神奈川県茅ケ崎市の発展に貢献した東洋一のサナトリウム「南湖院」に秘められた歴史とは!?

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)
南湖院今回は神奈川県茅ヶ崎市にあった『南湖院(なんこいん)』という結核療養施設の話です。茅ヶ崎というと、サザンオールスターズとか海水浴というイメージが強いかと思いますが、茅ヶ崎の発展には今回紹介する南湖院が大きく関わっています。
ということで、そんな南湖院に関する背景にまつわる話を以下で紹介したいと思います。
本記事のポイント

・南湖院は結核患者のための療養施設だった
・高田畊安によって設立され、最盛期は五万坪もの広大な面積だった
・戦後は連合国軍に接収され、米軍のキャンプ地になった
・今後は未公開の第一病舎を改築などを経て公開する予定

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南湖院ってどこにあったの?

まずは南湖院の場所から!地図で示す場所にあったわけですが、JR茅ヶ崎駅から海側に向かった場所にあたります。ほぼ海沿いですね!
そんな南湖院は戦後に接収され、結核の療養施設としての歴史は幕を閉じています。今現在はその跡地が太陽の郷(たいようのさと)庭園という施設として三年ほど前から茅ケ崎市と公益社団法人 太陽の郷と共同で庭園が公開されています。
駅から離れているため車でくる形になるかとは思いますが、駐車場がないのがちょっとネック。。
そして庭園以外には、温水プールの施設や太陽の郷という老人ホームがあります。老人ホームは190室もあるとても大規模な施設になっており、これは1979年に高田畊安のお孫さんに当たる方が開設した施設だという。

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なぜ、南湖院は茅ケ崎に?

▲多くの海水浴客が訪れる湘南の海
続いては、なぜ湘南と言われる茅ケ崎に南湖院が誕生したのかについて!今現在、湘南と言えば海ですよね!鎌倉や茅ヶ崎には毎年夏になると多くの海水浴客が訪れる観光地になっています。
また、湘南地方は東海道線が通っており、今では茅ヶ崎-品川間は45分ほどで行けるんですよね!そんなこともあって、この辺りも都心への通勤圏内になり、都心へ通う方々の住宅地としても発展してきました。
だが、時代を遡ると湘南という地域は半農半漁で暮らす閑静な場所でした。そんな湘南は、明治になると長与専斎(ながよ・せんさい)によって海浜地帯と健康が結び付けられ、由比ヶ浜が別荘地になったり鎌倉の海が海水浴の好適地として推奨されていきました。
その後、東海道線や横須賀線が開通するようになると、当時は東京まで二時間ほどの距離になったことから結核療養所が建設されるようになりました。
▲現在も病院が建っている杏雲堂病院跡
その発端になったのは、1896(明治29)年に設立された杏雲堂病院(平塚分院)でした。当時は結核というと不治の病として恐れられており治療法は見つかっていませんでした。そのため、いい空気を吸っていい食べ物を食べるなどの自然療養をすることで病気と戦っていくという方針がとられていたことで、この時期には湘南のような場所に療養施設が建てられていったのです。
▲南湖院の診察室の様子
その後、1899(明治32)年には南湖院と鎌倉の恵風園が設立。以後、鎌倉には鈴木療養所(現鈴木病院)、額田保養院(現額田記念病院)、さらには辻堂には長谷川病院、厨子には湘南サナトリウム(現在は廃院)という感じでどんどん建てられていきました。
しかし、南湖院が建つ場所は北方に風を防ぐ丘がないなど鎌倉の地形に比べたら療養所としては適切ではなかったんですね。何でこの場所に南湖院が出来たのかというと、結局は土地が安かったということでこの場所を購入したそうです。

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管理している財団法人に取材

今現在、南湖院は敷地内の庭は公開しているものの現存する第一病舎は未公開の状態。そのため、もともとは取材というよりかは南湖院がどんな場所かただ寄ってみたかっただけでした。
ところが、受付で色々話してみると、なんと詳しい方が南湖院について案内していただけるとのこと(^O^)
▲南湖院について解説してくれた神奈川さん
そんなこんなで、社団法人 太陽の郷のメンバーである神奈川さんに敷地内を案内していただきながら、南湖院について解説していただきました❗
いや~南湖院のシンボルである第一病舎が未公開の状態ということで写真を撮って終わりかと思っていたのですが、まさか案内してもらいながら解説していただけるとは!行ってみるもんですな(*’▽’)
以降では、案内していただいた内容を踏まえて紹介していきます。

南湖院を徹底解剖してみた!

では、この章では南湖院に関しての歴史などを細かく学んでみることにしましょう!!

