今回の記事は、長崎県にある「永井隆記念館」という博物館に関して書いていきます。永井隆ってどの程度知名度があるかわかりませんが、私は全く知りませんでした・・(^-^;
長崎県を色々と取材している中でたまたまこの方の存在を知り、原爆の被災者の方達に尽力を尽くしたほか、自身も放射線の病気にかかって寝たきりの状態になりながらもいくつかの書籍を執筆したという偉人だというんですね!!
ということで、永井隆記念館に訪問したことと、彼の生涯を簡単にですがまとめましたので以下に書いていきまっせ!!
本記事のポイント
・永井隆は、放射性医学の研究者であり原爆の被災者の救護に貢献した方
・原爆の被害から、如己堂という建物の中で寝たきり生活を送っていた
・名著『長崎の鐘』など多くの書籍を執筆していた
見出し
長崎原爆資料館に展示されていたことがキッカケ!
▲長崎原爆資料館の館内
知の冒険の取材で長崎県を訪れたのは2017年10月の事。この時、実は人生で初めて長崎県を訪問したんですけども、この時の遠征で長崎県の色々な場所を取材しており、この原爆資料館も訪問先に含んでいたわけです。
資料館では、ボランティアガイドさんに案内していただきながら、原爆の恐ろしさを学んでいたわけなんですな!!
▲長崎原爆資料館での永井隆に関する展示
その原爆資料館で展示物を眺めていたときに出てきたのが、「永井隆」という人物。私はこの時までまったく彼のことを知らず、誰だかわからんが見てみようという感じで展示を見てみたわけです。
そこで、永井隆という人物は長崎の原爆で被災した方々に大変貢献した偉大な方ということを知り、さらには市内に「永井隆記念館」という博物館があることを知った私は、好奇心を抑えられなくなり、急遽その日の予定を変更してここをだた後に博物館に直行したというわけなんですな!
もうね、最近は自分でも病気かと思うほど気になったら行ってみないと気が済まない感じになってまして。だからこそ、このブログを続けられているというのもあるんですがね( ;∀;)
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速攻で、永井隆記念館を訪問(*’▽’)
長崎原爆資料館を訪問し終えた後、速攻でGoogleMapで記念館の位置を確認して訪問しました。記念館としては1969年にオープンしているのでもう50年近い歴史がある博物館なんですね。外観は割と年季を感じる雰囲気だったので!!
▲こじんまりとした永井隆記念館
入館料の100円を払っていざ中へ!記念館自体はかなりこじんまりとしていて、部屋自体はここだけっすね!お客さんは数人いましたが、皆年配の方ばかり( ;∀;)
多くの若い方にも、永井隆の存在を知ってもらいたいものです!今現在は、永井隆のお孫さんがここの館長さんをつとめているそうですが、私が訪問した時には不在だったようです。もしいらっしゃったら少し話を伺いたかったんですが、また次の機会にでも!
記念館に訪問したら、まずはこちらのビデオを見ることにしました。このビデオ、とってよく出来ていて永井隆の生涯を先に頭に入れるのにはとてもいいっすよ!
永井隆の生涯を簡単に学んでみる
それでは、永井隆とはどのような人物だったのか。簡単にではありますが、記念館の展示物とともに紹介していきたいと思います。
永井隆は、1908年2月3日に島根県で生まれました。幼少期は島根県三刀屋町という場所で過ごしたそうですが、その後大学は長崎県にある長崎医科大学(現:長崎大学医学部)に進学。大学を卒業後は、放射線医学を研究しました。
その後、満州事変そして日中戦争の時には軍医として従軍しています。万里の長城を始め、中国の北から南まで第一線ばかり72回の先頭に従い、敵味方の区別なく両軍の負傷兵や現地住民を治療していたようです。
その後も、永井は放射性医学の研究を続けていたました。時には、結核患者の増加に伴い早期発見のための集団検診が行われるようになり、自身の研究テーマであった「間接撮影法」で、一日に百人以上を撮影していたとのこと。
▲主治医が描いた永井隆の血液像スケッチなど
ところが、戦争が始まったことでフィルムが不足すると、レントゲン画像を直接肉眼で透視せざるを得なくなりました。ところが、これは人体にとって非常に危険な行動であることはわかっていたものの、医学への探求と学生への教育などから許容量を超える放射線を浴び続けたのです。
そして永井の体には無性に眠くなる、おなかが腫れてくるなどの症状が現れ、内科部長から「慢性骨髄性白血病」ということであと「3年の命」と診断されたのです。これが、原爆が投下される2ヶ月前のことでした。
