極秘で行われたA級戦犯の遺骨奪還作戦!その全貌を調査したVol.3~興亜観音を訪問

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)
A級戦犯の遺骨奪還作戦の続編記事です。前回は、横浜の久保山で彼らの遺体が焼かれた後、米軍から遺骨の一部を奪還して興禅寺に保管した後、最終的に熱海の興亜観音へと移送したのです。
↓↓前回記事はこちら!!
今回は、その興亜観音を訪問してその旨を中心に取材した内容を書いて行こうと思います!ではいってみましょ~!!
本記事のポイント

・興亜観音は、松井石根大将が南京で戦った日本人と中国人を弔うために建立した
・A級戦犯で死刑になった7名の遺骨が、今も眠っている
・住職さんが、興亜観音の背景やA級戦犯7名の遺骨奪還計画などを丁寧に解説してくれる

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めっちゃ行きづらい興亜観音( ;∀;)

興亜観音は、アクセスが良い場所ではなく結構いかつい場所にあるんですわね(⌒-⌒; )
では、まずは興亜観音に行くまでの内容に関して!!

駅から歩いて40分かかる。。

取材のため興亜観音へと向かうことに!JR東海道線に乗って熱海駅へ行き、駅からは40分かけて歩くことになりました。。まぁ駅からはバスで行くという選択肢もあるっちゃあるんですけどね。。ここのためにレンタカーを借りるのもな~と思っていたので電車で行ったのですが、アクセスは少し厳し目です。。
ちなみに、先に言っておくと今回の目的の興亜観音の麓には、A級戦犯死刑囚のうちの一人である松井石根大将の邸宅跡があります。今は確か別の建物に代わっているはずですが。。
熱海駅に着いたのは平日の9:30。平日にもかかわらず高齢者のツアー客とかで割かしにぎやかな熱海の街。昔は糸川べりにある色街によって、「熱海=風俗」的なイメージだったようですが、今ではそのイメージは昔の事のようです。
今日は、色街史の記事ではないのですが、その辺はすでに取材しているのでまた別記事にて紹介します!

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海を横目に進んでいく!

40分間のウォーキングは、900箇所近くをいろいろな手段で訪問しているだけあってそんな厳しい条件ではないんですよね! 山道を1時間以上登らなければいけないスポットもかつてはあったわけですから(⌒-⌒; )
熱海は、海から切り立った山道に道や家屋がへばりつく形の地形なので、道路からは綺麗な海が見えますし!!考え事をしていたら、40分くらいはあっという間なんすわ!!
景色が良い場所があったのでバシャリ!!
こう見ると、崖になんとかして建物を建てる的な感じが容易に分かると思います。熱海ではあんまり土砂崩れって聞かないですが、広島県とかはよく聞きますよね、土砂崩れ。。。
やっと麓まできました。ここからは、ひたすら坂を上っていくことになります。写真にかろうじて「興亜観音」と書かれた碑が写っているように、かろうじて目印はあるものの、わかりやすい案内板はないようなので、ここを通っているだけでは全く興亜観音の存在に気づくことはできないっすね。。。

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麓からの坂がめちゃくちゃ急orz

この時点では、すでに汗だくです。11月30日ということで、もう寒さを感じる季節なはずなのに、今日はめっちゃ日差しが強くて結構な暑さというね(⌒-⌒; )
コート着ながら、こんな急坂を上ることになるとは思わんかった。。。
しかし長い階段だ。。しばらく登るとスギ林が現れます。景色も変わってそろそろかとは思ったものの、まだ興亜観音に到着したわけではないようです(⌒-⌒; )
徐々に、近づいている感じはするんですがね。
ここが、リアルな入り口といったところか??
なんせ、興亜観音に関してはネット上でも詳細な記事がほとんどあがっていないため、この観音に関してはあまり事前調査もできていないというね。まじでこんなに坂を上ることになるとは思わんかったわ。。
まだ上る。。
で、ようやくの到着です。上の写真の場所から少し手前に住職さんの家がありました。私が上ってくると「よ〜〜くぞ御参拝下さいました!!後でいきますので、先におすすみください!」とのこと。
どうやら、興亜観音に関していろいろ説明してくれるとのことです!これは大変ありがたい( ´ ▽ ` )ノ
ちなみに、めっちゃ坂を上っただけあって景色は鬼のように素晴らしかった!こうみると、改めてですがいかに日本の国土は平地が少なくて、このように斜面が多いかがわかります!!
関東に住んでいると、関東平野がめちゃくちゃでかいのでそんなに実感はないかもしれないですが、ちょっと外れた場所に行くとこういう光景は本当に多く目にするわけですよ!!

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住職さんに興亜観音の歴史を伺った!

