山口県の「回天記念館」には特攻隊員の肉声や遺書が残されていた!

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)

ういっす!

今回は、題名にある通り山口県周南市にある「回天記念館」という博物館に焦点を当てたいと思います!

今回の記念館は山口県といえども大津島(おおづしま)という島にあることから、アクセスの面がなかなか難ではあるものの、凄~~く学びのある博物館なんですよ!

回天に関しては前回の記事で詳しく書いたので、今回は回天記念館に訪問した記録や記念館に関することを以下にまとめていきたいと思いますよん(*^-^*)

本記事のポイント

・大津島は、回天訓練基地があったことで「回天の島」と言われている
・回天記念館には、特攻隊員の肉声や遺書が残されている
・島には魚雷発射試験場などの遺構が残されている

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フェリーで大津島へ!

今回は、「回天記念館」がメインテーマになるわけです。回天(かいてん)とは、太平洋戦争中にアメリカ軍によって追い詰められた日本の現状を打破しようと、二名の青年将校によって発案された特攻兵器でした。

回天は魚雷を改造したものであり、中に一人座れるスペースを設け、停泊中や移動中の敵艦めがけて突っ込むという特攻兵器。

広島県の呉市で製造されたことから、その周辺に四つの基地が作られ、今回紹介する回天記念館がある大津島では、回天を操縦するための訓練が行われていたんですね。

その辺の回天に関する話は前回の記事にまとめたので、よければこちらもご覧になっていただければ嬉しいです(*^-^*)

↓前回の記事です<m(__)m>

回天記念館の位置

そんな回天の記念館は、山口県周南市にある大津島(おおづしま)という島にあるようでして、さっそく向かったわけですが、「周南市ってどこ?」ってところですよね。

そもそも、山口県は今まで一回しか行ったことがない県ということもあり、下関市とか徳山市くらいしか認識していなかった私。。んで、周南市にある回天記念館は、上の地図の黒矢印で示した場所にあります!

ここに回天記念館があるわけですが、ちょっとわかりづらいので拡大。

船を使う必要がある

拡大するとこんな感じ。

大津島は陸続きになっていないため、徳山駅近くの場所から船に乗る必要があるんですな~~

ちなみに、今回私が回天記念館に訪問したのは2019年4月のこと。4月は九州と山口県をひたすら取材遠征していたため、その一環で訪問したって感じ。なんせ、神奈川県に住んでる私からしたら、この大津島はなかなか行ける機会もないっすからね。。

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往復の乗車券を購入

ということで早速乗船券を購入。往復で1,440円ですね。

大津島へのフェリー

そして乗船。

この日で一番早い便に乗って大津島を目指します。

フェリー内部の様子

船内はこんな感じ。

私はこの近くで車中泊をしてまして、寝起き直後に乗車したって感じでですね。。まだ一日のエンジンがかかっていない状態でしたわよ(;’∀’)

この日は平日ということもあってか人はまばらで、その多くが高齢者の方々。私のように回天記念館を目指す方ばかりではないようで、皆さんは何用で乗船してたんだろか??

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こちらが大津島

フェリーに乗って最初はツイッターを見たりしていたんですが、乗船して数分で大津島が見えてきました!

ここか、ここにかつて回天の訓練基地があった島か・・。

そして乗船して30分かからないくらいでしょうかね~、ようやく大津島に到着し下船。

まだ起床して一時間すら経っていないということもあり、朝に弱い私はまだ眠気が残る状態ではありましたが、ここからは気を引きしめて調査しましたよん( `ー´)ノ

「回天の島」とも言われた

船を降りて早速現れたのがこちらの看板。ようやく回天の島に到着か!

ではでは、早速、回天記念館へと向かうことにしましょ~~

整備工場時代の名残りも

大津島に到着し、目的地である回天記念館へと向かったわけですが、この島には回天訓練基地があったこ頃の遺構がいくらか残されているんですね~!

ということで、それらも確認していきましょ~!

