山にはもともとあったものの三ツ沢に移ったということで久保山墓地を後にした。

ちなみに、関東大震災の慰霊碑は管理事務所の裏の方に位置していた。関東大震災は1923年に発生して多くの被害があった出来事である。関東大震災に関しては私は知識不足であまりその詳細は理解していないため、またの機会に学んでみようと思う。

霧ヶ丘丘友会館にある慰霊碑

その後、東光寺の地蔵を見た後、東光寺から普門院に行く間には霧ヶ丘丘友会館という場所に訪れた。この建物の前にも空襲に関する慰霊碑が置いてあるというためだ。しかし、その背景などはよくわからなかった。。

背後には日付と「霧ヶ丘丘友会」の文字のみ。日付は、横浜大空襲がおこった日付が刻まれていた。

普門院で住職から歴史を聞く!

黄金町の駅の方に戻ってきて、今度は普門院に訪れた。ここには、黄金町周辺で亡くなった方々を鎮魂するための地蔵が祀っていあるというのだ。

そしてもしかしたら話が聞けるかと思い寺務所を訪ねる。
「すみません、横浜大空襲に関して調べておりまして」と尋ねると、たまたまか住職の方の手が空いていたようで話を聞くことができた。

寺務所の一室に案内していただき話を聞くことに!住職は御年72歳。体は十分ではないようではあるが、非常に明るい方で笑顔を交えながら私に話してくれた。この近く山側の方には防空壕が2つか3つあって空襲時に皆がそこに逃げ込んだようだ。しかし、逃げ遅れた方が多く、多くの被害が出てしまったと。ただ、横浜大空襲が起きたときは住職が3歳の時であったため、当時のことはほとんど覚えていないという。空襲に関しては「この辺りは本当にひどかったですよ、もう多数の焼夷弾によって焼け野原になったし本当に多くの方が亡くなってね・・。」という印象だったという。
今ではその痕跡は残っていないが、黄金町の駅は亡くなった方のたくさんの遺体が積み重なっていたようだ。「あんまり覚えてなかったから具体的な話が出来なくてすみませんね。」とわ言われたものの、当時を知る方からの話はやはりリアルに伝わってくるものがあった。

この普門院を訪れる目的だった黄金地蔵はこちらに置かれていた。元々は駅の近くに置かれていたものだったが、パチンコ屋ができるからということで寺院に移されたものなんだそうだ。
ちなみに普門院は500年もの歴史を持つ寺院だという。元々は戸部の方にあったようであるが、戸部に200年そしてこの地で300年もの歴史を経ているという。今では息子さんが住職の職を継ぐようにしているそうであるが、お寺は「後継ぎがいないと次いでいけないですから」という話もした。また、普門院は真言宗のお寺でもあることから住職は今でも毎年高野山に行っているという。私も1年前に高野山に行ったため、ちょっと高野山に関する雑談もして普門院での取材を終えた。

ちなみに住職の方からは「せっかくだから持って行ってください」ということでボンタン、ミネラルむぎ茶、お菓子をいただいた。ボンタンは高野山から送られたものなんですって!いや~話をしていただいてこっちがお礼しなきゃいけないのに本当に申し訳ない。。本当に普門院の方は親切な方だった。

ちなみにであるが、そんな黄金町駅の近くには戦後70年が経ってもいわくつきの場所が残っているという。それがこちらのとあるコインパーキング。なぜか知らないがこの場所に建物を建てようとしても、建物をうまく建てられず今の駐車場になっているという。

普門院を訪れた後は、黄金町駅から京浜急行と横浜市営地下鉄線を乗り継いで三ツ沢墓地がある三ツ沢上町駅へと向かった!

三ツ沢墓地へと向かう

三ツ沢上町駅を降りて三ツ沢墓地へと向かう!以前は三ツ沢公園にある2本の巨大鉄塔の記事を書いたが、今回は三ツ沢公園へは行かず駅から反対方向の墓地へと向かう!しかし、また坂である、墓地は高台に多い場所にあるという方程式があるのか知らんが、行くのに毎回坂を登らなくてはいけないのがつらい。。もうすぐ30歳だし。。

そして歩いて15分くらいで三ツ沢墓地に到着。しかし、横浜の住宅地にこんだけ広大な墓地が残っているなんて。そして、私が探している横浜大空襲の慰霊碑はいったいこのうちのどこに置かれているのだろうか。

そして管理事務所に向かおうとするも、事務所の場所もわからずうろうろしていて結局20分くらい歩いてようやく発見。事務所のすぐ横にありました。こちらが、久保山から移された横浜大空襲の慰霊碑のようだ。見つけてよかった。
横浜大空襲は1945年5月29日9時22分~10時30分までの1時間にわたってB29によって空襲を受けた。少し前の3月20日におこった東京大空襲に比べ1.5倍の量の焼夷弾が落とされ、黄金町周辺では1,300人近くの方が亡くなったという。
今の横浜からは空襲で焼け野原になったなんて全く想像がつかないが、多くの先人達が被害にあったことを考えるとなんだかな~という気持ちになるな。最後に数秒手を合わせて、三ツ沢墓地を後にした。

阪東橋駅にある平和記念碑

三ツ沢上町駅から横浜市営地下鉄線に乗り再度関内方面へと向かう。そして関内駅を通り過ぎて阪東橋駅まで向かうことに!電車に乗っている時間はそんなに長い時間ではなかったが、爆睡して危うく駅を通り過ぎちゃうところだった・・。

こちらが阪東橋駅前にある平和記念塔。こちらは1992年5月29日に建てられた慰霊塔で、横浜大空襲から47年経って建てられた塔ですね。正面に書かれている「平和記念塔」の文字は当時の横浜市長であった高秀秀信氏のご揮毫なんだそうだ。

慰霊碑の上にはモニュメントが建てられていた。

おわりに

この章では戦時中に黄金町が大きな被害を受けた横浜大空襲に関して紹介した。慰霊碑を巡り住職からお話も伺うことができた。売春街というイメージが残る黄金町であるが、その時以前にも空襲によって多くの遺体が積み上げられていたという歴史も秘めていたとは何とも波乱万丈な街である。

参考文献

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詳細・地図

住所 神奈川県横浜市中区黄金町2丁目
駐車場 周辺にコインパーキングが多数あり
アクセス 黄金町駅から徒歩1分
リンク https://ja.wikipedia.org/wiki/黄金町

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