知の冒険では、日本のいろいろな知られていない世界を探し求めて、現地へ赴き取材して記事にしています。今回は太平洋戦争に関する記事になりますが、メインとしては「A級戦犯の遺骨奪還作戦」に関してです。
日本史を勉強した皆さんは、A級戦犯の方が東京裁判で裁かれて、その後7名の方が絞首刑になったという事実は知っているかと思いますが、その後に彼らの遺体、遺骨はどのようになったのかに関して知っている方はあまりいないのでは、というか私も最近知りました(笑)
実は、東京裁判が行われて死刑が執行された後に、「A級戦犯の遺骨奪還作戦」が行われていたのです。映画みたいな本当にあったこの話、数記事にわけて、その全貌を紹介していきたいと思います!
本記事のポイント
・東京裁判は、A級戦犯で起訴された28名を裁いた裁判
・東京裁判では、A級戦犯のうち7名が死刑判決を受けた
・7名の死刑執行は、巣鴨刑務所(今のサンシャイン60辺り)で行われた
見出し
不当な判決を受けた「東京裁判」
そもそも、東京裁判とは??
東京裁判とは、太平洋戦争の戦争犯罪人を裁くために行われた茶番、、ではなく裁判です(笑)
極東国際軍事裁判とも言われます。当時日本には裁判所がなかったため、東京の市ヶ谷にあった陸軍士官学校を1億円かけて改装した建物で行われました。1946年5月3日から1948年11月12日までの3年半の間に、416回裁判が行われました。
この東京裁判で裁かれたのは、A級戦犯の被告28名です。誰が戦争の首謀者かを決めるための裁判で、25名が有罪判決を受けて7名が絞首刑(死刑)になりました。
ただ、中には大川周明のように裁判中に精神の異常をきたして被告から外れるなんてこともありました。大川は、裁判中に東条英機の頭をパチンとぶっ叩いたりして、皆が爆笑するみたいな光景もあったとのこと。
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不当判決その1〜戦勝国に裁かれた
東京裁判はよく茶番劇と言われますが、その理由の一つがこれ!裁判は公平な立場で行われなければいけないのに、11人全ての裁判官は戦勝国から選ばれました。つまりは、勝てば官軍であり、戦勝国が敗戦国を裁くための裁判だったわけです。
しかし、その中に意を唱える判事がいました。それはインドのパール判事。彼は、この東京裁判のやりかたは誤っているということで、11人の判事の中でも唯一「東京裁判は茶番劇だ」という意向を示した方。
ただし、日本の一連の戦争過程に関して正当化しているわけではないです。あくまで、東京裁判のあり方が誤っているというだけであるということのようです。ただ、日本側はそのパール判事の姿勢に敬意を示してか、靖国神社の遊就館前にはパール判事の顕彰碑が建てられています。
不当判決その2〜事後法によって裁かれた
あと茶番劇と言われる理由としては、この「事後法」というやつです。つまり、法律は作られた後に適用されるものであり、法律が作られる前のことは裁かないということ。ポツダム宣言が受諾された1945年8月15日時点では、A級戦犯の方が裁かれた「平和に対する罪」はなかったわけです。
しかし、これを満州事変までさかのぼって罪を問うたわけですから、まともに考えれば「こりゃ事後法なんだから、適用外じゃねぇか」となるわけです。平和に対する罪は、ポツダム宣言受諾後に戦勝国が国際法に付け加えました。 この平和に対する罪は、東京裁判より先に、ドイツ人の戦争犯罪を捌くべく行われたニュルンベルク裁判で最初に用いられ、ここでも平和に対する罪で数人の方が裁かれました。
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A級、B級、C級は罪の重さではない・・
「A級戦犯」「B級戦犯」「C級戦犯」という言葉がありますが、今だにこの言葉の意味を理解していない方が多いようです。特にマスコミは、「××事件のA級戦犯はこいつだ!!」みたいな使い方をしていますが、この使い方は誤りです。
つまり、一番悪い、最も罪深き人という意味ではないということです。
じゃあどういう事かというと、これはあくまで罪の種別に過ぎないということ。なので、「A種戦犯」「B種戦犯」「C種戦犯」という言い方のほうが伝わりやすいと思いますがね。。どうしてもパッと聞くと、級という言葉を聞けば「級=レベル」と認識してしまいますわな。。
じゃあどういう種別かというと、上の図の通りです。A級戦犯は平和に対する罪という罪で、太平洋戦争が勃発した後に作られた罪。先ほども述べた、事後法です。平和に対する罪とは、戦争主導をした方々に対する罪ということなので、元首相などいわゆる大物の名が連なっています。
その他のB級戦犯は通例の戦争犯罪、C級戦犯は人道に対する罪というように区分けされているようですが、BC級戦犯という言い方もされているように別々に裁かれているわけではないので、この分け方は正直自分も明確にはわかりません。。
A級戦犯の7名はどんな方々?
A級戦犯の中で、東京裁判で起訴されたのは全部で28名いました。7名が絞首刑(死刑)となり、16名近くが終身刑となっています。
その7名は、東条英機、板垣征四郎、松井石根、武藤章、木村兵太郎、土肥原賢二、広田弘毅です。東条英機は、戦時中の首相であったため一番有名かと思います。
ちなみに、不起訴とはなりましたが安倍首相のおじいさんにあたる岸信介も、A級戦犯の容疑者となっていました。しかし、その後首相となり安保改正などを行った人物でありましたね!
