激動の時代を生き抜いたジャーナリストの人生を学ぶべく「徳富蘇峰記念館」を取材した!

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)
今回は徳富蘇峰(とくとみそほう)という偉大なジャーナリストに関する博物館の訪問記です。この徳富蘇峰という人を知っている方はどのくらいいるんでしょうかね??
国民新聞を立ち上げ、長きにわたってジャーナリストとして過ごし戦後にはA級戦犯となるなど波乱万丈の人生を送った蘇峰。そんな彼の人生を学ぶため、博物館がある神奈川県二宮町へと足を運ぶことにしました!!
本記事のポイント

・徳富蘇峰は、政界に関心を持ち国民新聞社を立ち上げたジャーナリスト
・蘇峰の秘書宅があった場所に、徳富蘇峰記念館は建てられている
・すさまじい交流関係があり、記念館には多くの著名人とやり取りした資料が残されている

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住宅街にひっそり佇む記念館

▲住宅街にひっそり佇む「徳富蘇峰記念館」
徳富蘇峰記念館があるのは、神奈川県二宮町。JR東海道線が通る二宮駅から徒歩15分ほどの場所にあります。記念館は閑静な住宅街にひっそりと佇んでおり、私が普段から知の冒険の取材で訪れているような知られざるスポットという感じの博物館でした。
住宅街の中にあるものの、敷地は結構広くこれは邸宅の庭とかに当たるんでしょうか??
その敷地内に佇むこちらの建物が、徳富蘇峰記念館。よくある博物館というよりかは何かの研究所みたいな建物っすわ。入り口も閉まっており、チャイムを鳴らして中の方を呼んで入館するという感じです。
もうこういう雰囲気にはなれましたが、少し入るのには勇気がいるかもしれませんわ(*’▽’)
▲多くの資料に囲まれる館内
館内には2名のスタッフさんがおりました。写真撮影はどこでも大丈夫だという。こういう昔からの資料が残っている場所は資料自体の撮影はダメという場所が多いものの、この記念館では徳富蘇峰が残した資料を様々な形で多くの方にいかしてほしいという方針のようなので、撮影を許可しているとのことでした。
まずはビデオにて徳富蘇峰の生涯を学ぶことに。このビデオは、蘇峰が多くの写真を残しているということでスライドショー形式のビデオを見せていただきました。そしてビデオを鑑賞しながら、スタッフの方に蘇峰に関する経歴やこの記念館の背景などを教えていただきました。

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徳富蘇峰記念館が誕生した背景

▲記念館は秘書だった塩崎の住処に建つ
よく個人に関する記念館があるときは、その方の生家跡にできることが多いですが、今回はそうではないようです。この徳富蘇峰記念館は、蘇峰の住処というわけではなく彼の秘書である塩崎が暮らしていた場所だったそうです。蘇峰は長い間熱海に暮らしており、そこからこの場所にしょっちゅう通っていたそうなんですね。
当時秘書は何人もいたそうですが、A級戦犯になったことで多くが離れていったそうです。しかし塩崎さんは蘇峰から離れることなく秘書として尽くし、それによって今まで蘇峰が持っていた手紙を中心に資料を託して蘇峰が亡くなった13年後にここを記念館にしたんだそうです。
今現在は学生などが訪れることが多いようです。資料が皆さんに使ってほしいということで今の記念館があるという。歴史の解明につながるということで、今現在はホームページにて誰のどのような資料があるかについては公開しているようです。
▲ものすごい数の資料が並べられている
この博物館には、徳富蘇峰に充てられた書簡が約46,000通(差出人数:約12,000人)もあります。明治から昭和の間に活躍した政治家や軍人など皆が知る著名人からなんですね。
さらには、蘇峰の代表作である『近世日本国民史』を含む図書が約10,000冊ほどが展示されています。いや~今回私はここに2時間ほど滞在しましたが、まだまだ見たい資料がたくさんありましたよ!!歴史好きには本当にたまらない記念博物館じゃないっすかね(*’▽’)

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徳富蘇峰の生涯に迫る!

ビデオを見終わった後、スタッフの方としばし談笑。私も知の冒険を長く続けてきたことで、少しばかりは近代史の知識もついてきたようでこのような方々とも様々な話をできるようになったのは、少しでも自分が成長したのかと実感できる点。
蘇峰はなんと95歳まで生き、その生涯を政治に関する事に全うしたということですさまじい交流関係を築いたとのこと。それはお笑い芸人でカラテカの入江をも凌駕するほどの幅の広さなのでは?( ;∀;)
そんな蘇峰の生涯を、ここで簡単ではありますが紹介していきたいと思います!

蘇峰という名は「阿蘇山」からきていた!

徳富蘇峰は、1853年に熊本県に第5子長男として生まれました。ちなみに、「徳富蘇峰」は本名ではなく、徳富猪一郎(とくとみちょいちろう)が本名になります。
本名は徳富猪一郎ですが、後に徳富蘇峰と名乗ることになります。が、その名前にある『蘇峰』は「阿蘇山」から来ているようです。
▲蘇峰が名付けた「大観峰」
ちなみに、阿蘇カルデラの中にある「大観峰」は、蘇峰によって命名されたようです。めっちゃ景色が良くて阿蘇カルデラを一望できるスポットにも、徳富蘇峰が関係しているとは(*’▽’)

