海からの特攻兵器「回天」に秘められた歴史とは!?

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こんにちわ。

今回の記事は、太平洋戦争中に制作された「回天(かいてん)」という人間魚雷に関する話です。

皆さんは、「回天」という兵器をご存じでしょうか?

これは、あの神風特攻隊でも知られるゼロ戦と同じように、一人の操縦士(搭乗員)を乗せて敵の戦艦に突っ込む特攻機だったのです。

そんな回天に関する話を、簡単にではありますがまとめましたので以下で説明していきますね~~!

本記事のポイント

・回天は二人の青年士官によって考案された
・広島で製造されていたため、基地は瀬戸内海周辺に作られた
・回天の作戦によって100人以上の方々が亡くなった

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大津島にある「回天記念館」

で、今回は特攻兵器だった「回天」に関して記事を書いていくわけですが、知の冒険ではいつも知られざる街の歴史やスポットに焦点を当てて深堀りする記事を書いているのに、何で「回天」を取り上げたのか?

というのも、以前に「回天記念館」という博物館を訪問しましてですね(;’∀’)

なので、その博物館に関する記事を書く前に「回天」に関してまとめておこうかな~と思いまして!

大津島へと向かうフェリー

その回天記念館は、大津島という離島にありましてですね。。そのため、山口県の柳井という場所からフェリーに乗って行かなきゃいけないんすわ(;’∀’)

大津島にある「回天記念館」

というちょっとアクセス難な場所ではありますが、大津島は「回天の島」とまで言われた場所で、ここに回天記念館があるんですね。

館内の様子は次の記事で紹介するとして、その「回天」に関して、ちょっくら学んでみることにしましょう!

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キッカケは太平洋戦争

トラック島を空襲する米軍機

「回天」を作るきっかけとなったのは、1941(昭和19)年12月8日に勃発した太平洋戦争でした。

ハワイの真珠湾を日本軍が急襲したことで開戦となったこの戦争。序盤は日本がイケイケの状態ではありましたが、1942年6月のミッドウェー海戦を機に形成は逆転。物量や質などで圧倒されるし、敵に暗号を解読されたりと、軍の反逆が本格化していきます。

1942年8月に日本軍が飛行場を建設していたガダルカナル島が陥落すると、1944年2月にはトラック島が、6月にはサイパン島が玉砕。

1945年5月の横浜大空襲

周辺の島々が陥落していくことで、連合軍はどんどん本土へと迫ってくることになります。

そして、1944年6月にはB-29による初の空襲となる八幡空襲が発生。日本が大ピンチ状態になるなか、日本軍は形勢逆転を願う策を練ることになるのです。

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二人の青年士官によって考案

本土の外を戦場としてきた日本ですが、時間が経つごとに本土決戦が想定される戦局になっていきました。

このままでは、ヤバい・・。

今まで一度も本土を侵略されず、戦争にも負けたことがない神の国日本。その日本の国土を何が何でも守らなければということで、血気盛んな海軍の若者が先頭に立ったのです。

回天を考案した黒木大尉・仁科中尉

そこで立ち上がったのが、仁科関夫(にしな・せきお)少尉と黒木博司(くろき・ひろし)大尉のお二人。彼らは、黒木大尉が「戦局が悪化するなか、何か画期的な新兵器・新戦法はないか・・」と考えていたときに、呉海軍工廠魚雷実験部で出会った先輩後輩でした。

策を考えていた時に目を向けたのが、高圧酸素が原動力の魚雷(三式魚雷)の改造でした。というのも、戦局が進むにつれ航空機による艦隊決戦になっていったことで魚雷が余りまくってたってのもあったようでして。。

そして、二人は人間魚雷の写真を携えて軍令・軍務局担当官、さらには海軍大臣の嶋田繁太郎に訴え、試作が進むことになるのです。

回天ってなに?

大津島に展示してある「回天一型」

そのような流れがあって誕生した回天なんですが、そもそも、回天って何なんでしょうかね?

回天とは

酸素魚雷を改造したもの。人間が操縦できるように一人が座れる用のスペースを確保して、先頭には爆薬を備え付けており敵の艦隊に突っ込んでいった特攻機。「人間魚雷」とも言われた。

由来
「天を回(めぐ)らし戦局を逆転させる」という意味を込めた黒木大尉の発案による。

簡単に説明するとこんな感じ!

