今回は房総半島の先っぽ、千葉県館山市にあるスポットを取り上げます!
どんなスポットかというと「赤山地下壕(あかやまちかごう)」という地下壕なんですね。千葉県館山市は、東京湾の入り口にあたるということもあり、戦前には館山海軍航空隊が設立されました。
その後、多くの軍関係の施設が経つ中、赤山地下壕という地下壕が掘られることに。今現在は、一般開放されており、内部の一部を見学できるということで調査してきましたぜ~~!!
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いざ、赤山地下壕内部へ!
赤山地下壕があるのは、上の地図の場所。房総半島の先っぽに位置しているということで、アクセス面でいったら良いとは言えない場所っすね( ;∀;)
訪問したのは午前10:00。それなりに早く来たものの、既に結構なお客さんが来ていました。というのも、本日は第一日曜日。
実はこの赤山地下壕は、普段はガイドの案内をしてはいないのですが毎月第一日曜日の午前は無料ガイドを受けることができるんですね!もしかしたら、皆そのタイミングを狙って訪問したのかもしれませんわ( ;∀;)
この建物が赤山地下壕の受付。お金を払って、地下壕で頭をぶつけないようにとヘルメットを受け取って、いざ出陣となります。
受付を済ませると、すぐに次のボランティアガイドが出発するということなので、ちょっと慌ただしくヘルメットを速攻で受け取ることに。
こちらが、今回案内してくれた女性のガイドさん。ガイドの方は数名がスタンバっており、10名くらいの人数で赤山地下壕を周ります。ガイドの方は地元のボランティアの方なのかな?
地下壕の内部はこんな感じ。全長1.6kmのうち250mだけを開放しているのです。 上の地図でいうと、その開放しているエリアは黄色く塗っている箇所になります。
こう見ると、開放しているエリアはほんの一部なんですね。全体は格子状になっており、この形には何か意図があるのかどうなのか。
んで、これからガイドの方に内部を案内していただくわけですが、その前に軍都となった館山の歴史をちょっくら学んでみることにしましょう(*’▽’)
軍都として発展した館山の歴史
館山市の近代史を語る上では、自衛隊の存在は欠かすことはできないのではと思います。今回紹介する赤山地下壕もそうですし、市内には戦争関連の遺構が幾つか今でも残っています。
今では館山市内には海上自衛隊館山航空基地がありますが、その場所は「地震によって隆起した」というちょっと変わった背景があったりするのです。
大正時代の1923年9月11日に関東大震災が起こったことは周知の事実。んで、なんと館山湾はその地震によって隆起。その時に鷹之島と沖の島は陸続きになり、徒歩で渡れるようになりました。
この両島のつなぎ目は広い平坦な原と化し、この原を手入れし滑走路とすることで、1930(昭和5)年6月に海軍5番目の実践航空部隊として館山海軍航空隊が設立されました。
以後、戦闘機、艦上攻撃機、水上偵察機、飛行艇等の基地として使用され終戦まで実戦部隊として、また教育舞台として幾多の将兵を送り出し、戦争末期には幾度か敵機の空襲にあいながらも東都の関門としての守りを果たしました。
この基地の近傍には1941(昭和16)年には教育機関として館山海軍砲術学校及び洲ノ崎海軍航空隊が設置され軍都としての趣を呈し、また館山湾は艦隊の停泊地として使用され、鏡ヶ浦周辺一帯は「要塞地帯」として指定され撮影は禁止され、立ち入り厳禁の地もあり、五万分の一陸測図は民間には手に入らなかったという。
そして、自衛隊があれば歓楽街というのもセットで付いてくるわけです。館山には「自衛隊、消防、UMC(台湾の半導体メーカー)」という言葉があるようで、館山の歓楽街である渚銀座には、主にこれらのお客さんが遊びにくる(来ていた?)とか。
ま、今ではものすんごく閑散としていますけどね。。この渚銀座は南房総で一番の歓楽街とのこと。ま、自衛隊の基地があればそのような遊び場はセットになってくるというのはよくあるケース。
そんな感じで、館山には自衛隊の存在が大きく関わっているんですね!