ジャーナリストになり多くの交流を持つ

蘇峰は、25歳の時に民友社を設立し、総合雑誌である『国民之友』を創刊。蘇峰は何よりも政治が好きだったようですが、政治家として世の中を動かすよりも新聞記者として世の中を動かしたいという思いがあったようです。
とにかく交流の幅が半端なく、政界や財界人、さらにはスポーツ界にまで交流があったようで、来年2019年の大河ドラマの主人公である金栗四三さん(箱根駅伝の創設者と言われる人物)とも交流があったとのこと。
蘇峰が41歳の時には桂太郎元首相が亡くなったことで政界を離れることになりましたが、政治好きは抜けなかったようです。蘇峰が立ち上げた国民新聞は、その後財政を立て直すために東武鉄道の根津嘉一郎の出資を仰ぎますが、その後二人は喧嘩して蘇峰は国民新聞社を退社することになってしまいます。

多くの著作も出版している

▲蘇峰の代表作『近世日本国民史』
その後、蘇峰は56歳の時から『近世日本国民史』という歴史書を執筆し続けました。織田信長の時代から明治の初期までの出来事を描かれているわけですが、これは明治天皇が亡くなった後に明治天皇の時代を書くために書かれたとのこと。
蘇峰が記した書籍としての特徴は、文章だけでなく絵や地図などを用いながら説明することによって、読者によりわかりやすく伝える工夫が用いられている点などなど。

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大田区に住んでいた家も博物館になっている

▲蘇峰が19年ほど暮らした山王草堂
大正13年、蘇峰が62歳の時には東京都大田区にある「山王草堂」に移り住むことになります。その住処は、今現在は大田区によって管理されており無料で館内を見学することができます。
中はこんな感じですね。ここでも、著名人とやり取りした文通などが展示されています。ただ、ここも周辺住民ですら何の博物館かを認知していない方も多いように、知名度はかなり低い博物館なようです。
建物自体はこじんまりとしていて、結構一瞬で見学が終了してしまうような感じ。近くにある尾崎士郎記念館とかと合わせて見学すると良いかもですね(*’▽’)
▲山王草堂がある「蘇峰公園」
この山王草堂がある場所は、馬込文士村(まごめぶんしむら)と言われているエリア。京浜東北線の大森駅が出来てから別荘地として知られるようになりました。その後、小説家である尾崎士郎がこの地に越してきたことから画家や作家などが集まってにぎやかになった場所。
そのため、この辺には尾崎士郎の記念館などそのような方々の記念館もちらほら見られる場所でもあるのです。山王草堂は蘇峰公園という公園内にあり、周囲は住宅街であるものの緑豊かでとっても落ち着ける雰囲気だったりします。

晩年は熱海にて余生を過ごす

▲「東洋のナポリ」と言われる熱海の夜景
山王草堂に19年ほど住んだ後、蘇峰は熱海へと住処を移します。彼は熱海が大好きで、亡くなるまでの最後の住処として伊豆山にある「晩晴草堂」に住んでいたのです。ただ、住処を移す以前にも蘇峰はたびたび熱海に訪れていたようで、その時には老舗旅館である「古屋旅館」に宿泊していたとのこと。この古屋旅館の館長は蘇峰のことが大好きで、しまいには蘇峰専用の部屋まで作ってしまったほど。
この旅館は、ブラタモリの熱海辺でも出てきた旅館だったり。
熱海は経済界や軍人の方にはかなり人気があった別荘地でした。そもそも、江戸時代から熱海の温泉は好まれていたものの、1934年に東海道線が足柄経由から熱海方面を通るようになってから、さらに多くの観光客などが訪れるようになりました。
私は、遊郭や赤線の調査をしているということもあって「熱海=歓楽街」というイメージが強いですが、坪内逍遥や尾崎紅葉などの著名人たちが別荘を建てるような街でもありました。
蘇峰は、大田区の山王草堂から熱海に移り住んだ後、ここでも勉強を惜しまずに続け、朝5時に起きてお昼ご飯を食べて研究をして昼寝をして、、というサイクルを繰り返す日々だったとのこと。

戦後にはA級戦犯容疑者となる

▲A級戦犯七名の死刑が執行された巣鴨プリズン跡
そして、1941年12月8日に太平洋戦争が勃発。最終的に日本は敗戦して、連合国によってA級・B級・C級の罪になった人たちが裁判によって裁きを受けることになります。そして、徳富蘇峰はA級戦犯容疑者となったのです。
その経緯としては太平洋戦争を言論人として積極的に支援していたため。いわゆる、戦争を支持して煽(あお)ったわけです。蘇峰は、終戦の玉音放送を聞いた後に毎日新聞社の社賓と大日本言論報告会会長の辞表をだしました。言論界の最長老として責任を果たすべく自決を思い立ったものの、戦争の敗北に関して自ら責任と所見を明らかにする必要がありました。
A級戦犯容疑者になったとき、蘇峰は85歳。病のため自宅拘禁になるものの言動は大きく制限されることになります。その後、蘇峰は『終戦後日記』という書籍がでますが、これには自らの心境と終戦後の現実に対して率直な言葉を記録し続けています。
▲敗戦後の思いを綴った『終戦後日記』
『終戦後日記』の刊行後には大きな反響を呼んで増刷もしたとのこと。ただ、偉大なジャーナリストでありながら、さほど名が知られていないのはA級戦犯容疑者になったからかもしれません。太平洋戦争を支持していたことから、今でも彼のことを良く思っていない方も多いそうです。
その後、蘇峰が90歳の時に56歳から書き続けてきた『近世日本国民史』が完成。最後は95歳で熱海にある自宅「晩晴草堂」にて死去。
ウルトラざっくり書くとこんな感じでしょうか?なんせ、明治維新から太平洋戦争の敗戦まで激動の時代を生き抜いたジャーナリストなわけです。なので、彼の生涯を語ると本が何冊もできるほどの文章量になると思いますからね。。
続きはこちら!誰もが知ってる著名人直筆の資料がわんさか展示されているぞ!
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