回天整備工場跡

島を歩いてちょっと坂を上ると、上の写真のような平地が現れます。

ここ、現在は大津島小学校という学校なんですが、生徒数が0人のため平成28年から休校となっているんですね。廃校ではないんです。。

んで、この場所は戦時中の1944(昭和19)年9月に回天の搭乗員を育成する基地 を急遽大津島に回天訓練基地を作ることになったため、突貫工事で兵舎や宿舎などが建てられました!

大津島基地の配置図

地図にするとこんな感じ。

この島の西側には、もともと魚雷の発射試験場などが1939(昭和14)年に建設されていました。しかし、近くの広島県呉市で回天の製造が行われたことなどで、この島の魚雷発射試験場だった場所で回天の訓練が行われることになります。

先ほどの写真で見た小学校の場所は、上の地図の赤く塗られた宿舎や兵舎が建てられていた場所。搭乗員の方々はこの場所で寝泊まりを行い、島の西側にある魚雷発射試験場だった場所で回天の訓練を行っていました。

訓練基地だった魚雷発射試験場跡は、回天記念館を訪問した後に行ったので、あとで紹介しますね!

当時のまま残っている建物

宿舎や兵舎があった跡地には、現在でも変電所、危険物貯蔵庫、点火試験場などが当時のままの姿で残されています。

当時のまま残っている「塀」

そこからさらに回天記念館へと歩を進めると、こんなコンクリート塀が現れるんですが、こちらも歴史あるものでして。。魚雷の整備工場と島の人々が行き来する道との間に設けられた遮蔽物。

整備工場と兵舎をつなぐ階段

さらには、こんな階段も!

この階段は、回天搭乗員たちの本部や兵舎と整備工場をつなぐ階段でした。多くの搭乗員たちがこの階段を上り下りしたわけですね。

今は立ち入り禁止になっている様ですけども。。

回天記念館

そしてようやく回天記念館が姿を現しましたね。

戦没者の名が刻まれていた

記念館の手前には、回天作戦で亡くなった方々の名前が刻まれていました。結構グッときます。。こういう光景を目にすると、戦争関連の施設にやってきたと、よりリアルに感じます。

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いざ、回天記念館へ!

回天記念館の外観

いろいろ島に入っても解説が続きましたが、ようやく今回の目的地である「回天記念館」に到着っす!

二階がない、だいぶ平べったい建物ですな。

ではでは、早速館内に入ってみることにしましょう!

こじんまりとした館内

中に入ると、早速館長の方が出迎えてくれて入館料を払うことに。

入館料を払った後は、館長の方に私がブログをやっていて日本の知られざる歴史を調べまくっていることや、神奈川県からはるばるやってきた旨などを話しつつ、この記念館にまつわる背景なども聞かせていただきました!!

そして、こうした戦争系の博物館は写真撮影ができない場所が多いですが、管長さんから「モロに接写しなければ大丈夫ですよ!」と、許可をいただけたこともありがたい<m(__)m>

開館は1968年

回天記念館は、今から50年以上も昔になる1968(昭和43)年に誕生した博物館。基本的には、ご遺族から寄贈されたものを集めて展示されています。

もともとは、より多くの方が来館できるようにということで本州側の徳山に記念館を作る話もあったそうなんですが、ご遺族の方々の意向や歴史的背景を考慮した結果、大津島に建てられることになったそうです。

来館者は年間でいうと1万5000人ほど。連休ともなると一日に200人超の方々が訪れるそうですが、平日とかになると10人ほどの日もあるという。

私が訪問したのは平日だったということもあり、館内にいるのは私ともう一人のお客さんだけ。静かな館内ということもあり、じっくりと展示物を見させていただきました。

特攻に関する博物館というと鹿児島県の知覧が有名ですし、回天ってどのくらいの方がご存じなんだろうか。。とはいえ、これはTwitterのフォロワーの方から教えていただいたんですが、回天をテーマにした『特攻の島』という漫画があるんですってね!

まだ私は読んでないのですが、この漫画、太平洋戦争で特攻隊に志願した若者の苦悩を描いたもので、Amazonの評価も結構高いんですよね。なので、時間ができたときに読んでみようと思っています。

ではでは、ここでいったん記事を区切りますか!

記事の後半では、記念館の中をもっと紹介していき、最後に魚雷発射場跡地も紹介しますね(*´▽`*)

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