記念館には、主治医の朝長氏が描いた永井隆の血液像スケッチ、血液検索結果などが展示されています。
▲長崎に落とされた原爆の模型
そして、太平洋戦争が終わる直前の1945年8月9日午前11時02分に、長崎県の浦上という場所にプルトニウム原爆(ファットマン)が投下され、浦上の地は灰塵と化しました。この時、永井は長崎医科大学の建物内にいて、彼がいた建物がコンクリート製だったことから、右側頭動脈切断という傷は負ったものの生き延びることができたようです。
しかし、木造の建物は一瞬にして廃塵と化し、至る所で火災が発生。その時、永井の奥さんは残念ながら亡くなってしまったものの、彼は周囲にいる被災した方々の救護活動に邁進。しかし、危篤状態にもなり永井は翌年の1946年に長崎医大教授になるも、病床に臥すことになるのです。
これは寝たきりになった時に診断されている状況でしょうか。お腹が膨れているのが分かります。歩いていないためか、足がだいぶ細くなっています。
永井は、亡くなる前の1950年6月1日に「文化的に国家に貢献した」として、表彰状と菊の紋章入りの銀杯を授与されているんですね。賞状には、当時内閣総理大臣である吉田茂の名前も書かれています!!
上の写真に写っているのは、表彰状っすね!
こちらの写真の右側に写っているのが、菊の紋章入りの銀杯ですね。
その他にも、生まれ故郷である島根県三刀屋町の名誉町民の称号、長崎市名誉市民賞も授与されています。医学の発展や原爆で被災した方々のために不屈の精神力で職務に精進した永井隆。今までこの方の存在を知らなかったのが、何だか申し訳なくなってきた。。
そして、彼は1948年に『如己堂』というお堂で寝たきりの生活を送ることになるのです。如己堂での生活から彼が亡くなるまでに関しては、以下の如己堂の項目で紹介いたします。
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元々は図書館としてスタートした!
1階に関して説明したところで、続いては2階に上がっていくことにしましょう!
2階はこのようになっておりますが、こちらは図書館なんですね。なんで博物館の2階が図書館になっているかというと、実はこの博物館は元々図書館としてスタートしたからなんですね!!
1950年の5月に入院中の博士のお見舞いに来たブラジル在留邦人の宮崎隆栄氏が、博士に図書館建設の話をしたことから永井図書館が誕生したんだそうです。ここが「長崎市立永井図書館」として開館したのが1952年12月のことで、1969年に「長崎市立永井記念館」と改称して、博士の遺品や写真等もあわせて展示するようになったという。
寝たきりの永井が暮らしていた「如己堂」
▲永井が最後の3年間を過ごした「如己堂」
続いては、記念館の外に展示してあるこのお堂についてっす!!こちらは「如己堂(にょこどう)」と呼ばれる建物。ここは永井隆の病室兼書斎でした。「己のごとく隣人を愛せよ」との意味から『如己堂』と呼ばれ、ここで子供達二人と生活していました。
先ほどの永井の生涯に関しての続きになりますが、彼は原爆で被災して大けがを負った後でも被災者の救護活動を行い続け、その後寝たきりとなった後はこの建物の中で生活をしていました。永井はここで寝たきりの生活を送りつつも、十数冊の本を執筆していたんですって。
如己堂で執筆された書籍はこちら。どれも読んだことないので、ちょっとずつ読んでいこ(*’▽’)
記念館の中には、永井が二人の子供と生活していた様子の写真が展示されています。この写真だけを見ると、歯も見えて和やかに暮らしているように見えますが実際はどうだったんでしょうね。
ここで世界中の人々に戦争の愚かさと平和の尊さを発信し続け、1951年5月1日に43歳の若さで永井は永眠することになりました。この如己堂が完成したのは1948年3月のことだったので寝たきりの状態の中、3年もの間ここで生活をしていたんですね。
永井隆の葬儀には2万人近くの方が訪れ、その中には美輪明宏さんもいたそうです。そういえば、美輪さんの実家は日本三大花街と言われる丸山遊廓のエリア内だったそうです。美輪さんのたくましさや世の中を見る目は、あの色街で見かける非日常な光景を小さい頃から見てきたことで培われたと、とある番組でおっしゃっていました。
今現在も、部屋には入れないものの外から見ることはできます。中は本当に狭く、畳二畳分くらいの広さでした。中にはマリア像と十字架などが展示されていますが、これは永井がクリスチャンだったから。
彼はこの中でどのようなことを思いながら、日々を過ごしていたんだろうか。。
盲目の偉人「ヘレン・ケラー」現る!
