知られざる激動史!A級戦犯七士の遺骨を守り抜いた興亜観音の今

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ネットに嘘が多い、遺骨のありか

ここで、一旦七士の遺骨のありかについて確認したいと思います!七士は巣鴨刑務所で処刑された後、横浜の久保山火葬場に運ばれて焼却されます。その後、米軍が大抵の遺骨を持ち去ってしまいますが、そのあとに残った粉々の遺骨は共同骨捨て場に捨てられますが、この遺骨を奪還するのです。
その後、興禅寺に一旦保管された後、興亜観音へと運ばれます。そして、1960年に愛知県の三ヶ根山へと茶碗一杯分ほど分骨されることになります。ここで注意したいのは、三ヶ根山には分骨されているのであって、すべての遺骨が移されているわけではないということ!
▲遺骨が分骨された三ヶ根山
実際にインターネットで検索すると、「興亜観音から三ヶ根山に移葬された」「遺骨を奪還した後は、点々とした後、愛知県の三ヶ根山に移された」という記載がありますが、これは誤りです!正しくは、「興亜観音から三ヶ根山に茶碗一杯分が分骨された」になります。
ただし、ここで一番気になるのが「長野県にもあるという遺骨」。これ、結構いろいろな資料や本を読んでいるのですが、そのような経緯で長野に移されたのか、ってかそもそもあそこには遺骨はないという意見も聞くんですよね。。これ、関係者を結構手当たり次第あたったのですが詳しく知っている方が誰もいないのでこれについては不明っす(⌒-⌒; )

吉田茂総理が興亜観音を訪れた!!

では、話を興亜観音に戻しましょう。何とか遺骨を守り抜いた興亜観音。今現在は、『七士の碑』という碑の下に埋葬されているのですが、その碑には元内閣総理大臣である吉田茂が関わっているのです。
戦後日本の復興に大きく貢献した吉田茂元総理。彼は、総理大臣の座を退いた後に興亜観音を訪問し、七士を弔う碑として吉田茂氏の筆跡が刻まれた「七士の碑」が興亜観音内に建立することになったのです。建立式には吉田茂自身も訪れたとのこと。
上の写真は今回特別に住職さんに見せていただいた資料で、普段は見せないものなんだそうです。これを含む幾つかの写真は、昔に某◯日新聞の方にこの資料を渡したのにもかかわらず捨てられていたなんてこともあったとのこと。。
そのため、めったに見せなくなったそうですが今回は特別に見せていただけることになりました。
▲興亜観音の坂を上る吉田茂
その中には、吉田茂が写っている写真もありました。吉田茂はこの時足が悪かったのか、それとも急な斜面を登らなくてはいけなかったということで、単純に家来に担がせたのか??それにしても、ちょっと面白い写真ww
だが、めったに見せることがない写真ということでこれは大変貴重な一枚だと思われます。
吉田茂がここに来たのは、彼の筆跡が彫られた七士の碑の除幕式があったから。ここには七士の遺族の方々が集まり、ここで除幕式が開かれたとのこと。ここの写真左に先ほど担がれて上ってきた吉田茂が写っていますね。
ちなみに、式を取り繕っているのは忍礼さんではなく別の方なんだそうです。
▲七士の碑の除幕式の様子
そして、碑のそばにいる三人の女の子たちは忍礼さんの娘さんたち。こちらから見て碑の右側にいる女性が、私が今回取材させていただいた妙浄さんになります。碑が建立されて以来、今現在も七士の遺骨は碑が建っている地面から深さ三メートルの場所に埋葬されています。

東アジア反日武装戦線による爆破事件が発生!

遺骨を守り抜いた興亜観音には、その後も試練が待ち受けていました。1971年12月12日に左翼過激派である東アジア反日武装戦線の方々による爆破事件が発生したのです。
▲事件当日にアタッシュケースが置いてあった休憩所
実は、この事件が起こる数日前から若い女性が何度か興亜観音を訪れていたんですね。彼女は荒井まり子という人物で、東アジア反日武装戦線のメンバーの一人でした。この当時、興亜観音から少し下った場所には小説家として知られる谷崎潤一郎氏のお屋敷があり、彼女は「歴史の勉強に来ていまして」と当時の住職に説明していたのだが、実は様子を探りに来ていたのです。
事件に関して、妙浄さんは今も当時の様子を克明に覚えているという。
「あの日は、どうも様子が違った日でした。当日、荒井まり子さんはダスターコートを羽織り、三越のマークが入ったお中元袋を2つ持っていました。私がここから少し坂を下った場所にある休憩所を通った時には、見たことがないアタッシュケースも置いてありました。何か様子が変だと思っていました。そして、夕方雨戸を閉める際に私は気になって様子を見に七士の碑に行こうとしたのです。でも、両親から何かあったらどうすると言われ結局見に行くことはしませんでした。」
ただ、その時は犯人たちが時限装置を仕掛けている時だったのです。彼らは、興亜観音内にある観音像、七士の碑そしてB・C級戦犯の方々を祀った追悼碑に導線を巻き付け、時限装置のタイマーをセット。そして、その日の21時59分に時限装置が作動して爆発が起きました。
▲爆破によって割れてしまった『七士の碑』
鳴沢山に爆破音が響き渡り七士の碑は見事に割れてしまいました。上の写真に七士の碑が写っていますが、二箇所割れ目があるのがわかりますでしょうか?これらは、その後ドイツ製の接着剤を使ってなんとかつなぎ合わせることができました。
しかし、こんな巨大な石の塊を割るってどんだけの爆発だったんでしょう。。
一方、B・C級戦犯の方々を祀った追悼碑は無事でした。というのも、こちらに巻きつけた導線は、碑に刻まれている金属製の文字部分でショートしたのです。そして、こちらの導線と観音像も繋がっていたようで、観音像にもグルグル巻きに導線が巻きつけられていたそうですが、無事に破壊されませんでした。
今現在も銅線が仕掛けられた追悼碑には、ショートした焦げ跡が残っていますね!上の写真の赤い丸で囲った部分です。

襲撃にあい、ろっ骨を折られる!

ただ、これだけではありませんでした。爆破事件の後には三度ほど木刀やナイフを持った人々に襲撃されたという。木刀を持った三人組に襲撃された際には、執事の靖明さんがろっ骨を折られるなどの重傷を負うことになったのです。一番最近では、五年ほど前にヘルメットをかぶったままナイフを持って家に侵入し「ここで殺してやってもいいんだぞ」と脅しを受けたという。
その他には車のガラスを割られたり、嫌がらせのためかお酒を飲んで酔っ払った状態で罵声をあげながら訪問してきた方もいたという。最近でも、思想の違う者同士がたまたま同じ日に参拝しに来た際には、休憩室で意見の違いから激論に発展し、最終的にはお供え物を持ってそのまま帰ってしまうことがあったそうですよ。
ん~こういう政治的な話が絡むと思想の違いによって揉めたりするため、こういうテーマを扱う場所は大変なんですね( ;∀;)
続きはこちら!興亜観音が消滅しかけた大事件とは!
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