知られざる激動史!A級戦犯七士の遺骨を守り抜いた興亜観音の今

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)
今回は、熱海にある興亜観音というお寺に関する記事です。と言っても以前記事にはしているんですけどね。ただ、前回は巣鴨プリズンから興亜観音に、そして三ヶ根山へと遺骨が分骨された経緯を書きました。
↓↓以前の記事はこちらです(*’▽’)
ただ、この興亜観音に関しては前回書いた記事以外にも本当にたくさんの物語があるので、その辺も含めて改めて記事にしようと思ったんですね!ということで、長い記事になりますが、本当に大変な出来事を何度も乗り越えてきた興亜観音設立から今現在までの歴史をこの記事にまとめきりました!!
この興亜観音、今まで日本全国1,200スポット近くを訪問してきましたが、ここのお寺は色々な意味で超別格です。あくまで慰霊施設であるため多くの人に来てもらう様な場所ではありませんが、本当に色々な方々のこのお寺の歴史・背景を知っていただければと思っています。

本記事のポイント

・興亜観音は、松井石根大将が南京で戦った日本人と中国人を弔うために建立した
・米軍の締め付けが強い中で、初代住職はA級戦犯七士の遺骨を守り続けた
・かつては護持団体によって興亜観音が売り飛ばされるところだった
・爆破事件や襲撃事件を乗り越え、興亜観音の今がある

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興亜観音を訪問

▲切り立った地形をしている熱海の街
日本を代表する温泉街があることで知られている静岡県の熱海市。今現在も観光客で賑わう温泉街の北側には、第二の靖国神社ともいわれる興亜観音というお寺があります。
熱海は切り立った崖になっている場所が多く、興亜観音はその切り立った斜面の中腹に位置しています。熱海駅から北へ40分ほど国道135号線を歩き、10分ほど鳴沢山と呼ばれる山の斜面を上っていくと、興亜観音に辿り着くんですな。
▲興亜観音の住職である伊丹妙浄さん
興亜観音を訪問すると、住職の伊丹妙浄さん(女性の住職さん)が親切に迎えてくれます。今では一日数人の方がお参りに訪れ、初めての方にはお寺の背景を説明していただけるだけでなく、お茶やお菓子も用意してくれる手厚い待遇付き。
今現在は、妙浄さんそして執事の伊丹靖明さんと彼の奥さんの3名で興亜観音を運営しています。今回は記事を作成するにあたり、妙浄さんと靖明さんに興亜観音の背景や今に関して話を聞かせていただきました。
このお寺の知名度は低く、一日の訪問者はわずかで非常に閑静な場所。しかし、そんな知られざるこのお寺は、命がけでA級戦犯七士の遺骨を守り抜いただけでなく、爆破事件や襲撃事件がおこるなど、今に至るまでには本当にたくさんの困難を乗り越えてきた激動史があったんですよ!!

日中戦争の慰霊のために建立された

▲興亜観音を設立した松井石根大将
興亜観音が建立されたのは1941年2月14日のこと。1937年に開戦した日中戦争で犠牲になった日本と中国の戦没者を平等に弔うために建てられました。
建立したのは、日中戦争における上海方面の最高指揮官であった松井石根大将。興亜観音には合掌をした高さ三メートルに及ぶ観音像が安置されていますが、これは最も戦闘が激しかった南京の血土と愛知県にある常滑市の土を練り合わせ、佛像陶工師の柴山清風氏によって作成された観音像なのです。
今現在の興亜観音がある鳴沢山の麓にはもともと松井大将の住居があり、本来はその庭に興亜観音を置くでした。ところが、鳴沢山の地主の方の支援があり、今の場所で興亜観音を開くことになりました。
▲日中戦争の慰霊のために建てられた観音像
その後、戦没者を慰霊し続けるために住職が必要となり、松井大将の先祖が新潟県にゆかりがあったことから、新潟県にある法華宗総本山の本成寺から興亜観音の住職として伊丹忍礼さんが就くことになったのです。
ただ、本来であればゆくゆくは忍礼さんは新潟の本成寺へ戻り、そこで住職をする予定でした。しかし、松井大将が巣鴨刑務所へ向かう前に「どうか、ここに祀られている方々の供養をこれからもよろしくお願いします」とお願いされたことから、それ以降は「松井大将との約束を破るわけにはいかない」ということで生涯興亜観音の住職として、その責務を全うされたのです。

米軍から奪還した遺骨が運ばれてきた!

