ちょんの間街からアートの街へ!平和をとり戻した黄金町物語Vol.4〜ちょんの間街の始まり

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1945年8月15日、戦争が終わり日本は敗戦国となった。
横浜大空襲では市街地の半分近くが焼けてしまったのです。戦争が終わった後、現在の関内周辺の街は米軍によって接収されることになります。数字にすると、市街地の30%近く、そして港湾エリアは90%近くが米軍に接収されることに。。。
戦後は、多くの街では復興事業を興して都市計画が行われていました。例えば名古屋では100m道路を作ったり。しかし、横浜の場合は街が接収されていたため、復興事業を行うことができず道路の作りが昔から変わらないという特徴があるんですよ!市街地は完全接収に約7年、港湾エリアは約10年もの年月がかかったとのこと。そのため、接収されていた時期を空白の7年とも言うのだという。。

戦後の黄金町周辺の歴史に迫る!

戦後の黄金町の歴史に迫っていきたいと思います!空襲で焼け野原と化した黄金町周辺ですが、その後治安が悪い街へと発展していくわけですが、その経緯にはどのような背景があったのか?以下で紹介していきたいと思います!

米軍により接収される

提供:横浜市
上の写真は1945年から46年頃の関内周辺の様子。細長い黒い屋根は米軍兵が暮らしていたかまぼこ兵舎と言われる建物で、今でいう伊勢佐木町と大岡川の間にあたるエリアになります。写真の左下から右上にかけて川が流れていますが、写真の右上の方向に流れている川は、今では高速道路が走っているエリアなのです。下から左に流れている部分は今の大岡川に当たりますね!

そんな最中(さなか)、野毛の地区では横浜市が仕切って露店街が作られ多くの人が飲み食いするエリアとなっていきます。今現在も多くの飲み屋がある野毛ですが、その原型は戦後に作られたようです。

桜木町周辺はもの凄い人であふれた!

さらには、野毛のすぐ近くにある桜木町駅には職業安定所ができることに!職業安定所で紹介される内容は、米軍のところに行って働くようなものが多かったようだ。そしてその時の給料は当時の額で1日で240円だったのです。この値段は職業安定所が支給する定額日給であり、その額から「ニコヨン」と呼ばれていたそうです。そのように仕事場や飲食街ができたこと、そして交通の便も良かった桜木町はものすごい多くの人が押し寄せる場所だったのです。

黄金町周辺が怪しい街へと発展していく

職業安定所ができ、すぐ近くの野毛には多くの露店街が立ち並び、伊勢佐木町周辺は米軍に接収されてしまう。そこでぽっこり空いたのが黄金町から日ノ出町にある京浜急行の高架下だったのです。その高架下を伊勢佐木町で働いていた方たちに貸したことから、日本最大規模のちょんの間街の始まりとなるわけです。
京急の高架下に、伊勢佐木町で働いていた方がお店を立てるようになると、ここの場所の治安が悪化し始める。桜木町周辺には職業安定所があり、その近くの野毛には飲み食いする飲食店がある。男が働いて一杯やった後に何をするかというと、女遊びなどよりディープな世界を求めていくものだ。

黄金町にはそのような客が寄ってくるようになり、また大岡川を渡ったエリアにあるかまぼこ兵舎からは薬物や拳銃が持ち込まれるようになるのです。街には、注射針が落ちていたり暴力団が仕切るようにもなり街の治安は一気に悪化。そんな治安が悪い街としては、黒澤明監督の「天国と地獄」の舞台とまでなったのである。
しかし、その映画では実際にこの街は映像では流れてこない。街の治安が悪すぎて、映画の撮影ができないのである。そのため、黄金町としては近くの根岸屋という酒場を黄金町の店として見立てていたのだという。

提供:認定NPO法人黄金町エリアマネジメントセンター
昭和30年代には薬物はおおっぴらに販売ができなくなり、拳銃も警察により取り締まられることに。また、1958年には売春防止法が施行される。このエリアの南側に位置する赤線地帯であった永真遊郭はそれにより廃止になるものの、非合法の青線地帯だった黄金町エリアは売春防止法が施行後も営業を続けていくのです。

参考文献

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詳細・地図

住所 神奈川県横浜市中区黄金町2丁目
駐車場 周辺にコインパーキングが多数あり
アクセス 黄金町駅から徒歩1分
リンク https://ja.wikipedia.org/wiki/黄金町

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