今回は、福岡県筑前町にある博物館に関する記事になります。今回紹介する博物館は、知名度がかなり低い博物館ではあるもののそこんじょそこらの博物館に比べたらマジで行ったほうがいい大変貴重な博物館『大刀洗レトロステーション』です!
渕上さんという個人が運営する博物館ではあるものの、この方は戦争博物館を一から立ち上げた方であり、世界で唯一、九七式戦闘機の復元を行った方なのです。その壮大なストーリーに関して、以下で説明していきます!
見出し
東洋一の飛行場があった大刀洗
福岡県大刀洗(たちあらい)町は、福岡県の中心部辺りに位置する町。特に目立った観光地はないので全国的にネームバリューは低いんでしょうかね。。
そんな大刀洗には、かつて東洋一大きな規模を誇る陸軍飛行場がありました。
飛行場があった場所には、現在キリンビールの工場などが建ちその面影はほとんど見られなくなっていますが、上の写真の様にかろうじて正門の跡が残っていたりしているんですね。
大刀洗飛行場自体はネームバリューがそこまで大きくはなく、九州でいうと一番有名なのは多くの特攻隊員が出撃した知覧飛行場ですかね。ただし、知覧飛行場は大刀洗飛行場の分校であり、分校はそれだけではなく九州各地や岡山県、さらには韓国に至るまで点在していたそうです。
数で言うと、18もの分校が存在していたんですって!
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大刀洗平和記念館の誕生秘話
そんな大刀洗には、福岡県筑前町立の大刀洗平和記念館があります。この記念館は、この場所では2009年から開館している博物館であり、ここにもともと東洋一の陸軍飛行場があったということで、陸軍関連や大刀洗で起こった空襲に関する内容を主に展示しています。
ただこの博物館は、最初から今のように町が運営して誕生したわけではなく、とある個人の功績から誕生した博物館だったのです。
知覧特攻平和会館での出会い
その博物館を作ったのが、渕上宗重(ふちがみ・むねしげ)という方(以降は渕上館長と書きます)。渕上館長は大刀洗で育った方で、父親の建設会社を引き継いで地元で事業をしていた方でした。
そんな渕上館長が1974年頃に、鹿児島県の方にカメラクラブの旅行に出かけた時のこと。その日は雨が降っており、雨をしのぐためにとある小屋に立ち寄ることに。そこで『大刀洗陸軍飛行学校の分教所』と書かれた看板を目にし、「自分が暮らしている大刀洗の分教所がこんなところにあったのか!」と衝撃を受けたのです。
そう、この場所は多くの特攻隊の方が出撃した知覧飛行場の付近であり、知覧飛行場は大刀洗飛行場の分校だったんですね!
そこで、館長は後に知覧特攻平和会館の初代館長である板津さんに出会うことになります(出会ったときはまだ知覧特攻平和会館は開館していなかった)。この板津さんとの出会いが、大刀洗平和記念館誕生の大きなきっかけになったんですね!
板津さんと話した時に渕上館長が思ったこととしては、「分校の知覧に記念館があって、本校の大刀洗に記念館がないのか・・」ということ。
そんな会話を板津さんと交わし、板津さんから「では、ぜひ大刀洗に記念館を作ってみてはどうでしょう」と言われたのです。
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記念館を作るために街を駆け巡る
大刀洗町で建設業を営む渕上館長。記念館を作る約束をしたものの、その場所を確保しなくてはいけない。そこで、地元の町長にあたってはみたものの、当時は町営で戦争博物館を作るという意識が弱い時代であり、どこにいっても断られてしまったそうです。
それからしばらく経ったある日、大刀洗駅の駅舎が使われなくなったという話をが舞い込んできました。館長は博物館を作る場所に困っていたため、「この駅舎を使えばいいじゃん!」と思い、駅舎を譲り受けることに。その駅舎の中に戦争関連の品を展示する形で大刀洗平和記念館は1986(昭和61)年に誕生したのです。
ちなみに、館長はこのときもずっと自身の建設会社を営みながら、その片手間で記念館を運営し続けていました。。
本当にご苦労様ですわ(⌒-⌒; )
戦争関連の遺品はどうやって集めた?
では、博物館で展示する品はどのようにして集めたのか。
もともと館長は無線機などいくらかの展示できそうな品は所有していたそうですが、それだけでは博物館としてはあまりにも乏しい。。そこで多くの方からの情報をもとに訪れたのが佐賀県のとあるお寺だったのです。
それが、佐賀県吉野ヶ里市にある西往寺というお寺。
このお寺は、近くに目達原(めたばる)飛行場という大刀洗陸軍飛行場の分校があったことで、特攻隊の方が出撃前に一週間ほど待機していた歴史があるんですね!
お寺で特攻隊の方が宿泊をしており、その時に隊員たちが一筆書いたメモ(辞世の句など)や手紙などを多数残していたのです。ただ、これらの資料は米軍に没収されるのを恐れて、畑の中に埋めて隠していたとか。
そんなこともあり、このお寺には多くの戦争関連の資料が残っていて、それを館長が譲り受けたんだそうです。
↓西往寺については以下の記事にまとめてますので、よかったらこちらもどうぞ見てみてくださいねm(_ _)m
その他には、こちらの襤褸(らんる)というパンフレット。襤褸とは「破れたり、壊れたりしているもの」という意味であり、平成になった1990年頃に、いろんな関係者から集められた戦争関連の販売品を載せたパンフレットだそうです。
このパンフレットを見て館長は欲しい品を都度購入していたという。
ただし、この時は渕上家も資金的に厳しかった時。毎月この封筒が送られてくるわけですが、館長が次々と品を購入するため、奥さんは時折届いた封筒をどこかに隠して知らんぷりしていたとか(笑)
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現在は筑前町が管理している
1986年から開館し続けてきた大刀洗平和記念館。ところが、展示品も集まってきて周辺の方々との話し合いでそろそろ町で管理をという話になってきて、2009年に向かいの場所に新しい記念館を建てることになりました。
以上の背景を経て、現在の大刀洗平和記念館はあるわけです。博物館一つにしても、本当に多くのドラマが詰まっているんですな!!
博物館の誕生秘話は一通り理解していただけましたでしょうか?(^ ^)
では、続いてはその平和記念館に展示されているものの中でも、世界で唯一展示されている九七式戦闘機に話を移していこうかと思います!この戦闘機も本当に多くの物語りを秘めた話だったりするのです!
コメント
写真等のエビデンスを織り交ぜながらのアップに共感しました。