5万坪もの広大な療養施設

※「今昔マップ on the web」を元に作成
茅ケ崎市の南部に建設された南湖院。なんと昔は五万坪もの広大な敷地だったそうです。上の地図は1930年代頃の地図ですが、確かに今現在よりも敷地がデカいですな!
上の地図だとどのくらい広いかがわかりかねると思うのでこちらも!現在の地図で今と昔の面積を比較するとこんな感じです。昔の南湖院は昔の地図と見比べておおよそで示していますが、今現在の太陽の郷庭園が一万坪ほどの面積なので、最盛期は五万坪と今よりも五倍の面積だったんですね!
ちなみに、五万坪は東京ドーム約3.3倍(東京ドームの建築面積は約15,000坪)の面積になります!
昔の敷地だった場所には高校や中学校、さらにはたくさんの住宅地が建っています。あと、南湖院時代の当初、海側の地面は砂浜だったそうです。ところが、畊安が防砂林として松の木を植えたことによって、今現在のように緑が広がる平地になっていったそうです。
昔はどんな雰囲気だったのかな~と思っていたら、神奈川さんが昔の写真を持っていてその全容を見せてくれました(*’▽’)
といっても、写真がパノラマ形式でめっちゃ横長なため一枚の写真で表すことができないっすね。。ということで、四分割にして紹介していきます。。
神奈川さんに見せていただいた写真は、実際に五万坪あった当時の写真。今の茅ヶ崎の海岸とは全く異なる景色になっていますね。開けていて住宅は一軒も見あたりません。日よけのパラソルも建っていて、まさに海沿いの療養地って感じの景色ですわ(*’▽’)
上の写真の右上にはうっすら富士山も写っているのですが、ちょっと薄くて見えにくいですかね。。
どえらい建物が建っていますが、この建物が何だったか忘れました。。左奥には丹沢山地が見え、一番高く見えているのが大山詣でで有名な大山です。写真の下部には黒服に身をまとったジェントルマンらしき男性が二人写っているのが妙に気になる。。
今現在は、第一病舎、の3つしか残っていませんが、最盛期はこんなにたくさんの建物が南湖院にはあったんですね!
左奥にみえる煙突はごみ焼却のためのもの、右奥に見える建物は測候所(そっこうじょ)という天候を観測するための建物、真ん中から右にある三角頭の建物は給水塔。さらには、床屋や売店などなどいろんな建物があったんですな。
こちらも茅ケ崎の海側。今では国道134号線が通っていて松も植えられ、住宅も建ち並んでいる海沿いですが、かつてはこんな風景だったんですね。ちなみに、真ん中左寄りの上側に江の島が見えたりも(*’▽’)
こんな感じで今とは全く異なる湘南の地で、五万坪もの

茅ヶ崎の発展にも貢献!

▲南湖院と共に街は発展していった
もともと、茅ヶ崎駅には南口はなく北口しかなかったようです。南湖院は駅の南側にあったことから、北口から迂回して向かっていたそうです。その途中の道は病院道と言われており、その道の整備は南湖院も協力したそうです。
さらには、海水浴客が増えてきたということで別荘も建つようになり、駅の南側にも出口ができるようになりました。その際に南湖院は南側にあった土地五百坪の寄付を申し出たそうです。
南湖院が規模を拡大するとともに、周辺では見舞客が宿泊する旅館が開業していきました。漁民旅館、美容館、松屋、かさ屋など。また、退院後に療養する人たちのための宿泊施設として、富士見館、松香園などが建てられました。
その他には、貸し家や自宅の一室を貸すなど、南湖院があることによって人の往来ができ、住まいが必要になることで収入を得る人たちが出てきたのです。そんな感じで、南湖院は茅ケ崎の街の発展に貢献していったのです。

戦後は米軍に接収された

▲戦後に接収された横浜の風景
1945年8月15日に終戦し、日本は敗戦国になりましたね。その後、連合国軍が進駐して様々な建物を接収していきました。それは南湖院にも当てはまり、接収されると戦車隊のキャンプ(駐屯地)として利用されることになり、キャンプ・チガサキと呼ばれました。
敷地内の粗末な建物は取り壊され、利用できるものは改修され、車輌の整備や保管に必要な建物が建てられていくことに。
▲接収された南湖院時代を描いた小説『その一年』
駐留していた戦車隊は朝鮮戦争で全滅に近い被害を受けたという。また、アメリカ兵から屈辱的な扱いを受けたり、アメリカ兵を相手にする娼婦もいたりしたようで、その様子は山川方夫(やまかわ・まさお)の小説『その一年』で描かれています。
上の写真のように実際に私も『その一年』のPOD版を購入しました。正直、小説ということでどこまでが事実なのかは不明です。が、何となく当時の雰囲気はこの本で感じ取れるのではないかと!短い小説なので、割と短時間で読み切ることができます!

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第一病舎が当時のまま残っている

▲当時の形をそのまま残した第一病舎
では、現在の建物を見てみることにしましょう。もともと南湖院には病舎が14棟建っていましたが、現在残っている病舎は第一病舎のみ。建物を見ると、明治時代のものなのに窓が上げ下げ窓だったりと洋風チックな雰囲気を醸し出している擬洋風建築ですね。
ちなみに、この建物には「竹子室」という別名も!「竹子」とは畊安のお母さんの名前です。
▲窓は、当時では珍しい上げ下げ窓
外装は何度か張り替えているものの、この上げ下げ窓や骨組みなどは当時のまま。三年前に茅ケ崎市に寄贈されているため、現在は市の建物になっています。
その他の建物も紹介することにしましょう。こちらは、もともと「医局」というお医者さんが集まっていた場所。1930(昭和5)年に建てられた建物で、今現在は横にある温水プールの受付や更衣室になっています。
この建物も外装には手が加われているものの、窓や骨組みは当時のままなんだそうです。
最後はこちら。1926(大正15)年頃に建てられたもので、院長室棟つまりは畊安がいた建物になります。今では一般法人 太陽の郷の会議などの用途で使われているという。
あとは、ひょうたん池という池が残っていたり、
関東の富士見100景にも選ばれた場所があったりします。昔と違って雄大には見えないものの、なんとか建物と木の隙間から富士山が見えるそうです。でも、私が訪問した時は曇っていて富士山は見えず。。( ;∀;)
続きはこちら!畊安は、勝海舟と親戚だった!?
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