日中戦争の戦没者を祀っていた興亜観音ですが、戦後に大きな出来事が起こりました。太平洋戦争で日本が敗戦した後、A級戦犯として裁かれた方々のうち、死刑となった七名の遺骨が移されてきたんですね。
1941年の12月8日に開戦した太平洋戦争。最終的には本土空襲にあい、原爆を落とされて降伏した日本でしたが、その後連合国によって日本は戦争責任を問われることになります。その際、連合国はA級、B級、C級という区分をつけて戦犯者を裁いたわけです。
ちなみにですが、A級、B級、C級は罪の重さではなくて単純に罪の内容の区分にすぎません!「A級=一番罪が重い人たち」という解釈は誤りで、A級で不起訴になった方もいればBC級で死刑になった方々はたくさんいらっしゃいます。
▲1958年まで存在していた巣鴨刑務所跡
そしてA級戦犯になった方々は市ヶ谷にある建物を改造した裁判所で東京裁判が開かれることになります。ここでは、A級戦犯になった方々のうち起訴された28名の方々が裁判にかけられ、最終的に7名の方が絞首刑(死刑)判決となったのです。
その後、彼らは今の池袋のサンシャイン60がある場所にあった巣鴨刑務所(巣鴨プリズン)で死刑が執行され、遺体は横浜の久保山火葬場に運ばれます。
↓↓遺骨奪還の経緯等の詳しい話は、以下の特集でまとめていますのでご確認いただければと思いますm(_ _)m
▲七士の遺骨が焼かれた久保山火葬場
一応ここでも簡単に書いておきます。久保山で焼かれた遺体は、米軍監視のもと遺骨をケースに詰められて米軍に持ち去られてしまいます。しかし、なんとか彼らの遺骨を奪還したい遺族や彼らを担当した弁護士たちは、三文字弁護士、飛田火葬場長、市川住職の三名が1948年12月25日の夜に黒マントに身を包んで火葬場に忍び込み、共同骨捨て場に捨てられた粉々の遺骨をすくい取って盗み出すことに成功します。
その後は、一旦は久保山火葬場の隣にある興禅寺で市川住職が管理することになります。ところが、あまりに火葬場に近いため、この遺骨をどこか離れた場所に置く必要があるということになり、遺族や弁護士が話し合った結果、熱海にあるA級戦犯で死刑になった七士の一人でもある松井大将が建立した興亜観音に埋葬しようという結論に至ったのです。
遺骨が興亜観音に運ばれた時、遺族らは忍礼氏にここ興亜観音にこの骨を管理していただきたいという話を持ちかけました。この時、遺族らは決してこの遺骨が七士の遺骨であることを言及してはいませんでした。「私たちの大切な遺骨なので、ぜひとも!」という事しか述べていなかったのです。しかし、「忍礼氏はその時点でこれが七士の遺骨であることはわかっていた」と妙浄氏はおっしゃっていました。
遺骨が運ばれてきた1949年5月の頃は、日本がまだ米軍の占領下にある時期。万一、A級戦犯者の遺骨を隠し持っていることが米軍に知れれば、住職は重罪に問われるの可能性は十分にあったのです。
▲ある時は観音さまの後ろにも・・
そのため、絶対に誰にも気づかれないよう忍礼さん夫婦は子供達にも知られぬように、深夜に本修院の玄関口付近にひそかに穴を掘り、埋めかくして雑草を敷き詰めて不自然に見えないようにするなどしたとう。
しかし、周囲では「興亜観音に七士の遺骨があるらしい」という噂も聞こえてくるようになり、絶対に大丈夫だと確信しても、ある時は観音像の裏に隠したり、ある時は本堂に隠したりと、日々置き場所を変えながら過ごしていたそうです。
このエピソードに関して、父から聞いた話の中で印象に残っていることがないか妙浄さんに聞いてみました。
「実は、遺骨のことに関して父からは一切語られたことはありません。後に聞いた話では、私たちが寝静まった後、遺骨をあっちへ移しこっちへ移しだったそうです。この頃は、いつここに遺骨がある事が世間に知られるかと本当に気が気でなかったと思います」
結局、遺骨は興亜観音に安置され続け、1951年には日米安全保障条約が締結された。その後は米軍による締め付けも和らいでいき、興亜観音に遺骨が安置されてることもポツポツ新聞等で報道されるようになったのです。
続きはこちら!吉田茂が訪問した際の極秘貴重資料を公開!
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