上にも書いてるように、回天は魚雷を改造したものなんですね。

回天の内部

そして、ちょっと上の写真ではわかりづらいかもしれませんが、内部はこんな感じだったようです。

回天は敵艦隊に突っ込む自爆兵器なわけですが、試作段階では万一のことを考えて脱出装置が明示されていました。ところがどっこい、「脱出装置の組み込みは回天の性能を著しく低下させ、実戦部隊が要求する兵器とは程遠いものになる」という黒木・仁科の強い意志もあり、脱出装置の無いまま、1944(昭和19)年7月下旬に有人試験航走を実施することになったのです。

すげぇな、人命よりも性能を優先するのか。。。

戦争中なのでより攻撃性のあるものを作らなきゃいけないのは確かかもしれんが、すごい時代やな。。

実際に戦場へ出るときは潜水艦に四~六基が積み込まれ、敵の艦隊を発見すると一機ずつ発進していました。魚雷なので、後退(バック)は出来ず前進するのみ。また、潜水艦のような潜望鏡ではなく、「特眼鏡」という海面から一メートルばかりしか出ないものを使っていたため、波の荒い時は役に立ちませんでした。。

回天のハッチは、乗艇した搭乗員が内側から閉め、外側から整備員がさらにきつく締めるのが原則でした。噂では「回天のハッチは一度締めたら二度と開かない」という話があったようですが、これ間違いで、各基地で実際に訓練中にハッチを開けて脱出した例があります。

大刀洗平和祈念館にある「ゼロ戦」

これ以外にも、戦争関連の誤った逸話って結構ありますよね。有名な話としては、特攻機に乗って突撃しに行くとき、「片道分の燃料しか入れなかった」という話。ただ、これはほぼ事実ではないようです。

そもそも悪天候や故障で戻ることを考えないといけないし、私の知り合いが特攻隊の方に取材をした際も「基本は満タン」だったという回答だったそうです。

とはいえ、「そういうケースがゼロだったか?」までは私もわかりませんし、レアケースとしてあったかもしれませんけどね。。

話として面白いような内容の方が後世に残り続けるというのは、まぁよくある話ですよね。。

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山口県を中心に訓練基地が爆誕

話を回天に戻しましょう。

黒木大尉と仁科少尉の発案でから回天の兵器採用決定となるわけですが、回天はどこで製造されていたのかというと広島県の呉海軍工廠でした。

ここで回天の急速な生産命令が発せられ、搭乗員募集の傍ら、整備員の訓練と戦争準備が急がれることになるのです。

とはいえ呉氏にあった基地では回天隊を訓練する余裕がなかったため、近い場所に基地を作るべく、新たに山口県中部瀬戸内海を囲むように4つの回天訓練基地が配置されることになりました。

呉市周辺に誕生した基地

その四つの基地とは大津島(山口県)、光(山口県)、平生(山口県)、大神(大分県)でした。

その中でも、大津島は「回天の島」といわれるほど回天に関する逸話が多い島であり、ここで多くの若き青年が回天搭乗の訓練に明け暮れていたのです。

しかも、それは的確に敵の艦隊に突撃するためのもの。

敵の艦隊を鎮めるためではあるものの、それは自らの命を犠牲にしたものというのは何とも。。

魚雷発射試験場跡

大津島基地が開設された1944(昭和19)年、軍令部は「8月中に100基の回天を生産せぇや~!」という緊急至上命令を出すことになります。とにかく早く作りまくって回天を出撃させたかったわけですが、魚雷は爆発の危険性がある乗り物でもあるので、そんなペースで作ることは出来ずじまい。。

そんな感じで製作された回天ですが、搭乗員の方の操縦訓練が今も大津島に残るこちらの魚雷発射試験場の周辺で行われていました。

大津島にある「回天記念館」

そんな回天の島といわれる大津島には、今でも「回天記念館」という博物館があり、回天に関する様々な展示物、さらには回天による特攻隊員の方々の遺書などが展示してあります。

本州から船に乗らないと行けないアクセス難な点はありますが、ここはマジでおすすめのスポット!

次の記事は、こちらの回天記念館を訪問した内容をぶちまける予定ですよん!

平生にある「阿田多交流館」

ちなみに、基地があった平生という場所にも「阿田多交流館」という資料館が今でも残されております。回天記念館ほどではないものの、ここにも当時を思わせる品々が展示されているんですぜ!

ここについても、近いうちに記事にする予定っす!