地下壕内部へ潜入!!
では、軽く館山の歴史を学んだところで、内部に入ってみましょう~~!
この赤山地下壕(あかやまちかごう)は、合計した長さが約1.6kmと全国的に見ても大きな地下壕で、館山市を代表する戦争遺跡の一つになっています。この地下壕が作られた時期ははっきりしていないものの、このような大きな地下壕が1941(昭和16)年の太平洋戦争開戦の前に作られた例はないといわれているそうです。
入り口は付近は非常用の発電所だった
入り口からすぐの場所は、自力発電所の跡だったそうです。自力といってもあくまで非常用の発電所だったそうですけどね。この一角は、壁面がコンクリートで補強されており、コンクリートの土台や床面の鉄筋が残っているとのこと。
1945(昭和20年)2月に、航空隊の正門前の変電所から移転して使用されていたとのこと。
その発電所だった場所には、こんなクボミも現れました。一体何のためにこのスペースが作られたのかというと、変電所電気員の待機所であり、二段ベッドまであったそうです。
10人くらいがここで交代で勤務しており、空襲で爆弾の振動があると、天井の土がサラサラと落ちてきたんだとか。
さらに奥へと進んで行きます。「頭上注意」の張り紙が見えるように、天井がかなり低くなりますね。身長が183cmある私にとっては、なかなか厳しい高さですわ。。( ;∀;)
当時の「がいし」もあったりするよ
どんどん内部へと進んでいきます。ちなみに、地下壕の内部はいたって常温でした。富士山の風穴や氷穴みたいに、中の温度が夏場はすんごく冷えるみたいな感じではないっすね!!
するとこんなものが!!
こちらの天井にはなにか白い筒状のものが四つほど張り付いておりますな!これ、何かというと「碍子(がいし)」です。
碍子(がいし)って何かというとこれですこれ!
がいしとは、「電線とその支持物とのあいだを絶縁するために用いる器具」のことで、この白いものに電球をはめて電気がつくって感じですかね。
その他に何かないかと探していると、緊急用のインターホンが出現!!万が一、ここで何か緊急事態が発生した場合はここのインターホンを使うと事務所と連絡がとれるとのこと。なんか、こういうのが出てくると妙に緊急事態を想像してしまい怖いな。。
ここで地震とかが起きて閉じ込められたりしたら、もうしょんべん漏らすほどの恐怖ですよ。。
ツルハシでひたすら掘ったらしい
しかし壁面を見たらわかりますが、壁面はボッコボコの状態であり、手掘り感が半端ないっす!ツルハシを使って人力で掘ったようですが、これどのくらいの速度で掘り進めたんですかね。
人力で掘ったなんて信じられないっすわ。。
そして、ここの地層は凝灰質砂岩。この「砂」とは海の砂のことで、海底から斜めに隆起してこの岩盤は誕生しており、ここの赤山自体は60m近くもの高さになっているそうです。
凄えなこりゃ!
地下壕を歩いていると地層がくっきりと分かる様子が確認できますが、こんな感じで絵に描いたようなバウムクーヘン状の模様が見れたり( ´ ▽ ` )ノ
そもそもこれって防空壕なの?
ここは赤山地下壕という名称ですが、地下壕と聞くと「防空壕だったんですか?」と思う方は多いんではないかと思うんですよね!
ただし、この施設は防空壕にしてはあまりにも大きすぎますし、さらにはこの地下壕は1階だけではなく、2階、3階、4階とまだ上にも部屋があるとのこと。ただ人が空襲の時に避難するものとは思えない規模。。
先ほども書いたようにこの地下壕は1.6kmもの長さを誇っているということで、何か壮大なものをこの中に作ろうとしてたんですかね?
その辺の背景に関しては、ガイドさんが案内中に色々と説明してくれました。