A級戦犯の刑が施行された「巣鴨プリズン跡」を訪問
A級戦犯の方々の刑が執行されたのは、東京拘置所(巣鴨プリズン)があった場所。それは、池袋にあったということで池袋駅到着です。
で、以下でも述べますがその場所はサンシャイン60がある場所なのです。サンシャイン60通りを通ってその場所に向かうのですが、相変わらずここは人がすごいですね。みんなサンシャイン60に行ったり、近くの映画館に行ったりするんだろうな。さすがに、巣鴨プリズンの碑目当てで歩いているのはこの中でも私だけでしょうか(^ ^;)
巣鴨プリズン跡はサンシャイン60の場所
※「今昔マップ on the web」を元に作成
上でも述べましたが、7名のA級戦犯の方々が死刑執行された場所は東京拘置所(巣鴨刑務所・巣鴨プリズンとも言われる)です。その場所は、実は今現在サンシャイン60がある場所なのです。こちらは1960年代の地図ですが、その頃の地図にははっきりとその名が書かれていますね!
※「今昔マップ on the web」を元に作成
さらに時代を遡ってみると、この辺りは大正時代頃から巣鴨監獄としてすでに存在していました。その後は、1937年頃から東京拘置所として名称を変更するも、戦後は巣鴨プリズンと呼ばれるようになります。
今現在、その場所は刑務所があったとは思えないほどほのぼのとした普通の街となっています。
テニスを楽しむ方々の、ほのぼのとした光景とか(^ ^)
草野球場もあったり、小学校もあったり(^ ^)
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巣鴨プリズンはどんな刑務所だったのか?
巣鴨プリズンは、もともと東京拘置所だった場所を、戦争犯罪人を収容するための刑務所に転用したもの。入り口には「SUGAMO PRISON」と書かれた看板が掲げられていました。ここでの囚人の食事は、朝はパン、昼は味噌汁や野菜の煮つけなど、夜は里芋とコンビーフの煮つけや野菜煮など1日3食を与えらえていました。
風呂は1週間に二度入ることができ、1週間に1度は映画上映が行われたほか、巣鴨学園と称する教育機関、図書館、演芸会(月に一回)など様々な設備が用意されていました。
そんな巣鴨プリズンで暮らしていた方々の不安要素の一つが、出所後の生活でした。巣鴨プリズンが米軍から日本に返還された後、彼らはしばらく刑務所に服役していた後に、釈放されたとしてもそのような方々を雇ってくれる職場がなく、待遇改善要求運動などがおきました。
その後、巣鴨に服役していた方は外の世界よりも中で生活していた方が、衣食住が保証されているということで外に出ることを拒んだりしていたという。規律も失われ、刑務所から無料アパートメントと化していき、囚人たちは自由に外部に外出したり、外でアルバイトするなんて方も現れたとのこと。
公園の片隅にたたずむ慰霊碑
そして、その場所には「東池袋中央公園」という公園があります。サンシャイン60のすぐ隣です。なんかネットで検索すると「心霊スポット」とか「猫の森」なんても言われているみたいですな。
ってか、「人が死んだ場所=心霊スポット」みたいな感じに思うのですが、そんなこといったら人が住んでいる場所だいたいが心霊スポットになりますよ(笑)
「猫の森」と言われているだけあって、確かに猫はたくさんいました。日差しが気持ちよさそうで、こっちまで眠くなってきそうですわ( ´ ▽ ` )ノ
猫に餌をやっている方々も。
そんな公園の片隅には、巣鴨プリズンがあったことを示す慰霊碑が存在します。公園の角っこに、まるで目立たず人目を気にしているかのように。。
「永久平和を願って」。表に刻まれているのは、この8文字のみです。いくらかお花が添えられていますが、遺族関係者なのでしょうか??
これだけみると、なんの碑かはわかりかねますが、裏を見ればそれが分かります。
ここに第二次世界大戦に関する事柄が書かれています。ここに書かれている「一部の刑」とはいわゆるA級戦犯の方々の死刑執行のことでしょうかね。。
死刑執行!遺体は、極秘で横浜へ・・
A級戦犯で絞首刑となった7名は、1948年12月23日の0:20に、第一組として、土肥原賢二、松井石根、東条英機、武藤章の4名が最初に執行。続いては、第二組として、板垣征四郎、広田弘毅、木村兵太郎の3名が執行されました。
▲興亜観音の本堂にある、死刑直前に書かれた7名の揮毫
彼らは、死刑が執行されるわずか3分前に、自身の名前を書かれています。写真に移されているものは、実際に彼らが死刑直前に書かれたものの写し。後の記事で述べますが、これは熱海にある興亜観音にて保管されているものです。
死刑直前ということで、両腕が縄で縛られているという状態で、彼らは生涯最後のを行ったのです。
そして、死刑が執行された一時間半後の2:05に、二台の大型トラックにて巣鴨拘置所から横浜市営の久保山火葬場に運ばれ、米軍監視のもと8:10から火葬が開始されました。
ただ、実は遺骨は遺族の方から引き取りの要求があったのですが、米軍はこれを拒否。というのも、遺骨を残すと、それを祀るなどして国民の一部が英雄扱いをするのではないかということを恐れてのこと。。
おわりに
東京裁判で不当な判決を受けて、巣鴨プリズンで死刑執行された7名の英霊。彼らの遺体は、極秘で横浜に運ばれ、久保山火葬場にて火葬されます。そしてその後、彼らの遺骨を米軍から奪還すべく、極秘の遺骨奪還作戦が行われるのです。
↓↓こちら、続編っす!!
参考文献
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詳細・地図
住所 | 東京都豊島区東池袋3丁目付近 |
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アクセス | 池袋駅から徒歩5分 |
リンク | https://ja.wikipedia.org/wiki/巣鴨拘置所 |