命を懸けた搭乗訓練

基地が誕生し、大津島では回天の操縦訓練をすべく全国から20歳前後の精鋭たちが大津島に集まりました。

命がけの訓練が繰り返される基地での生活。緊張と厳しさに包まれた日々の中で、搭乗員たちは「敵艦にうまく突入すること」だけを目標に操縦技術を身につけていきました。

しかも回天は魚雷です。飛行機や戦車のようにある程度確立された操作マニュアルがないため、とにかく試行錯誤で搭乗訓練の全てが命がけだったようです。事実、誤って海底に激突して命を落とした方もいたました。

ある搭乗員は、搭乗訓練の際、交通筒から回天内部の明かりを見上げていると、ふと母親の顔を思い出したという。厳しい訓練中のたった数秒の間にも、家族や友人との別れを想像して「こうやって突撃していくのか・・」と、身震いすることもあったそうです。

搭乗員として出撃できるようになるのは、こうした命がけの搭乗訓練を連続して20回くらい行う必要がありました。しかし、回天は兵器としては不備な面が多く、頻繁に故障。。そのため、搭乗員の数に比べて練習可能状態の回天は少なく、整備科員たちが不眠不休のフルスロットル状態で整備していたという。

基地が開設されて数か月間は、基地からの外出は禁止されており、海軍は原則的に「月月火水木金金」と言われていたように、日曜も祭日もない生活。そのような厳しい訓練を絶え、青年たちは戦場へと出向いたのです。

回天作戦の全貌

そんな感じで隊員達は訓練を繰り返していき、戦場へと繰り出すことになります。

回天が最初に戦場で使用されたのは1944(昭和19)年の秋であり、以下のような方法で敵の艦隊へと突っ込んでいきました。

回天の攻撃方法
1. 港湾停泊艦攻撃
回天特攻作戦の開始当初は、泊地などの港湾に停泊中の艦船に攻撃していた。

2. 航行艦
停泊中の艦隊を攻撃していたら米軍が警戒しだしたため、その後は海上を航行中の艦隊に突っ込む作戦へと変わっていった。

初期の作戦では、最前線基地に停泊している艦隊へ突っ込んでいく方法がとられ、菊水隊が1944年11月8日に大津島から出撃。続いて、同基地からは金剛隊も出撃することになります。

停泊中の艦隊に突っ込む作戦は、気付かれにくい日の出前の時間に行われました。発信地から敵に気づかれないようにゆ~~っくりと潜航しながら進んでいき、500mほどの距離に迫ったところで最終観測をした後は、速度を加速させ全速力で敵の艦隊へと突っ込んでいったのです。

日の出前という一番気が緩みやすい時間に水中から突然突っ込んでくるわけですからね。当初、対抗手段のない兵器として米軍は非常に回天を恐れていたそうです。

ところがどっこい、さすがにアメリカも学習して何度もこの作戦にやられるわけにはいかず、停泊中の艦隊に突っ込む作戦は難しくなっていきます。

そこで、その後は移動中の艦隊に突っ込む作戦に変更されました。

移動中の艦隊に突っ込む

今度は移動中の艦隊に激突するということで、難易度アップでございます。。

回天は潜航したまま相手の艦隊に接近していき、500~1,000mほど近づいたところで減速します。それは、敵艦の進む速度と方向から突入進路を算出するため!

そこで、回天の搭乗員は15秒以内に突入針路を算出して、全力で体当たりをするわけです。ここで突っ込むときには角度が大事であり、角度が浅いと突っ込んでも攻撃の威力は浅くなってしまいますし、ときには敵艦が気付いて進路変更をするなんてこともあったのです。

それでも、命中を逃したあとも搭乗員は再度浮上して何度も突入を図っていきました。

そうした回天による特攻作戦によって、どんな戦果を挙げたのか。そして、どの程度の搭乗員が命を落としたのか。ちょっと以下にまとめました。

回天作戦の戦果と戦没者
回天作戦による戦果
・艦隊随伴油送艦「ミシシネワ」撃沈
→ 1944.11.20に菊水隊による攻撃
・弾薬輸送船「マザマ」損傷、歩兵揚陸艇撃沈、輸送船「ポンタス・ロス」損傷
→ 1945.1.12に金剛隊による攻撃
・駆逐艦「アンダーヒル」撃沈
→ 1945.7.24に多聞隊による攻撃
・駆逐艦「アール・ブイ・ジョンソン」撃破
→ 1945.8.4に多聞隊による攻撃
・駆逐艦「トーマス・ニッケル」損傷
→ 1945.8.12に多聞隊による攻撃