ちょっとしたら、すぐに住職さんが駆けつけてくれました。とっても親切な方で、興亜観音誕生の経緯から、A級戦犯の遺骨に関する話、赤軍派に爆破された話などなど本当に色々なことを話してくれました(^ ^)

日中戦争の慰霊のために建立された「興亜観音」

この観音像の開眼式が開かれたのは1941年2月24日のこと。松井石根大将と多数の日中戦争の戦没遺族のもとで行われました。そして、この観音像は松井石根大将の願いから建てられたのです。
日中戦争で戦った日本人の方々は、日本国家のために、東亜諸民族の共栄などのために戦いました。松井石根大将は、上海方面郡最高指揮官として1937年8月中旬に出征されましたが、南京は遺体や流血など凄まじい状況だったようです。そのため、南京の血土を運んで観音像を作り、戦没者の慰霊を望んだわけです。
そして、その血土は陶器で有名な愛知県常滑市に運ばれ、柴山清風により特別な窯を使って焼かれました。この観音像の高さは3mほどで、観音像を作る際は像の高さが高かったことから天井の屋根をぶち抜いて作ったりしたんだとか。
なんか不安定そうに見えるこの観音様(⌒-⌒; )
後ろの崖は、よくイノシシが通ってがれきを落としたりするらしいんですよね。そんなこともあって、昔からこの観音像が倒れないかを住職さんは懸念しているそうですが、今まで無事に建ち続けているとのこと。

赤軍派に爆破された七士の碑

観音像を後にして、少し坂を登るとこちらの碑らが現れます。真ん中の碑には「南妙法蓮華経」の文字が書かれていますが、それはここの最初の住職である伊丹忍礼氏(今回案内していただいた住職さんのお父さん)がもともと法華経だったということに起因しています。
そしてここで、今の住職さんから改めてA級戦犯の方々の遺骨奪還計画の話に関して説明していただきました。東京裁判で死刑宣告を受けた7名の方々は、当時あった巣鴨刑務所(今のサンシャイン60がある場所で、「巣鴨プリズン」とも言われていた)で、1946年12月23日に死刑が執行されます。
その後、車で横浜の久保山火葬場まで彼らの遺体が運ばれ、そこで遺体が焼かれます。米軍の監視のもと遺体が焼かれ、その後彼らの遺骨は東京湾に散骨されることに。ところがどっこい、米軍が焼かれた遺骨をケースに詰める際に、細かく残った骨は淵に落としてしまい、その骨を奪い取るため、遺骨の奪還計画が立ち上がりました。
それを計画した久保山火葬場の火葬場長であった飛田氏、そして火葬場の近くにあった興禅寺の住職、三文字弁護士らは、黒マントに身を包んで、米軍監視下にあるにもかかわらず、遺骨の奪還に成功。
その後、遺骨は興禅寺に一時保管されたものの、久保山火葬場から近すぎるということで、遺族らと話し合った結果、松井石根大将が建てた興亜観音へと運ばれることになったのです。前回記事のおさらい的な感じの内容ですが、この記事ではここの内容が一番肝心なわけですわい!!
話を七士之碑に戻します。この「七士之碑」は、昭和34年4月19日に建立されました。「七士之碑」は、元首相の吉田茂氏の文字であり、「七士」はA級戦犯として死刑宣告を受けた7名の方たちを指します。左下には、吉田茂という文字が書かれていますな。
そしてこの碑には、2箇所ほど亀裂が入っているのが見えますね!この亀裂は何かというと、赤軍派によって爆破された跡なのだそうです。
碑のすぐ近くには、爆破された際の残骸が寝っ転がっていました。彼らは、A級戦犯の方々の遺骨を奪還しようとしたのか、ただ単に興亜観音を破壊したかっただけなのか。。

A級戦犯七名の遺骨は、ここに眠っている!

そして、七士之碑の下にあのA級戦犯の七名である、東条英機、松井石根、土肥原賢二、広田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章の遺骨の一部が眠っています。横浜の久保山で遺骨奪還作戦が行われていなければ、彼らの遺骨を弔うことはできなかったわけです。
下と言っても、ここからさらに3mほど深い場所に納められているそうです。興亜観音に遺骨が運ばれてきたときは、当時の住職さん(今の住職さんのお父さん)は気が気でなかったようです。
誰かに盗まれたりしないかと不安になり、子供が寝静まった後に、ある時には観音像の裏に隠したり、ある時には本堂に隠したりと何度も保管場所を変えていたようです。

