目達原飛行場のそばにある佐賀県のお寺「西往寺」に秘められた出撃前の特攻隊員秘話とは!?

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)

今回紹介するのは、佐賀県吉野ヶ里市(旧東背振村)にあるお寺の話です。吉野ヶ里って地名を聞くと「吉野ケ里遺跡」が出てくる方が多いかもしれませんが、今回の記事では全く触れないっす( ;∀;)

今回紹介するのは西往寺(さいおうじ)というお寺なんですが、このお寺は太平洋戦争が勃発していた時は近くに目達原(めたばる)飛行場があったということで、特攻隊の方々が出撃前に一週間ほど待機していたという歴史があるんですね!

そのため、特攻隊の方々が出撃前に残した辞世の句や手紙なども大切に保管されているわけです。

今回は、その西往寺の住職の方にその背景などを取材してきたので、特攻隊の方々がお寺で待機していた時はどのような様子だったなのかを踏まえて以下で紹介していきたいと思います!

本記事のポイント

・目達原飛行場の近くにあったため待機場所になった
・「子犬を抱いた少年兵」の荒木幸雄も待機していた!
・特攻隊員が待機していた座敷がそのまま残っている

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特攻隊についてを簡単に!

今回は太平洋戦争の終盤で日本軍が行った特攻作戦に関する記事になります。太平洋戦争が終戦した1945年から70年以上経つ現在ですが、戦争関連の話題になると特攻隊の話題は時折出てくるかと思います。

数や特攻隊関連の事をちょっくら整理してみますか。。

特攻隊の方々の死者は、「(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると、海軍2,531名、陸軍1,417名の計3,948名。

大津島にある回天記念館

特攻隊に関しては爆弾を積んだ飛行機で敵艦に体当たりするイメージが強いかと思いますが、海から敵艦に突っ込む「回天」「震洋」「㋹艇(まるれてい)」という作戦もありました。

その他には、潜水具を身に着け棒付き機雷で海中から迎撃する「伏龍」もありましたが、訓練中に事故が多発して実践には投入されなかったというケースも。

特攻隊というと、百田尚樹さんの『永遠の0(ゼロ)』という話が本や映画にもなったりもしましたし、まだ特攻隊の生き残りの方々がいらっしゃるので、たまに8月15日が近づくとテレビでも特攻隊の方々の特集や生存者の方の証言などの映像も流れたりしますね。

↑ちなみに、この話では「神風特攻隊」という言葉が出てきますが、永遠のゼロは海軍の話(ただしフィクション)。

特攻隊の名称について
海軍:神風特別攻撃隊(神風特攻隊)
陸軍:陸軍航空特別攻撃隊

このように『神風特攻隊』は海軍の名称であり、陸軍の特攻隊は『陸軍航空特別攻撃隊』という名称になります。

大刀洗平和記念館にある零戦

また、特攻機においても零戦(零式艦上戦闘機)という名称を聞くことが多いかと思いますが、零戦とは海軍の戦闘機であって、陸軍の戦闘機は一式戦闘機(隼)が有名かと思います。

その他にも、志願によって採用された二十歳未満の航空兵の生徒のことを陸軍では『陸軍少年飛行兵(少飛)』と言いますが、海軍では『海軍飛行予科練習生(予科練)』と言ったり。

以上のように、陸軍と海軍は分かれていて呼び名なども各々だったりするんですな。この辺、私も完ぺきに理解しているかというと抜けているところもあったりでややこしかったりします・・( ;∀;)

という感じで軽く特攻隊に関して触れたところで、彼らが特攻前に待機していた西往寺に話を移そうと思います!

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なぜ西往寺が待機場所になったのか

筑前町立「大刀洗平和記念館」

福岡県大刀洗町にあった大刀洗陸軍飛行場は、東洋一の飛行場と言われるほどの規模を誇る場所でした。現在も平和記念館があり、この場所の歴史を語り継いでいるわけですが、この飛行場には多くの分校が存在していたそうです。

大刀洗の分校だった目達原飛行場

地図で一部を示すと上のような感じで、九州など様々な場所に18もの分校があり、それは特攻隊が出撃したことでも知られる知覧飛行場も例に漏れず。そして今回の舞台である吉野ヶ里市には戦時中に目達原飛行場があり、この飛行場でも陸軍少年飛行兵の方々の訓練が行われていたのです。

目達原飛行場だった正門跡

現在は、その跡地の一部が目達原駐屯地となっているものの、飛行場だったことを語る痕跡はほとんど残ってないっす。。名残として残っているのは、上の写真の正門跡ですかね。

この目達原飛行場では、終戦間近になると陸軍少年飛行兵が特攻作戦をするための訓練が行われるようになったんですね。

特攻隊員が待機していた西往寺

そんな目達原飛行場から車で10分弱の場所にあるのが上の写真の西往寺というお寺。そう、何で西往寺が特攻隊員の出撃前の待機場所になったのかというと、特攻の訓練をしていた目達原飛行場から近くにあったからなんですね!