回天作戦による戦没者
潜水艦で出撃した回天搭乗員:80名
進出基地にて空襲被弾した回天搭乗員:2名
訓練中に殉職した回天搭乗員:15名
戦後基地にて自決した回天搭乗員:2名
戦没潜水艦に同乗出撃した回天整備員:35名
など・・

こちらは、『人間魚雷回天―命の尊さを語りかける、南溟の海に散った若者たちの真実』の資料に書かれていた数字です。

相手の駆逐艦や弾薬輸送船に打撃を与えることはできたものの、回天作戦によって100名以上の方々が亡くなったんですね。。

光基地跡地にあろ「回天の碑」

この記事を書いているのは2020年ですが、太平洋戦争が終戦してから75年も経ったんですね。今となると、その戦争の記憶も風化されつつあるわけですが、それでも光基地跡などに回天の記憶を語り継ぐ慰霊碑が残されているのです。

綺麗なお花が添えてあり、どなたかがしっかり管理されているんでしょうね。

壮烈な最期を迎えた二名の隊員

原爆が落とされた長崎

1941年に勃発した太平洋戦争ですが、戦局が進んで本土がたびたび空襲されるようになり、とうとうアメリカは1945年8月6日には広島に、9日には長崎に原子爆弾を投下しました、この恐るべき新型爆弾の威力を目の当たりにした日本は、8月15日についに敗戦を宣言するに至ります。。

しかしです、終戦を告げる玉音放送が流れ太平洋戦争が終わりを迎えたものの、回天搭乗員の方々には、その後にもさまざまな物語がありました。

自決した橋口大尉(左)と松尾少尉(右)

上の写真の左側に移っている方は、大津島基地、光基地、平生基地を転任し何度も特攻出撃を望んだ方でした。

しかし、戦争が進むにつれ、橋口大尉は多くの回天隊員に死におくれ、国を護(まも)るという退任を果しえずに敗戦した責任を感じずにはいられませんでした。

そしてポツダム宣言受諾後の8月18日の午前3時、仲間たちと酒を飲んでいた大尉は、酒の匂いが消えるのを待ち、平生の回天特攻基地において自身が乗る予定だった回天の中で真っ白な第二種軍装に身を正し、拳銃で自決したのです。

ただひたすら、祖国守り抜こうとしていた彼に、生への選択はあり得なかったのでしょうか。。

さらには、松尾少尉という方も、終戦から9日経った1945年8月24日に手榴弾を使って大神基地の国旗掲揚台の下で壮烈な自決を遂げました。

今の時代からすると考えられないですが、当時の国を護ろうとする青年にはこういった方々がいたんですね。

私は以前、『日本の一番長い日』という映画をDVDで見たことがありましてですね。この映画は、太平洋戦争が続く中で、とうとう敗戦を受け入れるべく昭和天皇の玉音放送を流す予定だった前夜、玉音放送を録音したレコードを青年将校が奪い、戦争を強引に継続させようとした宮城事件などを描いた映画です。

レコードを奪い、本土決戦となっても戦争を継続したいという血気盛んだった青年将校の様子が物語に登場するわけですが、考えさせられるものがありますわ。。

今の時代の価値観でみてしまうと理解するのかなり難しいとは思いますが、物の考えというか価値観は時代や環境によってこんなにも変わるものなんですね。

ちなみに、私は今まで二人の元特攻隊員の方々とお話をしたことがありましてですね、、お二人が当時のことを語っていましたよ。

「当時は何とも思わなかったね。特攻することで軍神になって靖国に祀られることこそが生きがいだと思ってたから」と。

おわりに

次回は回天記念館に関する記事を

いかがでしたでしょうか。

特攻隊と聞くと、多くの方が「神風特攻隊」を思い浮かべると思いますが、特攻兵器ってまだ他にもあったんですね。。

回天に関して、多少は理解できましたでしょうか??

ということで、次回の記事では、今回書いた内容を踏まえて山口県にある回天記念館を訪問した記事を書いていきたいと思いますので、次の記事まで少々お待ちいただければと思います<m(__)m>

ではでは~

参考文献

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詳細・地図

住所 山口県周南市大津1960
営業時間 08:30~16:30
定休日 毎週水曜日及び年末年始(12/29~1/3)
入館料 大人310円※18歳以下の学生、幼児無料
駐車場 なし
電話番号 0834-85-2310
アクセス フェリーに乗って、馬島港から徒歩10分ほど
リンク https://www.city.shunan.lg.jp/site/kaiten/

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