本堂で松井石根大将の遺影に合唱

続いて、住職さんがさらに奥へと案内してくださり、本堂に来ました。
本堂内は、写真撮影しても大丈夫ということで遠慮せずに撮らせていただきました。部屋には松井石根大将の遺影があったり外套があったり。。
中央に立てられている観音様は、瀬戸焼きのもの。作成者は瀬戸市在住の加藤春二という方が作成したそうですが、このように合唱した状態の焼き物を作るのは、かなり困難を極めるほど難しかったという。
ろうそくに火を灯し、3本の線香をお供えして、住職さんとともにしばし合掌。中央の観音様の両側には日本国民戦死者霊牌(右側)と中華民国戦死者霊牌(左側)が祀られており、そのような先人の方々とA級戦犯の方々へ敬意を込めて、合掌いたしました。
中央から左側にあるこちらの写真には、松井石根大将が写っていますね。私はもちろん会ったことはないですが、住職のお父さん曰くすごく周囲の方を大事にする優しい方だったとのこと。南京大虐殺の主導者として戦犯となりましたが、あれは本当にあったんでしょうか・・。少なくとも、2,30万人もの方を殺害したのはまずあり得ないですけどね。。
こちらは本堂に立てかけられた、A級戦犯の7名が死刑執行直前に書かれたものの写し。執行の3分前ほどに書かれたもので、両腕が縛られた状態で筆を持ち、自分の氏名を書かれたとのこと。
そんな死刑直前に文字を書くって、自分だったら気が動転しすぎてこんな風に字を書くことはできないと思います。。この7名の方は死刑直前はいったいどんな心境だったのだろうか。日本を太平洋戦争へと導いてしまったという戦争責任(東京裁判は満州事変以降の事象を対象にしてはいますが・・)を問われ、自分たちが敗戦責任を負うべきだと思っていたのか。。
この時の世の中の情勢というか雰囲気は、昭和62年生まれの私にとっては想像がつかないです。神風特攻隊の生みの親といわれている大西瀧次郎氏、そして終戦時の陸軍大臣であった阿南惟幾(厳密には玉音放送の日の朝に割腹自殺)は自身で割腹自殺していたり、なんかすごい時代だったんだな。。
本堂内には、パール判事の写真も掲げられていました。このパール判事は、東京裁判の11人の裁判官の中で唯一裁判の不当性を訴えた方。実はこのパール判事、何度か興亜観音の方に訪れて両手を合わせに来たことがあるそうです。
今回お話しした住職さんも、実際にパール判事を見たことがあるとのこと。パール判事は、あくまで裁判の不当性を訴えただけで、日本の戦争犯罪に関してを許しているわけではなかったはず。彼が、どのような思いでこの興亜観音を訪れたのか、大変気になる。。

最後はお菓子を出していただき住職さんと談笑!

最後は、こちらの建物へ移動。
中に入ると、住職さんがお茶とお菓子を出してくれました。一通り興亜観音に関して案内していただき、最後はここで何分間でしょうかね~、いろいろな話をさせていてだきました!
今現在、興亜観音には年配の方だけでなく、私のような30代の方、そして外国人の方も訪問されるという。外国人の中には、南京大虐殺があったと子供の頃に教わり、松井石根氏を極悪人だと思いこんでいる方もいるんだとか。
しかし、そのような方々に南京大虐殺に関する写真で当時の南京の方と日本人の様子を見てもらうと、「今まで聞いていた話と写真に写っている内容が違う・・」ということで首を傾げたりするそうです。住職さんは、この観音に訪れる方ひとりひとりにこの観音の背景を説明しているそうですが、英語が喋れないため、その辺はすっごく苦労するそう。。
今回住職さんと話し、興亜観音の背景など本当に多くの事を学ばせていただきました。ここは、第二の靖国神社ともいわれているそうで、日本の歴史においては欠かすことができないスポットだと思います。ただ、あまりに知られていなさ過ぎて残念。まっ、あんまり人が多すぎても住職さんが対応できなくなってしまいますけどね。でも、日本人であれば日本のことを学ぶ上でも一度は訪問した方がい場所だと思いますよ。

おわりに

以上が、興亜観音に関するお話です。しかし、今回のお題であるA級戦犯の方々の遺骨に関してはまだ続きがあるのです!それは、実は興亜観音にある遺骨の一部は愛知県の三ヶ根山という場所に分骨されているのです。
ということで、この三ヶ根に関してももちろん取材をしないとやりきれないので「三ヶ根に行って取材して絶対に記事しなければ!」と思っていたのですが、ちゃんと行ってきてガッツリ取材してきましたぜ!!
ということで、続編の記事は今書いている途中なので、しばしお待ちくださいm(__)m
まだまだ、続く!

参考文献

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詳細・地図

住所 静岡県熱海市伊豆山1135
電話番号 0557-80-0738
アクセス 熱海駅から歩いて40分
リンク http://www.koakannon.org/
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※ほぼ毎日つぶやき中
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