ただ、その事実を知ったのは取材の三日前。飛行機の関係もあって急な取材依頼となってしまったんですが、住職さんに柔軟に対応していただいて取材することができました。

本当に住職さん、ありがとうございましたm(__)m

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住職さんから話を聞いた

お寺を訪問し、まずは特攻隊の方々の慰霊碑に向けてお線香をあげて手を合わせました。

その後、住職さんに自分がブログを書いているなどの取材背景を説明した後、特攻隊の方々がお寺で宿泊していた様子などを中心に二時間近くにわたり取材させていただきました。

手紙や遺品が大切に残されていた

住職さんからいただいた資料

特攻隊の方が一週間ほど待機していた西往寺。人数としては全部で60人の方々が待機しており、53人が特攻出撃して亡くなったそうです。そして待機していた時期は1945年(昭和20)年4月~7月の間でした。

当時しては、住職さんの叔母さんが特攻隊員の方々の食事を運んでいたり、住職さんのお母さんは隊員の方々からも母親のように慕われていたとのこと。過去にはニュース番組などでもたびたび特攻隊員の方々が出撃前にどのような様子で西往寺に待機していたのかを語っていたようです。

福岡県にある大刀洗平和記念館

そして、住職さんから西往寺に残る特攻隊員の方々が書いた手紙や辞世の句などの遺品も見せていただきました。今から74年前に書かれたものが今でもそのまま残っており、写真には撮りませんでしたが一つ一つに目を通してきました。

現在、西往寺残っている遺品は、実は戦争が終わった当時はアメリカ軍に没収されることを恐れて畑の中に埋めて隠していたそうです。

その後は、お寺で保管をしていたものの一時は福岡県にある大刀洗平和記念館にも貸し出していたそうです。この博物館を立ち上げた渕上宗重さんが、「東洋一の飛行場があった大刀洗に飛行場を作りたい」ということで遺品を貸し出したりもしていたそうです。

今まで多くの博物館で遺書や遺品を見てはきたものの、何度見ても感慨深いものがあります。この時の感情をうまく言葉で表現することができないんですが、あの時特攻出撃して亡くなった方が書いたものを、74年経った今でもこうして手に取って見ることができているということだけでも凄いことだな~と。

万世飛行場から特攻出撃

目達原飛行場の跡地

目達原飛行場で訓練した方々はどのように特攻出撃をしたのか?

実は、目達原飛行場では訓練は行われていたものの、ここから沖縄方面へ直接特攻出撃したわけではなく、一旦は万世飛行場に降り立ち、そこで一泊してから出撃したようです。

万世飛行場でいったん降りていた

一旦万世飛行場をはさんだのは、燃料の関係もあってだそうです。この万世飛行場は特攻出撃のために急遽整備された飛行場で四か月くらいしか使われていないことから「幻の特攻基地」とも言われていた飛行場。

西往寺で宿泊・待機していた隊員たちは全部で60名いたそうですが、特攻出撃して亡くなった方は53名。亡くなった方々の詳細を見てみると、年齢幅は17歳から31歳であり、ほとんどが20歳前後の若者。

まだ高校生か大学生くらいの方々が、いったいどのような思いで出撃していったのか。。

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子犬を抱いた少年兵「荒木幸雄」

続いてはとある一人の特攻隊員について。西往寺を紹介するにあたり、荒木幸雄さんの話は欠かすことはできないかと!

皆さんはこちらの写真をご存知でしょうか。子犬を抱いた少年兵を中心とした陸軍特別攻撃隊第七十二振武隊の五人を写した一枚の写真。特攻隊員の写真としてはかなり有名なので、どこかで目にした方も多いと思います。この写真で子犬を抱いている少年は荒木幸雄(あらき・ゆきお)伍長という方で、当時は17歳でした。

実はこの荒木さん、最後は沖縄南部海面にて特攻作戦により亡くなったのですが、出撃する一日前まで一週間ほど西往寺に待機していたのです。

群馬県桐生市に生まれた荒木さん。15歳の秋、1943(昭和18)年に陸軍少年飛行兵に応募。歩兵ではなく、空を飛ぶ航空隊にあこがれていたようだ。そして応募が通り、荒木さんは1943年10月に福岡県にある大刀洗陸軍飛行学校の生徒隊へと配属されることになりました。

一年の課程を半年に詰め込むという過酷な訓練を受けるも、1944(昭和19)年3月には、最高の名誉とされる陸軍航空総鑑賞という賞も受賞。それだけ、飛行機の操縦に長けてた方だったんですね。

万世飛行場で撮られた一枚

荒木さんが所属する第七十二振武隊は、明るい雰囲気から「ほがらか部隊」というあだ名まで自分たちでつけた部隊だったそうな。

たまたまいた子犬をそっと抱き上げてとられたこの写真は、鹿児島県にある万世飛行場で撮られたもの。知覧関連の本の表紙にも使われているため、「知覧飛行場で撮影された」と勘違いが多発しているようなのですが、改めてですがこれは万世飛行場で撮られたものです。

実際に写真が撮られた場所

この写真は朝日新聞の記者が撮ったようなのですが、撮られたのは本来は荒木さんが出撃する二時間前だった時。しかし、天候が悪化したことで直前に一日延びて翌日に特攻へと向かいました。万世特攻平和祈念館を訪問した時に、係りの方から「ここで撮られたと推測しております!」と案内されましたので。

そして、荒木幸雄さんは特攻出撃により5月27日に沖縄南部にて戦死。

西往寺には、特攻隊員の方々に関する多くの遺品が残っており、荒木さん直筆の手紙や辞世の句などもいくつか残っていました。

博物館などに展示すると照明の関係で紙などが変色してしまうものの、中にはまるでさっき書いたかのように綺麗に保存されているものもあり、その遺品の新鮮さに衝撃を受けたりも。

続きはこちら!特攻隊員が待機していた座敷がそのまま残っていた!
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