この如己堂には、世界的に有名な偉人である「ヘレン・ケラー氏」も訪れたことがあったのです。彼女が日本に訪れたのは3回(1回目:1937年、2回目:1948年、3回目:1955年)でした。
▲塙保己一記念館にある銅像
一番最初に訪れた時に彼女が向かったのは、渋谷にある温故学会のビルでした。というのも、彼女は江戸時代に盲目の国学者として活躍した「塙保己一(はなわ ほきいち)」を尊敬していたからなんですね。
塙保己一は、幼くして失明をしたものの、ものすごい記憶力を武器にして古書古本を版木に彫って木版本にして頒布したのです。ヘレン・ケラーは幼い時に母親から塙保己一の偉業と不屈の精神を教わり、彼の存在が心の支えになっていたんだそうです。
▲塙保己一記念館に補完されている版木
今現在も、渋谷には塙保己一記念館があり、ここに大量の版木が保管されています。めっちゃマイナーな博物館だとは思いますが、我々の先人が気づいた偉大な功績が残されており、博物館の方も丁寧に解説をしてくれます。以前に訪問して記事にしていますので、こちらも良ければ参考までに見てみてくださいm(__)m
少し話はそれましたが、ヘレン・ケラーにはそんな背景があったりするわけですが、彼女が如己堂に訪れたのは1948年10月18日であり、日本に2度目の訪問の時でした。彼女が永井の前に姿を現したのは、何も前触れもなく突然の事。永井が彼女と接したのはわずか15分ほどだったようですが、彼はこの出会いに感涙したという。一体、ヘレン・ケラーは誰から永井の存在を知ったのでしょうか??
記念館には、永井と出会った後にヘレン・ケラーから送られてきた手紙が展示されています。彼女は、永井が寝たきりの状態になりながらも
永井隆が執筆した『長崎の鐘』
資料館を出る前に、何か参考文献を買おうと思い手に取ったのがこの『長崎の鐘』という書籍。この本には、長崎に原爆が落とされてから永井隆が周辺の被爆者をどのように手当てしたのか、その過程が綴(つづ)られています。
この書籍はそこまで字数が多くなく結構スラスラ読めるので、この記事を見た方はぜひ読んでみていただければと思います。
さらに、この本には曲の譜面が挟まれているのですが『長崎の鐘』はその後大ヒットした曲にもなり、それだけでなく映画にもなっています。ただし、曲の方も映画の方も当時はGHQの目もあり原爆や被曝に関する内容は描かれておらず、映画の方は永井隆の生涯を描いた作品として製作されました。
ちなみにですが、この映画の脚本には橋田壽賀子さんが携わっているのですよ!!
そして、この本のタイトルにもある鐘とは浦上天主堂の鐘の事です。永井は元々は出雲大社の信徒であってクリスチャンではなかったのですが、長崎に来た時に浦上天主堂があることがきっけでクリスチャンに改宗したそうです。
おわりに
長崎に原爆が落とされてから73年が経とうとしています。今では街は復興を遂げてはいますが、それには多くの先人達の功績があったからなんですな。そして永井隆もその一人で、焼け野原になった浦上で自身も負傷し、妻を亡くしながらも被災者の方々の救護に尽くしたのです。
今回は長崎県の記念館を訪問しましたが、実は記念館は長崎だけではなく島根県にも存在するんですね!島根県の三刀屋町(みとやちょう)という場所が、永井隆が幼少期に過ごした場所だったということのようで、今度島根遠征に行った際には必ず訪問してまた記事にしたいと思います!
と言っても、島根県への遠征はだいぶ先になりそうですけどね~( ;∀;)
参考文献
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詳細・地図
住所 | 長崎県長崎市上野町22−6 |
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営業時間 | 9:00~17:00 (入館は16:30まで) |
休館日 | 12月29日~1月3日 |
入館料 | 個人(15歳以上)100円、団体(15人以上)80円 ※小中高生および、2階図書室の利用は無料です。 |
駐車場 | なし |
電話番号 | 095-844-3496 |
アクセス | 長崎駅前から車で約20分 |
リンク | http://www.city.nagasaki.lg.jp/peace/japanese/abm/insti/nagai/ |